第79話『優しさの境界線と、踏み越える一歩』
朝。
廊下に差し込む光は、昨日と変わらない。
生徒たちの声も、いつも通り。
——なのに。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
(昨日の、あれ……)
頭から離れない。
距離。
言葉。
視線。
全部が、少しずつ噛み合っていなかった。
「アリア様」
その声で、思考が止まる。
振り向く。
すぐ近く。
「おはようございます」
距離が近い。
昨日と同じ。
いや——
ほんの少しだけ、さらに。
「……おはよう」
自然に返す。
だが足は止まらない。
そのまま歩こうとする。
——カツ。
一歩。
横に並ばれる。
ぴったりと。
逃げ場がない。
(……やっぱり、近い)
教室。
席に座る。
少しだけ、意識して距離を取る。
だが——
椅子が引かれる音。
隣。
やはり、同じ距離。
「……ルナ」
「はい?」
「もう少し離れても——」
言い終わる前に。
「寒いですか?」
「……え?」
「それとも、体調が悪いですか?」
覗き込むように、顔が近づく。
「いつもより距離を取られているので」
(……違う、そうじゃない)
言葉が詰まる。
「……なんでもない」
結局、それしか言えない。
「そうですか」
にこりと笑う。
だが——
距離は変わらない。
授業中。
ノートを取る。
視線を前に向ける。
その時——
指先が、触れる。
一瞬。
(……また)
自然すぎる接触。
偶然のようで——
偶然じゃない気がする。
離そうとする。
だが。
ほんのわずかに、追ってくる。
「……ペン、落ちそうでしたよ」
小さな声。
理由を与えるように。
(……そういうことにするのね)
何も言わない。
言えない。
昼休み。
中庭。
ベンチに座る。
深く息を吐く。
(……少し、離れたい)
その瞬間。
「アリア様」
すぐ隣。
やはり、埋まる。
(早すぎる……)
「……ルナ」
言いかける。
だが——
「これ、どうぞ」
焼き菓子。
差し出される。
自然に。
逃げ道を塞ぐように。
「……ありがとう」
受け取る。
食べる。
「……おいしい」
それは本音。
「……よかったです」
ほんの少しだけ、声が柔らぐ。
だが。
その直後。
視線が動く。
「……殿下」
名前は出さない。
だが、分かる。
少し離れた場所。
「来ていたんですね」
柔らかい声。
だが——
距離は変えない。
むしろ。
ほんの少しだけ、近づく。
(……え?)
肩が触れる。
今度は、完全に。
「……そこ、狭いだろ」
短い声。
「問題ありません」
即答。
「アリア様の隣ですので」
間。
空気が、少しだけ重くなる。
(……それ、言う?)
心の中で突っ込む。
沈黙。
風の音。
木の葉が揺れる。
その中で。
「……少し、離れろ」
低い声。
直接的。
「なぜですか?」
すぐに返る。
迷いなし。
「暑い」
短い理由。
「私は問題ありません」
(いや、私が問題なんだけど)
言えない。
挟まれる形。
逃げられない。
「……アリア」
名前を呼ばれる。
少しだけ救われた気がする。
「どう思う」
(え、振る?ここで?)
視線が集まる。
一瞬。
考える。
(どうするのよ、これ……)
どちらかを選ぶような形。
そんなつもりはないのに。
「……別に」
小さく言う。
「このままでいいんじゃない?」
逃げた。
自覚はある。
だが——
それしかできなかった。
その瞬間。
ほんのわずかに。
隣の気配が、緩む。
「……そうですか」
小さな声。
安心したような。
満たされたような。
だが——
どこか、重い。
午後。
教室。
静かな時間。
(……まずいかも)
ぼんやりと思う。
理由ははっきりしない。
だが——
このままだと。
何かが。
崩れる。
「……アリア様」
すぐ後ろ。
振り向く前に分かる。
「少し、よろしいですか?」
「……なに?」
「放課後、少しお時間をいただけますか?」
距離が近い。
逃げ場がない。
「……用事は?」
「特にありません」
微笑む。
「ただ、一緒にいたいだけです」
言葉が、真っ直ぐすぎる。
(……それ、反応に困るのよ)
廊下。
足音が響く。
一定のリズム。
「……踏み込みすぎだ」
小さく呟く。
今日の一日を思い返す。
距離。
接触。
言葉。
全部が一歩、先に進んでいる。
「……自覚がないのか」
それとも——
「分かってやってるのか」
答えは出ない。
だが。
放っておくと。
「……崩れるな」
ぼそり。
誰に向けるでもなく。
夕方。
教室。
赤い光が差し込む。
静か。
「……これでいい」
小さく呟く。
誰もいないはずの空間。
それでも。
声は、やけに残る。
「少しずつでいい」
ゆっくりと。
確実に。
「ちゃんと、近づいている」
目を閉じる。
その手が、わずかに震える。
「……もう、離れません」
その言葉は。
祈りのようで——
どこか、決意のようだった。




