89.満潮まで二刻
回収の触れは、3日で東の6都市に回った。
クアン・タオの仕事は、速い。
だが、触れが回ったからといって、売れた本が戻ってくるわけではない。
3,200冊は回収できる。
既に売れた1,240冊は、人の手の中にある。
その手の持ち主は、触れを読まない。
字が読めない人間が、親方の声で覚えているからだ。
——そして4日目の昼に、ターが走ってきた。
15歳が、息を切らして、ギルドの階段を転がるように上がってきた。
「ロウが」
彼は、それしか言えなかった。
「ロウが、洞に」
◇
聞き出すのに、四半刻かかった。
洞に入ったのは、別の6人組だ。
ロウの幼馴染みが2人いる。あとの4人は知らない顔らしい。
理由は、単純だった。
「先生の連れが、こないだ大蛇を1体倒しただろ」
ターが、指で数えながら言った。
「洞が空いたって噂が回った。あと2体しかいないって」
「本は」
「持ってる。『満潮に入れ』って書いてあるやつだ」
——回収の触れは、間に合っていない。
「シュイとロウは」
「追いかけて、入った」
ターの声が、裏返った。
「引きずり出すって言って、2人で入った。おれは足が遅いから、あんたを呼びに来た」
俺は、空を見た。
昼の月が、いつもの場所より少し高い。
「満潮は」
「……分かんない」
「二刻後だ」
俺は、そう言った。
計算は、頭の中で終わっている。
満潮の2刻前に口が開き、満潮の2刻後に閉じる。
いま、満潮の二刻前を、少し過ぎたところだ。
つまり、彼らはもう中にいる。
そして、出られる時間は、残り四刻を切っている。
海まで、馬で半日。
四刻では、届かない。
——なら、馬で行かない。
「ラス」
「はい!」
「馬に乗れるか」
「乗れます。落ちますけど」
「途中まででいい。落ちたら置いていく」
「置いてかないでくださいよ!」
リゼが、もう鞍に乗っていた。
「わたしは落ちない」
「知ってる」
◇
街道を二刻走って、岬の根元で馬を捨てた。
そこから先は、砂と岩だ。馬の脚では遅い。
俺は、走った。
《縮地》を、3年半ぶんの間隔で繋ぐ。
一歩が、十歩になる。
繋ぎ目で足が地面を噛むたび、砂が後ろへ吹く。
後ろで、ラスが叫んでいるのが聞こえた。
「速っ! ちょ、師匠、速っ!」
聞こえなくなった。
——この世界に来てから、全力で走ったのは、これが3回目だ。
1回目は、竜の下だ。
2回目は、氷原だ。
3回目が、名前も知らない6人のためだというのは。
——悪くない。
◇
海に着いたとき、潮は満ち切る直前だった。
洞の口は、岩の割れ目の下にある。
水が、その半分まで来ていた。
岩の上に、シュイがいた。
びしょ濡れで、棍を杖にして、立っていた。
「あんた」
彼女は、俺を見て、それから、怒鳴った。
「入るな! 奥に3体いる!」
——3体。
2体じゃない。
「奥に2体と、天井に1体だ」
俺は、そう言った。
「天井……?」
「潮喰いの大蛇は、満潮の直前に天井へ張り付く。水が来る前に、乾いたところへ上がるんだ」
「なんで、それを」
「あとにしよう」
俺は、剣の位置を直した。
「口は塞がるか」
「もう、半分」
「泳げば入れるな」
「入るなって——」
俺は、水に入った。
◇
中は、暗い。
だが、真っ暗ではない。
潮喰いの大蛇の甲殻は、水の中でうっすら光る。3年半前から、そういう仕様だ。
ゲームでは、これを「灯り持ち」と呼んだ。
松明が要らないので、初心者狩りの定番だった。
——初心者狩り。
Lv560帯が初心者だったのは、俺がいたほうの話だ。
こっちでは、この世界でいちばん強い男が、やっとLv215だ。
——2つ、奥。
——1つ、上。
ロウたちは、岩棚の上にいた。7人。全員、腰まで水に浸かって、壁に張り付いている。
1人が、脚をやられて動けない。
そして、いちばん手前の1体が、入口を塞ぐ形で身をくねらせていた。
手前のやつが、いちばん近い。
近いから、普通はここから落とす。
——落としたら、全員死ぬ。
潮喰いの大蛇は、体で水の流れを堰き止めている。
こいつが崩れると、堰が抜ける。
抜けた水は、一気に奥へ流れ込む。
そして、洞は2倍の速さで満ちる。
「奥からだ」
俺は、大声でそう言った。
「次に天井。入口のは最後だ」
ロウが、水の中から叫んだ。
「近いやつからじゃねえのか!」
「違う」
「なんでだよ!」
「あとで説明します」
——説明している間に、水位が上がる。
いま言葉にできることは、順番だけだ。
順番が合っていれば、全員生きる。
理由は、生きてから話せばいい。
説明する時間はない。
だから、説明しない。
俺は、奥へ泳いだ。
奥の2体は、岩の割れ目に半分入っていた。
出きるのを待っている余裕はない。
だから、待たない。
《火球》を1つ、割れ目の奥へ通した。
熱で、体が出る。
出たところの、6節目。
1体目が、水に沈んだ。
2体目が、こっちを向いた。
甲殻が開いた。開いたところが、赤い。
——ここで、上のやつが落ちてくる。
覚えている。
天井の個体は、下で仲間が死ぬと落下する。落下点は、死体の真上だ。
俺は、1歩横にずれた。
落ちてきた。
落ちてきたところに、剣を立てておいた。
自分の重さで、自分から刺さった。
3体目が、水の中でのたうった。
その音で、岩棚の7人が悲鳴を上げた。
——残り、入口の1体。
ここからが、難しい。
入口の個体を斬れば、堰が抜ける。
だから、斬らずにどかす。
甲殻の隙間に、熱を通す。
水の中で火は通らない。通すには、水ごと動かす。
俺は、火を組んで、風を1/8拍だけ遅らせた。
——刃にしない。
刃にすると、洞の中で跳ね返って、7人を削る。
同じ拍で重ねれば刃になるが、8分の1だけ遅らせれば、風は熱を運ぶだけの流れになる。
「《焔嵐》」
洞の水が、沸いた。
天井まで、白い湯気が満ちた。
入口の1体が、身を捩って、自分から外へ逃げた。
堰が、静かに外れた。
水が動いた。
——3つ数える間だけ、道ができる。
「走れ!」
シュイが、外から棍を差し出した。
ラスが、岩棚から人を投げた。本当に、投げた。
俺は、脚をやられた1人を担いで、最後に出た。
背中で、岩が閉じる音がした。
石が擦れる、低い音だった。
◇
岩場に、8人が転がっていた。
数えた。
ロウ、シュイ、幼馴染みが2人、知らない顔が3人。
そこに、脚をやられた男を下ろして、8。
誰も、死んでいない。
脚の男は、膝から下が紫になっていた。
セシルなら止血ができる。ここにはいない。
俺は、腰の袋から布を出して、膝の上で締めた。
締めながら、男の顔を見た。
30過ぎだ。手のひらに、櫂の胼胝がある。
冒険者じゃない。
船を持っている人間が、稼ぎを増やそうとして洞に入ったのだ。
「本、持ってますか」
男は、震えながら、懐から出した。
水を吸って膨れた、薄い本だった。
四角い字が、全部滲んでいた。
ロウが、四つん這いのまま、俺を見上げた。
「なんで」
彼は、そう言った。
「なんで、奥からだったんだ」
「入口のを落とすと、堰が抜けます」
「堰」
「あいつの体が、水を止めてました。抜けると、洞が2倍の速さで満ちます」
ロウは、しばらく黙った。
それから、幼馴染みの2人を見て、また黙った。
6人組のいちばん年上の男が、俺に言った。
「あんた、強いな」
「どうも」
「けど」
男は、首を振った。
「ノルン先生じゃ、ないだろ」
——ああ。
「先生は、年寄りだ。こんな、泳いで飛び込んでくるような人じゃない」
「そうですね」
俺は、そう答えた。
答えて、濡れた前髪を上げた。
ラスが、何か言いかけて、俺の顔を見て、口を閉じた。
賢い。
——ここで名乗らせると、この人たちは、もっと信じなくなる。
ラスが、俺の横に来て、小声で言った。
「言わなくて、いいんすか」
「言っても、信じない」
「オレが言いましょうか。『この人が書いたんだ』って」
「やめてくれ」
「なんでです」
「おまえが言うと、たぶん、殴り合いになる」
ラスは、真面目な顔で「なります」と言った。
——分かってて言ったのか。
シュイだけが、何も言わなかった。
彼女は、岩の上に座って、俺の落とした3体を見ていた。
見て、それから、自分の指を折りはじめた。
奥、奥、天井、入口。
順番を、数え直している。
それから、こっちを見ずに、誰にともなく言った。
「あの本、入口のことは書いてなかった」
誰も、答えなかった。
「入口のを先に落とすと死ぬって、どこにも書いてなかった」
彼女は、膝を抱えた。
「書いてないことを知ってるやつが、いま、そこに立ってる」
——16歳が、いちばん先に、そこへ来た。
俺は、何も言わなかった。
言わずに、濡れた剣を拭いた。
Lv.558




