歪んだ日常
かつて、私には「エリザ」という名があった。
その名を呼ぶ声は、いつも賑やかな家の中に満ちていた。
広い屋敷ではなかった。だが、窓は大きく、日差しがよく入る。帳簿の匂いと香辛料の匂いが混ざり合い、どこか温かく、落ち着く場所だった。
父は商人だった。
若い頃から頭角を現し、次々と商売を成功させた男。人当たりがよく、誰とでも笑顔で話す。だが、その目の奥には常に計算があった。
「エリザ、お前もいずれ役に立つ」
幼い頃、そう言われたことがある。
優しい言葉ではなかったが、不思議と嫌ではなかった。父なりの期待なのだと、どこかで理解していたからだ。
私は文字を学び、数を学び、礼儀を学んだ。
商人の娘としては、少し過ぎた教育だったかもしれない。だが父はそれを当然のように与えた。
ただ——
その言葉の裏にあるものを、私は知らなかった。
母は、穏やかな人だった。
元はごく普通の商家の娘で、華やかな社交よりも、家の中を整えることを好む人だった。
私に本を読んでくれたのも、季節ごとに花を飾ったのも、母だった。
けれど、家が豊かになるにつれて、母の居場所は少しずつ変わっていった。
父は忙しくなり、家にいる時間は減った。
代わりに、見知らぬ客が増えた。
その中に、ひとりの女がいた。
初めて見たとき、私はただの客だと思った。
よく笑い、よく話し、父の隣に自然に立つ女。
母はその女に何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑う回数が減った。
食卓の空気も、どこか変わった。
誰も何も言わない。
それでも、何かが壊れていくのは分かった。
ある日、私は廊下の角で足を止めた。
扉の向こうから、声が聞こえた。
父と、その女の声。
何を話していたのか、今では思い出せない。
けれど、その時の空気だけは、はっきりと覚えている。
——そこに、母の居場所はなかった。
私は何も言わずに、その場を離れた。
その日から、家の中の景色が少しだけ違って見えるようになった。
それでも、日常は続いていた。
父は相変わらず忙しく、母は変わらず穏やかで、私は学び続けた。
何も変わっていないようで。
けれど、確実に何かがずれていた。
夜になると、灯りの少ない廊下を歩きながら思う。
——この家は、どこへ向かっているのだろう。
まだ、答えはなかった。
ただ、胸の奥に、小さな違和感だけが残っていた。
それが何なのか、私はまだ知らない。
そして——
この日々が、どれほど簡単に壊れるのかも。




