第84話『優しさの重さと、見えない境界』
朝。
空気は穏やかに流れている。
変わらない景色。
変わらない日常。
——だが。
「……」
視線が止まる。
隣。
距離は、昨日と同じ。
近すぎず。
遠すぎず。
整えられた距離。
(……これでいい)
そう思う。
そう、思うはずなのに。
(……なんで)
胸の奥に、
小さな重さが残る。
「おはようございます、アリア様」
穏やかな声。
「……おはよう」
短く返す。
その瞬間。
ほんのわずかに、
距離が詰まる。
気づくか気づかないかの範囲。
だが——
確かに、近い。
授業中。
静かな時間。
ペンが紙の上を滑る。
問題を解く。
集中しているはずなのに。
視界の端。
気配がある。
近い。
昨日より、わずかに。
「……そこ」
小さな声。
指がノートに伸びる。
「式、少しずれています」
「あ……ほんとだ」
顔を近づける。
確認する。
その瞬間——
肩が、触れる。
ほんの一瞬。
だが。
「……っ」
小さく息を呑む音。
すぐに、離れる。
「……失礼しました」
声は落ち着いている。
だが。
わずかに、速い。
(……わざとじゃない?)
疑問が浮かぶ。
だが。
否定もできない。
その後。
再び、少しだけ近づく。
今度は触れない。
だが——
距離は、確実に縮まっている。
(……戻ってる)
昨日よりも。
一昨日よりも。
少しずつ。
休み時間。
廊下。
人の流れ。
「アリア様」
すぐ後ろ。
振り向く。
近い。
距離が。
明らかに、近い。
「これ、どうぞ」
焼き菓子。
差し出される。
受け取る。
その瞬間——
指先が触れる。
ほんの一瞬。
だが。
今度は、引かない。
「……どうでしょうか」
距離が近いまま。
問いかける。
「……おいしい」
素直に答える。
それは本当。
味は、確実に良くなっている。
「……よかったです」
その声が、
ほんの少しだけ、
深くなる。
そして——
さらに、ほんのわずかに。
近づく。
(……また)
気づいてしまう。
戻っている。
いや——
昨日よりも、自然に。
昼休み。
中庭。
ベンチ。
座る。
隣。
間を置かずに、座る。
距離は——
近い。
触れない程度。
だが。
ほとんど、隙間がない。
風が吹く。
葉が揺れる。
静かな時間。
「……アリア様」
「何?」
「本日の距離は」
静かな声。
「これで問題ありませんか」
言葉に詰まる。
(……問題)
ある。
ない。
どちらでもある。
「……別に」
小さく言う。
「これくらいなら」
曖昧な答え。
逃げるように。
その瞬間。
ほんのわずかに。
空気が変わる。
「……そうですか」
声が、柔らかくなる。
そして——
肩が、触れる。
今度は、はっきりと。
(……あ)
気づく。
だが。
離れない。
離れられない。
「……暑い」
低い声。
「離れろ」
短く。
直接的。
「問題ありません」
即答。
迷いがない。
「アリア様が許可されていますので」
(……それ言う?)
心の中で呟く。
「……そういう問題じゃない」
少しだけ、低くなる声。
だが。
それ以上は言わない。
沈黙。
風の音。
だが——
距離は変わらない。
午後。
教室。
静かな時間。
(……重い)
ぽつりと、思う。
近い。
優しい。
変わらない。
なのに——
(……重い)
理由は分かっている。
距離。
言葉。
視線。
全部が、
少しだけ、
踏み込んでいる。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離が、近い。
さっきよりも。
ほんの少し。
「少し、お時間よろしいですか」
「……何?」
「放課後」
間。
「少し、ご一緒してもよろしいでしょうか」
言葉が、まっすぐすぎる。
逃げ道がない。
(……どうするのよ)
断る?
できる?
——できない。
「……少しだけなら」
小さく答える。
それしか言えない。
その瞬間。
ほんのわずかに。
表情が緩む。
だが。
すぐに戻る。
廊下。
足音。
止まる。
「……進んだな」
小さく呟く。
距離。
接触。
言葉。
全部。
一段階、進んだ。
「……許されたと思ってる」
短く。
的確に。
「……止めるか」
一瞬、考える。
だが——
「……まだだな」
小さく息を吐く。
夕方。
教室。
静か。
誰もいない。
「……大丈夫」
小さく呟く。
手を胸に当てる。
鼓動が、速い。
「……許されている」
その言葉を、
何度も繰り返す。
「……これくらいなら」
大丈夫。
壊れない。
嫌われない。
だが。
指先が、わずかに震える。
「……もっと」
小さく漏れる。
抑えきれずに。
「……近づきたい」
その言葉は、
静かに、
深く沈んでいった。




