第80話『触れたくない領域と、見え始める歪み』
朝。
窓から差し込む光は、いつもと変わらない。
空気も、音も、全部。
——なのに。
「……」
ペン先が止まる。
ノートの上で、動かない。
(……近い)
視界の端。
すぐ隣。
何も言わなくても、分かる距離。
(昨日より……)
ほんの少しだけ。
確実に。
近い。
「アリア様」
静かな声。
顔を上げる。
すぐ近く。
「ここ、間違っていますよ」
指が伸びる。
ノートの上。
そして——
そのまま、離れない。
一瞬。
(……長くない?)
ほんのわずかな時間。
でも。
気づいてしまった瞬間から、それは“長い”になる。
「……ありがとう」
軽く言う。
その手を、少しだけ避けるようにノートを引く。
すると——
ほんの一瞬。
指先が、追う。
(……やっぱり)
確信に変わる。
授業が終わる。
椅子を引く。
立ち上がる。
その瞬間——
「どちらへ?」
声が落ちる。
すぐ後ろ。
「……ちょっと、外」
曖昧に答える。
本当は。
ただ——
(少し、離れたい)
それだけ。
「では、私も」
間髪入れず。
「……え?」
「ご一緒します」
自然に。
迷いなく。
拒否の余地がない。
(……そうなるわよね)
小さく息を吐く。
否定できない自分がいる。
廊下。
並んで歩く。
いや——
並んでいるというより。
「……近い」
ぽつり。
思わず漏れる。
「はい?」
「いや……なんでもない」
言い直す。
言えない。
言った瞬間、何かが崩れそうで。
中庭。
風が抜ける。
少しだけ、安心する。
(ここなら——)
一歩。
距離を取る。
ほんの少し。
だが——
すぐに、埋まる。
自然に。
迷いなく。
(……ダメだ)
逃げられない。
物理的な話じゃない。
もっと別の。
「……アリア様」
静かな声。
「何?」
「どうかされましたか?」
顔が近い。
覗き込むように。
逃げ場がない。
「……別に」
視線を逸らす。
「少し、元気がないように見えます」
「そんなことない」
即答。
少しだけ、強く。
(……違う)
元気がないんじゃない。
ただ——
(息が詰まるだけ)
「……そうですか」
小さな声。
その一瞬。
ほんのわずかに。
空気が冷える。
だが——
すぐに戻る。
「では、これを」
焼き菓子。
差し出される。
「……また?」
「はい」
当然のように。
「今日も、作りましたので」
受け取る。
断れない。
一口。
「……おいしい」
それは変わらない。
むしろ、良くなっている。
「……そうですか」
その声が、少しだけ柔らぐ。
だが。
次の瞬間。
「……殿下」
空気が変わる。
視線が動く。
少し離れた場所。
「また、いらしていたんですね」
柔らかい声。
だが——
その奥に、何かある。
「……偶然だ」
短い返答。
「そうですか」
にこりと笑う。
だが。
一歩。
さらに詰める。
完全に、触れる距離。
(……わざとよね)
今度は、確信。
「……少し離れろ」
低い声。
「なぜですか?」
即答。
「暑い」
「私は問題ありません」
間。
(いや、私が問題って言ってるんだけど)
言えない。
また。
同じ構図。
逃げ場がない。
「……アリア」
名前を呼ばれる。
少しだけ、救われる。
「……何?」
「どう思う」
また、振られる。
逃げ道がない。
(……やめてよ、ほんと)
どちらにも寄れない。
「……少しだけ」
言葉を選ぶ。
「ほんの少しだけ、離れてもいいんじゃない?」
遠回し。
限界のライン。
その瞬間。
空気が止まる。
ほんの一瞬。
静寂。
「……そうですか」
小さな声。
いつも通り。
変わらない調子。
——のはずなのに。
ほんのわずかに。
温度が下がる。
午後。
教室。
静か。
「……アリア様」
後ろから。
振り向く。
距離は、いつも通り。
「先ほどのことですが」
(来ると思った)
「……なに?」
「ご不快でしたか?」
真っ直ぐ。
逃げ場のない質問。
「……別に」
反射的に言う。
だが。
続ける。
「ただ、ちょっとだけ」
言葉を探す。
「近いかなって」
正直に。
できる範囲で。
沈黙。
数秒。
長い。
「……分かりました」
小さく頷く。
「気をつけます」
その声は、穏やか。
変わらない。
——のに。
どこか。
(……なんか)
引っかかる。
廊下。
足音。
一定。
「……遅い」
ぼそり。
思考が巡る。
今日の一日。
あの一言。
“少し離れてもいい”
それに対する反応。
「……抑えたな」
あえて。
出さなかった。
その違和感。
「……厄介だな」
小さく息を吐く。
夕方。
誰もいない教室。
静か。
「……気をつける」
小さく呟く。
机に手を置く。
ゆっくりと。
「近づきすぎたら、ダメ」
理解している。
ちゃんと。
「……でも」
指が、わずかに震える。
止められない。
「離れたら」
声が、少しだけ揺れる。
「……また、いなくなる」
沈黙。
長い、静かな沈黙。
「……嫌だ」
その一言だけが、
静かに、残った。




