第85話『崩れ始める均衡と、抑えきれない衝動』
朝。
空気は、いつも通り穏やかに流れている。
変わらない景色。
変わらない日常。
——のはずなのに。
「……」
胸の奥が、重い。
理由は、分かっている。
隣。
距離。
近い。
昨日よりも。
確実に。
「おはようございます、アリア様」
「……おはよう」
短く返す。
その瞬間。
肩が、わずかに触れる。
自然な動き。
偶然のように。
だが——
(……違う)
気づいてしまう。
授業中。
静かな時間。
ペンを動かす。
だが。
集中できない。
視界の端。
気配が近い。
近すぎる。
「……そこ」
小さな声。
ノートを指す。
「式、ずれています」
顔を近づける。
確認する。
その瞬間——
頬が、かすかに触れそうになる。
「……っ」
息が止まる。
すぐに、離れる。
「……失礼しました」
声は落ち着いている。
だが。
その後。
距離は戻らない。
ほんのわずかに近いまま。
(……これ)
分かっている。
偶然じゃない。
だが。
指摘できない。
昨日。
自分が言ったから。
「これくらいならいい」
——それを。
休み時間。
廊下。
人の流れ。
「アリア様」
すぐ後ろ。
振り向く。
近い。
距離が。
逃げ場がない。
「こちら、どうぞ」
焼き菓子。
差し出される。
受け取る。
その瞬間——
手が、離れない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
だが——
確かに、止まる。
「……どうでしょうか」
近いまま。
問いかける。
視線が、外れない。
「……おいしい」
少しだけ、遅れて答える。
その瞬間。
ほんのわずかに。
笑みが深くなる。
「……よかったです」
声が、低くなる。
柔らかく。
だが——
重い。
昼休み。
中庭。
ベンチ。
座る。
隣。
すぐに埋まる。
距離は——
ほとんど、ない。
肩が触れている。
はっきりと。
風が吹く。
だが。
離れない。
「……暑い」
小さく言う。
自然に。
「少し、離れて」
一瞬。
沈黙。
「……問題ありません」
静かな声。
だが。
わずかに、低い。
「アリア様が、許可されていますので」
その一言。
重く落ちる。
(……やっぱり)
胸が、締め付けられる。
自分の言葉が。
今、ここにある。
「……それとこれとは別でしょ」
少しだけ強く言う。
初めて。
空気が、止まる。
「……別、ですか」
小さな声。
繰り返す。
「はい」
はっきりと。
今度は、逃げない。
沈黙。
風の音だけが残る。
その後。
ほんのわずかに。
距離が、開く。
だが——
完全には離れない。
午後。
教室。
静かな時間。
(……まずい)
はっきりと分かる。
これは。
普通じゃない。
近い。
重い。
逃げられない。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離が近い。
さっきよりも。
少しだけ。
「先ほどは、申し訳ありません」
小さく頭を下げる。
「少し、近づきすぎました」
(……謝るのね)
少しだけ、驚く。
だが。
「……別に」
軽く返す。
「気にしてない」
嘘。
半分。
「……そうですか」
小さな声。
だが。
その目が——
一瞬だけ、揺れる。
「……気をつけます」
続ける。
丁寧に。
完璧に。
(……まただ)
分かる。
これで終わらない。
廊下。
足音。
止まる。
「……出たな」
小さく呟く。
抑えていたもの。
表に出た。
ほんの少しだけ。
だが——
十分だ。
「……限界が近い」
短く。
確信を持って。
夕方。
教室。
静か。
誰もいない。
「……ダメ」
小さく呟く。
手を強く握る。
「……近づきすぎた」
分かっている。
理解している。
「……でも」
言葉が止まらない。
「……離れたら」
息が浅くなる。
「……また」
その先は、言えない。
沈黙。
長い沈黙。
「……嫌だ」
その一言だけが、
静かに残る。
手が、震えている。
止まらない。
「……壊れる」
分かっている。
それでも——
「……止められない」
その声は、
誰にも届かないまま、
沈んでいった。




