第81話『抑えた距離と、歪んでいく優しさ』
朝。
空気は、昨日と変わらない。
光も、音も、すべて。
——なのに。
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
隣。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
距離がある。
(……あれ)
違和感。
昨日までの“近さ”がない。
ほんの数センチ。
それだけのはずなのに——
やけに、遠く感じる。
「おはようございます、アリア様」
穏やかな声。
いつも通り。
「……おはよう」
返す。
自然に。
だが。
どこか引っかかる。
授業中。
ノートを取る。
視界の端。
動きがある。
だが——
触れない。
指先が、来ない。
距離は守られている。
「……ここ」
小さな声。
ノートを指す。
「式、間違っています」
「あ、ほんとだ」
ペンを動かす。
直す。
それだけ。
接触はない。
(……普通)
普通のはず。
それなのに——
(なんで、こんなに気になるのよ)
ペン先が、わずかに止まる。
休み時間。
「アリア様」
呼ばれる。
振り向く。
距離は、適切。
ちゃんと。
一歩分。
「これ、どうぞ」
焼き菓子。
差し出される。
手は、触れない。
「……ありがとう」
受け取る。
食べる。
「……おいしい」
「……そうですか」
声は穏やか。
だが。
どこか、抑えられている。
「……昨日よりいいわね」
少し軽く言う。
「そうですか」
それだけ。
いつもなら、もう少し反応がある。
(……あれ?)
違和感が、増える。
昼休み。
中庭。
ベンチ。
座る。
少しして。
隣に、座る。
だが——
距離はある。
きちんと。
触れない程度。
(……遠い)
昨日までなら、
何も思わなかったはずの距離。
なのに。
妙に、意識してしまう。
風が吹く。
静か。
「……」
言葉がない。
続かない。
(……こんなに静かだったっけ)
横を見る。
いつも通りの表情。
穏やかで。
整っていて。
完璧な距離。
(……なんか)
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……殿下」
視線が動く。
少し離れた場所。
「いらしていたんですね」
柔らかい声。
いつも通り。
「……ああ」
短い返答。
「……今日は、随分と静かですね」
軽い言葉。
だが——
ほんの少しだけ、探るような響き。
「そうか」
それ以上は続かない。
空気は、落ち着いている。
——はずなのに。
(……変)
何かが、違う。
午後。
教室。
静かな時間。
(……おかしい)
ずっと引っかかる。
理由は単純。
距離。
近くない。
触れない。
割り込まない。
完璧。
(……なのに)
落ち着かない。
むしろ。
昨日より。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離は、やはり適切。
「先日の件ですが」
静かな声。
「距離について、ご指摘いただきましたので」
丁寧に。
きちんと。
「……意識しています」
(……ああ)
理解する。
(ちゃんと、気をつけてるのね)
それは、正しい。
間違っていない。
「……うん」
頷く。
それでいいはず。
それで。
終わるはずなのに。
「……何か、不都合でも?」
真っ直ぐな問い。
逃げ場がない。
「……別に」
すぐに返す。
でも。
ほんの少しだけ、遅れる。
「これでいいわ」
そう言い切る。
沈黙。
ほんの一瞬。
「……そうですか」
小さく頷く。
それだけ。
それ以上、何も言わない。
廊下。
足音。
一定。
「……調整したか」
小さく呟く。
今日の動き。
距離。
接触。
全部。
明らかに変わっている。
「……極端だな」
昨日は近すぎた。
今日は遠すぎる。
その振れ幅。
「……不安定だ」
ぼそり。
だが。
それ以上は言わない。
ただ——
観察する。
夕方。
教室。
静か。
「……これでいい」
小さく呟く。
机に手を置く。
距離。
接触。
全部、守った。
ちゃんと。
「……問題ない」
そう言い聞かせる。
だが——
指先が、わずかに震える。
「……近づきたい」
小さな、本音。
すぐに消す。
「……ダメ」
繰り返す。
何度も。
「……嫌われるから」
その言葉だけが、
静かに残る。




