第83話『優しさの選択と、壊れかけの均衡』
朝。
いつもと同じ光。
同じ空気。
同じざわめき。
——それなのに。
「……」
言葉が、出ない。
隣。
保たれている距離。
正しくて。
整っていて。
何も問題はないはずなのに。
(……違う)
ほんのわずかな違和感が、
胸の奥に残る。
「おはようございます、アリア様」
穏やかな声。
「……おはよう」
短く返す。
その瞬間。
距離は変わらない。
昨日と同じ。
触れない距離。
完璧な距離。
——なのに。
(……遠い)
授業中。
ペンを走らせる。
問題を解く。
静かな時間。
「……そこ」
小さな声。
指がノートの端を指す。
「計算、ずれています」
「あ……ほんとだ」
修正する。
それだけ。
触れない。
近づかない。
完璧。
(……これでいいはず)
なのに。
(……どうして)
手が、止まる。
休み時間。
椅子を引く。
立ち上がる。
歩く。
——止まる。
背後。
気配はある。
だが。
来ない。
追ってこない。
距離は、そのまま。
(……やっぱり)
胸の奥が、少しだけ重くなる。
振り返る。
目が合う。
すぐに逸らされる。
追ってこない。
呼ばない。
何も言わない。
(……違う)
小さく息を吐く。
一歩。
戻る。
「……ルナ」
呼ぶ。
「はい?」
すぐに反応。
いつも通り。
「……その」
言葉が詰まる。
一瞬だけ、迷う。
だが——
「さっきの式、もう一回教えてくれる?」
自然な理由。
無理のない言い方。
一瞬。
ほんのわずかに。
目が開かれる。
すぐに戻る。
「……はい」
歩み寄る。
距離が縮まる。
昨日までの“近さ”。
触れそうで、触れない距離。
指がノートの上をなぞる。
「ここです」
落ち着いた声。
だが——
距離が近い。
温度が戻る。
(……やっぱり)
胸の奥が、わずかに緩む。
「……ありがとう」
顔を上げる。
視線が合う。
距離が近い。
そのまま。
ほんの一瞬。
逸らさない。
「……いえ」
小さな声。
だが。
ほんの少しだけ。
深くなる。
昼休み。
中庭。
ベンチ。
何も言わずに、隣に座る。
距離は——
少し近い。
だが。
行き過ぎてはいない。
自然な距離。
「……アリア様」
「何?」
「本日は、距離についてのご指摘はありませんか」
静かな問い。
探るように。
少しだけ考える。
言葉を選ぶ。
「……今くらいなら」
視線を前に向けたまま。
「別にいいわよ」
沈黙。
風が流れる。
その中で——
ほんのわずかに。
隣の空気が、緩む。
「……そうですか」
小さな声。
確かに、柔らかい。
「……戻したな」
低い声。
「……何をですか?」
「距離だ」
短いやり取り。
「……アリア様が許可されましたので」
静かな返答。
「適切な範囲で」
「……それでいいのか」
短く。
少し低く。
一瞬。
言葉に詰まる。
(……いいのか)
分からない。
だが——
「……今は」
小さく。
「これでいい」
言い切る。
午後。
教室。
静かな時間。
(……戻した)
距離。
空気。
全部。
自分で選んだ。
理由は単純。
(……楽だから)
それだけ。
だが——
それでいいのかは、分からない。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離は——
やはり近い。
だが。
今度は違う。
自然だ。
「先ほどは、ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「距離について」
「……別に」
軽く返す。
「そんな大したことじゃないし」
その言葉に。
ほんの一瞬。
目が揺れる。
「……そうですか」
小さな声。
だが。
どこか、安心したように。
廊下。
足音。
止まる。
「……選んだか」
小さく呟く。
距離を戻した。
意図的に。
「……悪くない」
短く。
だが——
視線は変わらない。
「……だが」
そこで止まる。
夕方。
教室。
静か。
「……よかった」
小さく呟く。
手を胸に当てる。
鼓動が、少し速い。
「……戻ってきた」
距離。
空気。
温度。
全部。
少しだけ。
元に戻った。
「……これでいい」
繰り返す。
何度も。
自分に言い聞かせるように。
だが。
指先が、わずかに強く握られる。
「……もっと」
小さく漏れる。
「……まだ、足りない」
その言葉は。
静かに。
沈んでいった。




