91.名簿に斧が増える
北運河の10日目に、俺は数えに行った。
行くつもりはなかった。
だが、朝、宿の前に人が20人立っていた。
掲示板の前にいた連中だ。全員、覚えている顔だった。
「数えるんだろ」
年かさの男が言った。
「数えます」
「なら、一緒に行く」
——日当126枚ぶんの立会人が、勝手に増えていた。
◇
北運河の浅瀬に、板を渡して覗いた。
水蜥蜴は、岸の石の裏に張り付く。
数えるときは、石を起こさない。起こすと逃げて、数が狂う。
上から影を落とさないように、腹這いになって、水面越しに数える。
「……いる」
誰かが言った。
「いるぞ! 戻ってる!」
20人が、いっせいに覗き込んだ。
影が落ちて、半分逃げた。
「起こさないでください」
俺は、そう言って、自分の数えた数を言った。
「38です」
「38! 3匹が38だ!」
歓声が上がった。
上がったが、俺は立ち上がらなかった。
——38。
合わない。
3匹から9日なら、50前後になるはずだ。
38は、少ない。
「どなたか、途中で入りましたね」
歓声が、止まった。
20人が、顔を見合わせた。
「……なんで、そう思う」
「数が12足りないからです」
俺は、水面を指した。
「湧きは、残っている数から増えます。種が3匹なら9日で50前後。いまが38なら、種は2匹だった計算です」
「1匹、獲られたのか」
「はい」
「9日のうちの、いつだ」
「3日目か、4日目です」
俺は、指で線を引いた。
「早い時期に1匹減ると、そのあとの9日ぶんが全部薄くなります。遅ければ、差はもっと小さい」
20人が、静かになった。
後ろのほうで、若い男が、下を向いた。
「……3日目だ」
彼は、小さい声で言った。
「腹が減ってた。1匹だけだ。1匹だけなら、いいと思った」
誰も、殴らなかった。
代わりに、年かさの男が言った。
「兄ちゃん。1匹が12匹になるってのは、どこに書いてある」
「書いてません」
「あんたの本にもか」
「載せる予定です」
——そこで、20人が俺を見た。
さっきまでと、目の色が違った。
誰も「ノルン先生だ」とは言わなかった。
だが、誰も「詐欺師だ」とも言わなかった。
◇
その日のうちに、ギルドが掲示を出した。
『北運河 九日の休み 試行』
書いたのは受付の書記で、根拠の欄には、こうあった。
『種を残せば、十日目に戻ることが確かめられた。立会人二十名』
俺の名前は、どこにも書いていない。
書いてなくていい。
立会人が20人いるほうが、俺の名前より強い。
宿に戻ると、セシルが卓いっぱいに紙を広げていた。
左に淵語の本、右にアイリーンの原本、真ん中に対応表。
「どのくらい進みましたか」
「400字ほど、読めるようになりました」
彼女は、顔も上げずに言った。
「あと2000ほどあるそうです」
「……2000」
「はい。ですので、あと2か月です」
——計算が出ている。
400字を12日でやった人間の、2か月だ。
「クアン・タオさんの訳者の方と、週に2度、突き合わせています」
「向こうは、何と」
「『こちらの字には、飽いに当たる語が3つある』と言っていました」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。
「厭、倦、膩です。彼は厭を選びました」
「どれが正しいんですか」
「厭で合っています」
セシルは、はっきりそう言った。
「間違っていたのは、注のほうです」
◇
噂が回りはじめたのは、そのあとだ。
ただ、回り方が、想像と違っていた。
俺が水蜥蜴を数えたからではない。
俺が洞で6人を担いで出たからでもない。
——ラスだ。
「あの斧の兄ちゃん、Bランクだろ」
「Bで斧って、どういうことだ」
「あいつが『師匠』って呼んでるやつがいる」
「誰だ」
「若いのだ。剣を差した、若いの」
この街の理屈では、こうなる。
Bランクの斧使いは、この街には1人もいない。
その1人が、頭を下げて師匠と呼ぶ相手がいる。
——なら、そいつは何だ。
3日目に、シュイたちが宿に来た。
3人とも、手ぶらだった。
「金は払えねえ」
シュイが、玄関先でそう言った。
「知ってる」
「だから、これ」
彼女は、丸めた紙を突き出した。
広げると、絵だった。
満潮洞の断面図だ。
入口、岩棚、奥の割れ目、天井の窪み。
そして、3つの印がついている。
奥、奥、天井。
順番の数字まで振ってある。
「あの日の、順番だ」
彼女は、そっぽを向いて言った。
「あたしが覚えてる範囲で書いた。間違ってたら、直してくれ」
俺は、1か所だけ直した。
天井の窪みの位置が、半歩ずれていた。
直して、返した。
「合ってる。あとは、そのままでいい」
シュイは、紙を受け取って、しばらく見ていた。
見てから、こう言った。
「……あんた、本当に書いたのか」
「書いた」
「ふうん」
彼女は、それだけ言って帰った。
信じたとも、信じないとも言わなかった。
ロウが、門のところで一度だけ振り返って、頭を下げた。
強い男が強いことをしても、人は「腕のいいやつだ」で終わらせる。
だが、強い男が誰かを師匠と呼ぶと、人はその上を見る。
ラスは、何も言っていない。
ただ、毎朝、門の内側で2000回振っていただけだ。
それを、この街の人間が、勝手に数えた。
◇
ギルドの掲示板に、初めて出た。
『斧使い募集 鉱脈蟲の駆除 報酬4貫』
俺は、その1枚を、しばらく見ていた。
ヴェルンハイムで同じ票が出るまでに、7か月かかった。
この街では、11日だ。
票の下の台に、紙束が3部、積んである。
汚い字で、表紙にこう書いてある。
『斧の使い方 ラス・ウェイド うつしていい』
「売らないのか」
俺は、隣で聞いた。
「売りませんよ」
ラスは、当たり前の顔で言った。
「師匠が売らなかったんで」
——ここで、何か言うべきだった。
無料で配ったものは、誰のものでもなくなる。
誰のものでもないものは、誰がどう訳しても罪にならない。
俺は、それで11人死なせた話を、9日前に聞いたばかりだ。
言おうとして、口を開いて、閉じた。
俺は、まだ、その答えを持っていない。
持っていない男が、口を出すべきではない。
ラスが、こっちを見た。
「師匠。なんか言いました?」
「いや」
「顔、怖いですけど」
「いつもだ」
◇
夕方、船が1隻、王国の旗を立てて入港した。
その船で、手紙が来た。
封に、鷹の判が押してある。
ドロテア・ハルトの判だ。
『ノルンさんへ
大陸のSランクは、6人になりました。
レイン・アシュフォード。ドゥガル・ブラン。ヤヌシュ・クヴァル。オーレン・ザッハ。ギルヴァ・マグヌス。セラフィナ・ドーレ。
4か月で2人増えたのではありません。4か月で、認定の基準に届く人間が2人出たのです。
その6人を、東へ送りました。
理由を書きます。
あなたは、たぶん、柱の話を翠州の議会にするつもりでいる。
そして、たぶん、通りません。
よその国の若い狩人が「柱が起きる」と言っても、議会は動きません。動かせるのは、国が名前を知っている人間です。
だから、名前を送りました。
6人のうち、2人は扱いにくい。あなたのことを、本を書いた学者の坊やだと思っています。
残り4人は、話を聞きます。
この差を、あなたがどう使うかは、書きません。
書かないほうが、あなたは上手くやるので。
——追伸。
1年前、わたしはあなたに「あんたが誰の側で嘘をつくのか」と聞きました。
もう、心配していません。
ドロテア・ハルト』
◇
手紙を閉じて、窓から運河を見た。
6人。
そのうち2人は、こっちを舐めている。
——ちょうどいい。
北で、俺は24人を育てた。
そのうち7人が、死んだ。
残りは、生きている。生きていて、もっと強くなっている。
舐めている2人に、それを見せる機会が、向こうから来る。
「リゼ」
「ん」
「S級が6人、来る」
「ふうん」
彼女は、弓弦を巻きながら、顔も上げずに言った。
「セシルと、リノと、ガウスさんが来たら、たぶん足りるね」
「ガウスさんは、来ないよ」
「来るよ」
「なんで」
「ドロテアさんが送ったのがS級6人なら」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。
「あの人たち、S級だけで来ると思う?」
——そうか。
S級が6人動くということは、S級の周りが動くということだ。
ドロテアは編成者だ。
あの人が人を送るとき、名前の下に必ず荷物が付いてくる。
レインの下には王都の騎士がいる。
オーレンの下には弓の組がいる。
そして、セシルが教えた13人のうち、動ける者が何人か混じってくるはずだ。
「徹さん」
「はいっす」
「宿、増やしてください」
「何人ぶんっすか」
俺は、少し考えた。
「40」
徹が、口を開けた。
「よ、40!?」
「たぶん、足りません」
「ノルンさん、俺、この街の宿の空き、全部で28しか押さえられないっすよ」
「なら、28押さえて、残りは船倉を借りてください」
「船倉に人、寝かすんすか」
「俺は3週間寝ました」
徹は、紙を出して、書きはじめた。
書きながら、小さい声で言った。
「……なんか、でかくなってきましたね」
「なってきましたね」
窓の外で、運河の水が動いていた。
北の空には、もう裂け目はない。
代わりに、南の方角——帝国の方角に、薄い雲がかかっていた。
そこに、歌を持った老人が、10年いる。
Lv.560




