第四話「はじめての教室」
第四話「はじめての教室」
入学式の朝、晴斗は鏡の前で、新しい制服の襟を何度も直した。
探索者育成学校の制服は、紺のブレザーに、胸元に小さな校章がついているだけだった。普通の高校とほとんど変わらない。いくらか拍子抜けしたけれど、母は「似合ってるじゃない」と言って、検査の日と同じように、晴斗の襟を一度だけ直した。
「お父さん、店お願いね」
「おう」
父は作業台から顔を上げ、制服姿の晴斗を一度だけ、上から下まで眺めた。
「……式だけなんだろう。ゆっくりしてこい」
それだけ言って、また手元の花に目を戻した。
日和はもう、小学校へ出かけたあとだった。玄関の靴箱の上に、メモが一枚置いてある。
『お兄ちゃん にゅうがくおめでとう 運は前にわたしたのでだいじょうぶ』
晴斗はメモを畳んで、ブレザーの内ポケットにしまった。
ーーー
校門の前は、新入生と保護者でいっぱいだった。
説明会のときよりも、ずっと人が多い。大きな旅行鞄を引いている生徒もいれば、寮のほうから同じ制服の集団で歩いてくる生徒もいた。聞こえてくる話し声には、ときどき耳慣れない訛りが混じっていた。
「遠くから来てる子も多いのね」
母が感心したように言った。
この辺りでは、適性者は学年に数人しかいない。でも、ここにいるのは全員が適性者だ。晴斗はそのことを、校門をくぐってから、ようやく実感した。
入学式は、説明会と同じ講堂で行われた。校長の挨拶があり、来賓の挨拶があり、在校生の歓迎の言葉があった。どれも、中学の入学式とあまり変わらなかった。
新入生の席から振り返ると、後ろの保護者席に母の姿が見えた。目が合うと、母は小さく手を振った。
少し離れた席に、見覚えのある横顔があった。
椅子に深く腰かけ、表情も変えずに壇上を眺めている。検査会場で隣に座っていた、あの男子だった。
式の途中で、彼は一度だけ、保護者席のほうを振り返った。それから、何もなかったように前へ向き直った。
ーーー
クラス分けの掲示を見て、晴斗は一年二組の教室へ向かった。
中学の同級生だった隣のクラスの女子は、一組に名前があった。廊下ですれ違ったとき、また小さく会釈をされた。
教室に入ると、半分ほどの席がもう埋まっていた。黒板に貼られた座席表で自分の名前を探して、その席に鞄を置く。
「お、隣?」
左隣の席から声をかけてきたのは、日に焼けた顔の男子だった。人懐っこく笑って、自分の机を軽く叩く。
「大塚陽平。よろしく。寮組」
「岸晴斗。よろしく。家から通ってる」
「いいなー、家。俺、昨日寮入ったんだけどさ、まだ段ボール一個も開けてねえ」
大塚がそう言って笑ったとき、教室の後ろのドアが開いた。
入ってきたのは、入学式で見たあの男子だった。座席表を一瞥して、晴斗の前の席に鞄を置く。それから振り返り、晴斗の顔を見て、わずかに眉を上げた。
「お前、あのときの土か」
「……雷の人?」
「加賀直弥」
短く名乗って、加賀は椅子に腰を下ろした。
「岸晴斗」
「ふうん」
検査会場のときと同じ、特に興味もなさそうな相槌だった。それでも、自分のことを覚えていたらしいのが、晴斗には少し意外だった。
「え、知り合い?」
大塚が、晴斗と加賀を交互に見る。
「検査のとき、隣だった」
「へえ。雷ってマジ? すげえじゃん」
「別に」
加賀は前に向き直り、スマートフォンを取り出して画面に目を落とした。それきり会話は途切れた。
ーーー
担任は、四十代くらいの男の先生だった。黒板に大きく『宮原和彦』と書き、出席を取ってから、ぐるりと教室を見回した。
「一年間、このクラスを受け持つ宮原だ。担当は国語。属性は風」
国語、と晴斗は少し意外に思った。
「じゃあ、出席番号順に自己紹介。名前と属性。あとは何か一言」
一番の生徒から、順番に立ち上がっていく。
「火属性です。中学ではバスケ部でした」
そう言った男子が、得意げに指先を立てた。小さな炎が、ろうそくのように灯る。教室がわっと沸いた。
「校舎内での魔法の使用は禁止。初日だから今回は見逃すけど、次はないぞ」
宮原先生がすかさず言うと、男子は慌てて炎を握りつぶした。また笑いが起きた。
水属性、風属性。属性を名乗るたびに、教室のどこかで小さな声が上がる。
大塚の番が来た。
「大塚陽平です。風属性で、寮に住んでます。段ボールはまだ開いてません」
「先生と同じだな。段ボールは今日中に開けろよ」
宮原先生の返しに、教室がまた笑った。大塚は座りながら、晴斗に向かって「怒られた」と口の形だけで言ってみせた。
次は、加賀だった。
「加賀直弥。雷」
それだけ言って、加賀は座った。教室が一瞬だけ静まり、それからひそひそ声が広がった。加賀は、そのどれにも反応しなかった。
晴斗の番が来た。
「岸晴斗です。土属性です。えっと……よろしくお願いします」
言ってから、もう少し何か言えばよかったと思った。右隣の席の女子が、ちらりとこちらを見た。
何人かあとに、光属性の女子が名乗ったときは、教室のざわめきがひときわ大きくなった。それからまた何人か続いて、右隣の女子が立ち上がった。肩のあたりで黒髪を切りそろえた、色の白い女子だった。
「千葉ミラです。水属性です。分からないことが多いので、たくさん教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。同い年なのに、敬語だった。顔を上げて座るとき、目が合った。ミラは、晴斗に向かってもう一度小さく頭を下げた。
晴斗も、慌てて頭を下げ返した。
さっきの声が、まだ耳の奥に残っていた。
どこかで、聞いたことがある気がした。
体育館の、白い仕切りの中。冷たい石の板に手を置いたまま聞いた、あの声。思っていたよりもずっと静かだった、あの声に。
似ている、ような気がする。けれど、あの声を聞いたのは一度きりだ。何と言われたのかも、もう正確には思い出せない。
ミラはもう前を向いて、次の生徒の自己紹介に耳を傾けていた。
聞いてみようか、と一瞬だけ思った。でも、何をどう聞けばいいのか分からなかった。
次の生徒が立ち上がり、晴斗も前に向き直った。
ーーー
自己紹介が終わると、宮原先生は明日からの予定を黒板に書き出した。
「明日は身体測定。身長、体重、視力、聴力。それに加えて、この学校では魔力の状態と、適性の傾向も確認する」
適性の傾向、と晴斗は心の中で繰り返した。説明会のパンフレットの隅に、同じ言葉が書かれていた気がする。
「何をするんですか」
誰かが手を挙げて聞いた。
「明日になれば分かる。痛いことはしないから安心しろ」
宮原先生はそう言って、チョークを置いた。
「明日は身体測定だから、体操服を忘れないように」
魔法の学校でも、身体測定は普通にあるんだ。
晴斗はそう思いながら、連絡帳に『体操服』と書き込んだ。
「それから、最後に一つ。これは今日いちばん大事な話だ」
宮原先生の声が、一段低くなった。チョークの粉を払った手を教卓につき、教室をゆっくりと見回す。さっきまで笑い声の残っていた教室が、すっと静かになった。
「この学校には、もう探索者として活動している先輩がいる。同じ校舎で過ごしていれば、誰がどの配信の誰なのか、そのうち分かってしまうこともあるだろう」
晴斗の頭に、黒いヘルメットと、背中で揺れていた長い髪が浮かんだ。
「分かっても、外で口にするな。家族にも、友達にもだ。SNSに書くのも、校内で撮った写真を載せるのも同じだ。見学の日に聞いた者もいると思うが、入学した以上、これは校則だ」
どこかで、小さく唾を飲む音がした。
「探索者の顔と名前が知られると、本人だけじゃなく、家族まで危ない目に遭うことがある。だから、破った場合は軽くは済まない」
宮原先生は、そこで一度言葉を切った。
「良くて退学。悪ければ、警察の世話になる。探索者の身元を漏らすのは、校則違反である前に、法律違反だからな」
良くて、退学。
さっき指先に炎を灯した男子が、膝の上で手を握りしめていた。隣の大塚も、いつの間にか笑うのをやめていた。
「脅しで言ってるんじゃない。お前たちも、いずれは配信に出る。そのとき守られるのは、お前たち自身と、お前たちの家族だ。お互いを守るための決まりだと思って、覚えておけ」
家族、という言葉に、晴斗は今朝の店先を思い出した。
作業台から顔を上げて、制服姿の自分を上から下まで眺めた父。襟を一度だけ直してくれた母。シャッターの開いた店先には、いつものようにバケツが並んで、花が水を吸っている。毎朝、誰でも入ってこられる場所だ。
ブレザーの内ポケットに、そっと手を当てた。畳んだメモの角が、指先に触れる。
運は前にわたしたのでだいじょうぶ。
自分のことを誰かが知るとき、その人は、あの店のことも知るのかもしれない。父の手元も、母の声も、日和のランドセルも。
晴斗は、内ポケットから手を離した。
前の席からプリントが回ってきた。一番上に、『守秘義務に関する誓約書』と書かれている。
「保護者の方にも読んでもらって、署名をもらってこい。明日、身体測定の前に回収する」
加賀は振り返らないまま、肩越しにプリントを差し出してきた。晴斗はそれを受け取り、一枚を後ろへ回した。
日和はきっと、今日の夜にでも「学校にどんな人いた?」と聞いてくる。
晴斗はプリントを丁寧に畳んで、鞄にしまった。
ーーー
ホームルームが終わると、張りつめていた空気がほどけるように、教室は一気に騒がしくなった。寮組の生徒たちは、荷物の片づけの話で盛り上がっている。
晴斗が鞄を持って立ち上がると、前の席の加賀も、ちょうど席を立つところだった。スマートフォンの画面を見て、すぐにポケットへしまう。
「加賀…は、家から?」
「……ああ」
「僕も。じゃあ、また明日」
加賀は一拍置いてから、「おう」と短く答えた。
昇降口を出ると、校門の脇で母が待っていた。晴斗に気づいて、手を挙げる。
振り返ると、加賀は一人で、駅とは反対の方向へ歩いていくところだった。
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