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90.兆候は三つあって、一つしか分からない

村は、北運河のいちばん上にあった。


サンジュから舟で1日半。


水路が細くなって、最後は歩いて渡れる幅になる。その両岸に、家が42軒。


人は、48人。


シュイが、門のところで足を止めた。


「言っとくけど、金は出ねえぞ」


「聞いた」


「あたしが呼んだんじゃないからな」


「ああ」


彼女は、それ以上何も言わずに、先に入っていった。


案内するとは、一度も言わなかった。


だが、歩く速さを、こっちに合わせていた。


   ◇


犬は、3匹やられていた。


飼い主は、鎖だけを取ってあった。


首輪の内側に、血が乾いている。


だが、毛がない。


骨も、ない。


俺は、地面を見た。


引きずった跡がない。


——運ばれてはいない。


「いつですか」


「先月の、月が細いころだ」


老人が答えた。


「そのあとも、2回。どっちも、夜が明ける前だ」


「見た人は」


「わしが見た」


いちばん奥の家から、小さい老婆が出てきた。


背が、リノより低い。


「3つおった」


彼女は、指を3本立てた。


「人の形で、人ではない。角が生えて、腕が膝より下まである。歯が、笑うたように並んどる」


——確定した。


聞き違いようがない。


「音は、ありましたか」


「なかった」


彼女は、そこで初めて、こっちの顔を見た。


「音がないのが、いちばん怖い」


   ◇


その夜、俺たちは水路の端に伏せた。


俺、ラス、リゼ、リノ。


シュイが、頼んでもいないのに横に伏せていた。


「危ないから、下がってくれ」


「下がったら、見えねえだろ」


「見てどうするんだ」


「見て、覚える」


——この子は、そういう子だ。


夜明けの、少し前。


水面の色が変わった。


濁ったのではない。


水が、下から押し上げられている。


そこから、出てきた。


3体。


背は人より高い。腕が長い。角がある。


肌は、灰を塗ったような色で、目が2つとも白い。


そして、音がない。


足が水を踏んでいるのに、音が立たない。


——羅刹兵。


ゲームの中では、何千体も斬った。


湧く場所が決まっていて、経験値が薄くて、数だけが多い、雑魚だ。


雑魚だったのは、俺の格が900あったころの話だ。


いま、あれは、この村の全員を殺せる。


「リゼ」


「うん」


「右のやつの、喉」


矢が、飛んだ。


1体が、仰け反った。


仰け反った先に、俺がいる。


斬った。


——そして、そこで、村の連中が息を呑んだ。


斬られた体が、倒れなかったからだ。


内側へ、縮んだ。


腕が細くなり、胴が細くなり、糸のようになって、地面に吸い込まれた。


3つ数える間もない。


跡には、何も残らない。


——「回収」。


そう呼ばれていた。


攻略掲示板の、羅刹兵の項の下のほうに、1行だけあった。


『死体が残らない。ドロップもしない。通称:回収』


理由は、誰も書いていなかった。


誰も気にしなかったからだ。


雑魚が消える理由を調べる人間は、いない。


俺も、調べなかった。


「……骸が」


老婆の声がした。


「骸が、残らん」


彼女は、杖を落とした。


落としたことに、気づいていなかった。


村の男が3人、後ろへ下がった。


1人は、尻餅をついた。


——鎖しか残らなかった犬の意味が、いま、全員に通じた。


俺は、答えなかった。


答える前に、残り2体が動いていた。


2体目は、ラスが割った。


甲殻はない。だから、斧は刺さりすぎた。


深く入りすぎて、抜くのに半拍かかった。


その半拍に、3体目が跳んだ。


跳んだ先に、棍が入った。


リノだ。


膝の外側。


3体目が、片膝をついた。


「ノルンさん」


掠れた声が言った。


「この子、右の膝が、他より細いです」


——見ている。


初見の魔物の、左右の脚の太さの違いを、跳んでいる最中に見ている。


「合ってる」


俺は、3体目の首を落とした。


同じように、糸になって消えた。


四半刻、待った。


4体目は、出なかった。


俺は、水路の縁に膝をついて、水を掬った。


匂いを嗅いで、指で擦った。


濁ってはいる。だが、土の濁りだ。


紅くはない。


——まだ、2つ目は来ていない。


「ノルン」


リゼが、横に来た。


「あれ、強かった?」


「弱い」


「じゃあ、なんで怖い顔してるの」


「弱いのが、無限に出るからだよ」


俺は、立ち上がった。


「1体なら、この村の誰かでも勝てる。100体出たら、村はなくなる」


   ◇


空が白んでから、村の広場で話した。


「あれは、羅刹兵といいます」


名前を言った瞬間に、老婆の肩が動いた。


「……なんと言うた」


「羅刹兵です」


彼女は、口の中で、何度かその音を繰り返した。


繰り返してから、首を振った。


「知らん。その言い方は、知らん」


——通じない。


俺の持っている名前は、この土地では鳴らない。


「あれは、ある場所の内側にしか湧きません」


俺は、そう言い直した。


「外に出てきているということは、内側が開きかけています」


「内側とは」


「柱です」


その言葉は、通じた。


老婆の顔が、はっきり変わった。


広場の48人が、いっせいに静かになった。


   ◇


シグルドが着いたのは、その日の夕方だった。


北の男は、船を降りて、村の門をくぐって、まず空を見た。


それから、水路を見た。


そして、俺を見て、一言だけ言った。


「近いな」


「近いです」


「兆候は、いくつ出た」


「1つです」


シグルドは、頷かなかった。


「北では、3つだった」


彼は、低い声で言った。


「霜の使徒。地下水の凍結。鳥が北を避ける。3つとも揃って、やっと動いた」


「……3つ」


「柱によって、出るものは違う。だが、数は3つだ」


彼は、そこで、はっきり言った。


「おまえの持っとる手順に、残り2つは書いてあるか」


——書いていない。


俺の頭の中には、925ぶんの手順がある。


羅刹兵の湧き方も、ラーヴァナの行動も、討伐時間も、形態の数も入っている。


だが、「覚醒の兆候」という項目は、ゲームに存在しない。


ゲームのレイドボスは、いつでもそこにいた。


起きるとか、眠るとか、そういう概念がなかった。


「ありません」


「なら、こっちにある」


シグルドは、老婆のほうを見た。


「北にもいた。職で継ぐやつらだ。家ではなく、職で継ぐ」


「……柱守(はしらもり)」


老婆が、そう言った。


「この土地にも、おった」


「おった?」


「いまは、おらん」


彼女は、痩せた手で、南の方角を指した。


黒鵬帝国の方角だ。


「10年前に、みな連れていかれた。歌うたと言うて、縄をかけられた」


「歌」


「柱守は、書かん」


老婆は、当たり前のことを言う口調で、そう言った。


「書けんのではない。書かんのじゃ。歌で継ぐ。わしらは、聞かされるだけで、覚えとらん」


「1つでも、覚えてませんか」


彼女は、しばらく黙って、それから、細い声で歌った。


節は、こうだ。


『——井は紅(あか)う濁り、十日おなじ夢を見る』


それだけだった。


「続きは」


「知らん」


彼女は、首を振った。


「その先は、柱守しか歌わん」


   ◇


その夜、俺は紙に3行書いた。


『兆候① 羅刹兵の先触れ ——出た』


『兆候② 井が紅く濁る ——?』


『兆候③ 十日、同じ夢 ——?』


書いてから、しばらく見ていた。


1つは、俺の知識だ。


2つは、歌にしか残っていない。


火山の竜のときも、氷原の巨人のときも、同じ形だった。


攻略情報と、現地の口伝が、半分ずつ正解を持っている。


——どちらか片方では、届かない。


「生き残りは」


俺は、老婆に聞いた。


彼女は、指を1本だけ立てた。


「ひとり、と聞いとる」


「名前は」


「タン・ウェン。わしより2つ下じゃ」


「どこですか」


老婆は、答えなかった。


答えたのは、シュイだった。


広場の隅で、膝を抱えたまま、彼女はこう言った。


「鉱山だよ」


「鉱山」


「帝国の、罪人を掘らせる鉱山。うちの村からも、3人行った」


彼女は、顔を上げなかった。


「誰も、帰ってきてない」


   ◇


舟で戻る間、俺は考えていた。


必要なものが、3つある。


1つ、残り2つの兆候。これは歌にしかない。歌は、鉱山の老人の中にしかない。


2つ、座の位置。羅刹兵が湧いた場所から逆算できるが、まだ点が足りない。


3つ、頭数。


——300人だ。


思い出したくない数字が、頭の底から浮いてきた。


ゲームのラーヴァナは、24人レイドではない。


推奨Lv800。300人レイド。平均討伐時間5時間08分。


24人でも、この世界では2年かかった。


300人を、どこから連れてくるのか。


俺は、舟の縁に肘をついて、水を見ていた。


水は、まだ濁っていない。


「ノルンさん」


相馬が、板を膝に置いたまま言った。


「顔に出てますよ」


「出てますか」


「北のときと、同じ顔です」


彼女は、半拍遅れて、少し笑った。


「あのときは、24人でしたね」


「はい」


「今度は、何人ですか」


俺は、答えなかった。


答えなかったことで、彼女には伝わったらしい。


彼女は、それ以上聞かずに、板に線を1本引いた。


 Lv.560


——2つ、動いていた。


3体だ。しかも、格は70あるかないかだ。


この帯で3体なら、本来は1つも動かない。


——3体では、数えたことにならない。


俺は、そう思って、そこで考えるのをやめた。

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