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すべてを奪われた夜


その夜、屋敷はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


豪奢ではないが、手入れの行き届いた調度。

温かみのある灯り。

そして、どこか落ち着かない空気。


夕食の席で、お父様はほとんど言葉を発さなかった。

以前なら、商談の話や王都の噂を楽しげに語ってくださったのに。


「明日も外出なさるのですか?」


私がそう尋ねると、わずかに視線を逸らされた。


「ああ、少し用事があってな」


それだけだった。


お母様は何も言わず、静かに食事を続けていた。

けれど、その指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。


——何かがおかしい。


そう思いながらも、それ以上は踏み込めなかった。


やがて夜になり、私は自室へ戻る。

侍女に髪を整えてもらいながらも、胸のざわめきは消えなかった。


灯りが落とされる。


静寂。


いつもと同じ夜——のはずだった。


鈍い音が響いたのは、その直後だった。


まるで何かが叩き壊されるような、重く不吉な音。


次いで、怒号。


「王命である!扉を開けよ!」


身体が強張る。


意味が理解できない。


どうして、王命がこの家に向けられるのか。


再び衝撃音。

今度ははっきりと、門が破られる音だった。


「お嬢様!」


扉が勢いよく開く。


飛び込んできたのは老執事だった。


その顔は蒼白で、呼吸も乱れている。


「すぐにお逃げくださいませ!」


「何が起きているのですか」


問いかける。


だが、執事は一瞬言葉に詰まり——


「旦那様が……」


そこで口を閉ざした。


その沈黙が、すべてを物語っていた。


——お父様に、何かがあった。


廊下の奥から、金属のぶつかる音と足音が迫る。


執事が私の手を強く引いた。


「こちらへ!」


半ば引きずられるように廊下へ出る。


屋敷の中はすでに混乱に満ちていた。


使用人たちが走り、誰かが泣き叫び、叫び声が響く。


その中を抜け、裏手へと向かう。


途中、開け放たれた扉の向こうに見えた。


——血だった。


床に広がる赤。


倒れ伏す使用人。


喉が締めつけられる。


「お父様は……!」


振り返って叫ぶ。


執事の足がわずかに止まる。


ほんの一瞬。


だが、その沈黙で十分だった。


「……お進みくださいませ」


低く、押し出すような声。


それ以上は語らない。


語れないのだと理解した。


裏口の扉が開かれる。


冷たい夜気が流れ込む。


外には、王都の兵がいた。


紋章入りの鎧。

抜き放たれた剣。


すでに屋敷へ踏み込んでいる。


「反逆の罪により、この家を没収する!」


高らかに告げられる声。


意味が分からない。


反逆など、あるはずがない。


お父様はただの商人だ。

成功はしていたが、それだけの存在。


それなのに——


その言葉を合図にしたかのように、兵たちが動いた。


逃げる者は斬られ、抵抗する者はその場で処刑される。


一切の容赦もない。


その光景を、私は見てしまった。


足が動かない。


逃げなければならないのに。


「エリザ!」


その声に顔を上げる。


——お母様だった。


息を切らし、乱れた姿でこちらへ駆け寄ってくる。


「お母様……!」


駆け寄ろうとする。


だが、その腕を強く掴まれた。


「来てはなりません」


「でも——」


「聞きなさい」


お母様の声は震えていた。


それでも、確かに私を見据えている。


「あなたは、生きなさい」


意味が分からない。


理解したくない。


「お父様は……?」


問いかける。


お母様の瞳が揺れる。


そして、ゆっくりと首を横に振った。


それだけで、すべてが崩れた。


「……いやです」


かすれた声が漏れる。


現実を拒むように。


「走りなさい」


強く背を押される。


「振り返ってはなりません」


その言葉が胸に突き刺さる。


「生きなさい」


それが最後だった。


私は走った。


何も分からないまま。


背後から悲鳴が響く。


金属音。

何かが倒れる音。


振り返りたくなる。


それでも、必死に耐える。


——振り返らない。


涙で視界が歪む。


息が苦しい。


それでも足を止めない。


やがて音が遠ざかる。


気づけば、暗い路地に立っていた。


一人で。


静寂の中で、ようやく理解する。


屋敷は、終わった。


お父様も。

お母様も。

すべて。


そのときだった。


背後に気配を感じる。


ゆっくりと振り返る。


そこに、一人の女性が立っていた。


月明かりに照らされ、静かに佇む姿。


その瞳は、冷静で、すべてを見透かしているかのようだった。


「……見つけたわ」


穏やかな声。


けれど、抗えない響きがあった。


「あなたは、生きるべき子よ」


差し出される手。


迷う余地はなかった。


私は、その手を取った。


——この夜が、すべての始まりになるとも知らずに。

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