第二話「進路が変わった日」
第二話「進路が変わった日」
目を覚ましてしばらくのあいだ、晴斗は昨日のことを夢だったのではないかと思っていた。
枕元のスマートフォンを開くと、家族のグループには自分の『土だった』が残っていた。その下に、日和の『ほらね!!福引き!!』が並んでいる。夢ではなかったらしい。
布団から足を下ろす。フローリングはひんやりと冷たいだけで、昨日のような重さは伝わってこなかった。
ーーー
一階に下りると、店はもう開店の準備が始まっていた。
父は作業台で、午前中に届ける花束の下処理をしていた。茎の先を斜めに切り落とし、余分な葉をしごいて落としていく。その手つきは、昨日とも一昨日とも変わらない。母は店先にバケツを並べ、日和はランドセルを背負ったまま、トーストをくわえて靴を履いていた。
「お兄ちゃん、おはよ。土の人」
「その呼び方やめて」
「だって土の人でしょ」
「日和、食べながらしゃべらないの」
店先から母の声が飛んでくる。
いつもどおりの朝だった。晴斗に適性が見つかっても、花は水を欲しがり、配達の時間は変わらず、日和は今日も遅刻しそうになっている。
「晴斗、あのパンフレット、読んだか」
父が手を止めずに言った。
「……まだ。寝ちゃった」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、また一本、茎を斜めに切った。
ーーー
教室に入ると、何人かがこちらを振り返った。
「晴斗、通ったってほんと?」
前の席の栗原が、椅子ごと体をこちらへ向けた。中学の三年間、同じソフトテニス部だった。夏の大会で引退するまで、ほとんど毎日コートで顔を合わせていた相手だ。
「なんで知ってるの」
「三組のやつが体育館でお前見たって。出口でパンフもらってたって」
鞄を下ろす間もなく、周りに何人か集まってくる。
「何属性?」
「土」
「いいじゃん!」
「土って何できんの」
「さあ……」
「さあって、本人だろ」
笑い声が上がった。晴斗も一緒に笑った。実際、分からないのだから仕方がない。昨日、植え込みの土に触れてみたときも、あの重さがほんの少しあるような気がしただけで、何かが起きたわけではなかった。
「栗原は?」
聞いてから、聞いてよかったのか少しだけ迷った。栗原は特に気にした様子もなく、肩をすくめた。
「なんも。しばらく手ぇ置いてたけど、なんにも聞こえなくてさ。『もう手を離して大丈夫ですよ』って言われた」
「……そっか」
「まあ、そういうもんだろ。うち、親もないし」
栗原はそう言って、机の上に頬杖をついた。
「配信やるようになったら教えろよ。コメント送るから」
「やだよ。恥ずかしい」
「なんでだよ。じゃあ自分で探す」
「探さなくていいって」
教室の後ろのほうで、誰かが「いいなー」と言ったのが聞こえた。それきり、話題は昨日の夜の配信のことに移っていった。
学年で適性が見つかったのは、晴斗を含めて三人だったらしい。昼休みには、それも噂として回ってきた。そのうち一人は、隣のクラスの女子だった。話したことはない。
ーーー
「岸、放課後ちょっといいか。進路相談室」
帰りのホームルームのあとで、担任に呼び止められた。
進路相談室は、職員室の隣にある小さな部屋だった。長机の上には、昨日もらったものと同じパンフレットと、見慣れない封筒が置かれていた。封筒の端には『JDA』の文字が印刷されている。
「学校にも、通知が来てな」
担任は封筒を指先で軽く叩いた。それから少し考えて、言い直すように口を開いた。
「おめでとう、でいいんだよな」
「……たぶん」
「たぶんか」
担任は小さく笑って、パンフレットを開いた。
「先生も、十八のときに受けたんだよ。当時はダンジョンの入口まで行ってな。黒い岩に手をついたら、弾かれて終わりだった」
そう言ってから、担任は一つずつ説明してくれた。
探索者育成学校は、この辺りだと県に一校しかないこと。家から通えなくはないが、寮もあること。入学したら、まずは基礎の訓練と授業を受けること。それから、願書の締め切りは普通の高校より少し早いこと。
パンフレットの隅には、小さな字でこう書かれていた。
『入学後、一人ひとりの適性の傾向を詳しく調べ、それぞれに合った訓練を行います』
「岸、前の調査票だと、第一志望は西高だったよな」
「はい」
栗原と同じ高校だった。家から自転車で十五分。特に理由があったわけではない。近くて、みんなが行くから。高校でもまたテニスやるか、と栗原と話したことがあるくらいだった。
「西高のままでも、もちろんいい。変えるなら、一回見てからにしたらどうだ。今度の日曜に説明会があるから、おうちの人と一緒に行ってみるといい」
担任は、以前晴斗が出した進路希望調査票を、長机の上に置いた。
「書き直すなら、来週まででいいから」
ーーー
夕飯のテーブルの真ん中に、パンフレットが置かれていた。
「寮あるって!」
日和がページをめくりながら声を上げた。
「お兄ちゃん、いなくなるの?」
「まだ決めてないって」
「えー、いなくなったら、お兄ちゃんの部屋もらっていい?」
「決めてないって言ってるだろ」
母が「日和」とたしなめたが、その母も、さっきから何度かパンフレットのほうへ視線を向けていた。
「……危ないところなんでしょう、ダンジョンって」
ぽつりと、母が言った。
晴斗は返事に詰まった。危ないことは知っている。配信の中で、探索者が怪我をする場面も見たことがある。ただ、それはいつも画面の向こうのことだった。
「危ないところに行くための学校なんだろう」
父が言った。箸を置いて、パンフレットを手元に引き寄せる。
「父さんも母さんも、ダンジョンのことは分からん。魔法のことも分からん。教えてやれることが、何もないんだよな」
それは、晴斗が初めて聞く父の声だった。怒っているわけでも、困っているわけでもない。ただ、本当にそう思っているのだと分かる声だった。
「分からないのは、晴斗も同じでしょう」
母が言った。
「だから、学校で教わるんじゃないの」
父は少し黙ってから、「そうだな」と頷いた。
晴斗は、皿の上のコロッケを見下ろした。それから、顔を上げた。
「説明会、行ってみたい」
父と母が顔を見合わせた。
「日曜か。店、母さん一人で回せるか」
「回せるわよ。日和もいるし」
「日和、お手伝いする!」
「じゃあ、父さんが行く」
父はそう言って、パンフレットを閉じた。表紙の『探索者育成学校 入学のご案内』の文字を、指先で一度だけなぞる。
「花の配達より、よっぽど分からんところに行くんだな」
誰に言うでもない、小さな声だった。
ーーー
その夜、晴斗は布団の中でスマートフォンを開いた。
検索欄に『土属性 配信』と打ち込む。
いくつもの配信が並んだ。地面から土の壁を一気に立ち上げて、魔物の突進を受け止めている探索者がいた。足元の岩を砕いて、魔物の足場を崩している探索者もいた。コメント欄には『壁かってぇ!』『今の判断神』と流れていく。
こういうのが、自分にもできるようになるのだろうか。
スクロールしていく途中に、草むらばかりが映ったサムネイルもあったが、晴斗は指を止めなかった。
画面を消して、机の上の調査票に目をやる。第一志望の欄には、前に自分で書いた『西高』の文字が残っていた。
晴斗は布団から出て、消しゴムを手に取った。
消したあとの欄に、鉛筆で少しだけ薄く、新しい学校の名前を書き込んでみる。
来週まででいい、と担任は言っていた。薄く書いた文字は、まだいくらでも消せる。
それでも、もう消す気にはならなかった。
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