第82話『埋められない距離と、零れ始める感情』
朝。
空気は静かに流れている。
何も変わらないはずの景色。
なのに——
「……」
視線が、止まる。
隣。
距離は、昨日と同じ。
きちんと保たれている。
触れない程度。
完璧な距離。
(……ちゃんと守ってる)
それは分かる。
理解している。
でも。
(なんで、こんなに気になるのよ)
胸の奥が、落ち着かない。
授業中。
ペンを走らせる。
問題を解く。
その途中。
「……そこ」
小さな声。
指が、ノートの端を指す。
「計算、ずれています」
「あ……ほんとだ」
修正する。
それだけ。
触れない。
近づかない。
完璧。
(……普通)
普通なのに。
(……昨日の方が、まだ)
思考が止まる。
(……何考えてるの、私)
軽く首を振る。
集中し直す。
だが——
ペン先は、どこか鈍い。
休み時間。
廊下。
人の流れ。
少しだけ、距離が空く。
「アリア様」
呼ばれる。
振り向く。
数歩分、離れている。
(……遠い)
「これ、どうぞ」
焼き菓子。
差し出される。
腕を伸ばして。
触れない距離で。
「……ありがとう」
受け取る。
その一瞬。
指先が、かすかに触れる。
ほんの一瞬。
だが——
「……っ」
小さく息を呑む気配。
すぐに手が引かれる。
「……失礼しました」
早い。
避けるように。
(……そこまで避ける?)
少しだけ、引っかかる。
一口。
「……おいしい」
「……そうですか」
声は穏やか。
だが。
どこか、揺れている。
昼休み。
中庭。
ベンチ。
座る。
隣。
少しして、腰掛ける。
やはり距離はある。
だが——
今日は、少し違う。
「……」
沈黙。
風が通る。
葉が揺れる。
その中で。
わずかに。
距離が、縮まる。
ほんの少し。
気づくか気づかないかの範囲。
(……今)
一瞬、目を向ける。
何もなかったような顔。
「……アリア様」
静かな声。
「はい?」
「……寒くありませんか」
「別に」
即答。
「そうですか」
それだけ。
だが——
さらに、ほんのわずかに。
距離が詰まる。
(……わざとよね)
確信。
昨日と違う。
抑えている。
でも——
抑えきれていない。
「……殿下」
空気が変わる。
少し離れた位置。
「……またか」
短い声。
「偶然ですか?」
「そうだな」
会話は短い。
だが。
その間。
さらに、わずかに。
距離が近づく。
完全には触れない。
だが——
ほとんど、触れている。
(……これ、意味ある?)
心の中で呟く。
「……戻したのか」
低い声。
「何をですか?」
自然な返し。
「距離だ」
一言。
間。
「……指摘されましたので」
淡々と。
「守るべきかと」
(……それ、私のせいね)
少しだけ、胸が重くなる。
「……でも」
小さく。
ほんの小さく。
言葉が落ちる。
風に紛れるように。
「全部守ると……遠いですね」
一瞬。
時間が止まる。
(……え)
顔を向ける。
だが——
何もなかったように、視線は前。
(今の……)
聞き間違いじゃない。
確かに。
言った。
午後。
教室。
静かな時間。
(……どうするの)
考える。
距離。
近いと苦しい。
遠いと落ち着かない。
(……どっちよ)
自分でも分からない。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離は、やはり適切。
だが。
目が、少し違う。
「……何?」
「先ほどの件ですが」
静かに。
「やはり、これでよろしいでしょうか」
問い。
真っ直ぐ。
逃げ場がない。
言葉が詰まる。
(……ダメ)
どちらを選んでも、
何かが崩れる気がする。
「……私は」
少しだけ、視線を逸らす。
「そんなに気にしてないから」
本音。
半分。
「無理に変えなくてもいいわ」
それも、本音。
沈黙。
ほんの一瞬。
だが——
その一瞬で。
空気が、変わる。
「……そうですか」
小さく。
柔らかく。
だが——
ほんの少しだけ。
“深く”なる。
廊下。
足音。
一定。
「……出たな」
小さく呟く。
抑えていたもの。
完全には消えていない。
むしろ——
「……歪んだ形で出てる」
距離を守る。
だが近づく。
触れない。
だが寄る。
矛盾。
「……厄介だな」
だが。
目は逸らさない。
夕方。
教室。
静か。
誰もいない。
「……よかった」
小さく呟く。
手を胸に当てる。
鼓動が、少し速い。
「……嫌われてない」
それだけで。
少しだけ、安心する。
だが——
「……足りない」
ぽつり。
漏れる。
抑えきれずに。
「もっと」
言葉が、続く。
止める。
すぐに。
「……ダメ」
繰り返す。
何度も。
「……壊れるから」
目を閉じる。
だが——
その手は、
少しずつ、強く握られていた。




