88.同業者
サンジュの東門に着いたのは、夜明け前だった。
門番に聞くまでもなかった。
門の内側の広場で、男が1人、斧を振っていた。
まだ暗い。
灯りは、門の脇の篝火が1つだけだ。
その明かりの端で、上から下へ、同じ角度で、同じ速さで、斧が落ちていた。
数えた。
俺が見ていた間だけで、114回。
途中で一度も、間隔が乱れなかった。
——毎晩2000回。
3年Fランクだった頃から、1回も減らしていない。
俺は、馬を降りた。
降りた音で、男が振り返った。
背が伸びていた。
肩の幅が、前の倍ある。
顔は、同じだ。
「……あ」
斧が、止まった。
「あ、あの」
彼は、斧を取り落としそうになって、握り直した。
「し、師匠」
——語尾が、消えなかった。
1年半前、この男の喋りは、全部、最後まで届かなかった。
「オレ、その、たぶん、ダメで……」と言って、そこで終わる喋り方だった。
いまのは、消えなかった。
「久しぶりだな」
俺は、そう言った。
「ラス」
◇
《看破》を通した。
ラス・ウェイド 格:105(推定)
俺は、もう一度見た。
格:105(推定)
3回目を見た。
同じだった。
——7か月で、43。
Lv62からだ。
この世界の相場でいえば、駆け出しが3年かけて上がる幅を、7か月で通り抜けている。
しかも、独りでだ。
教える者がいない。書かれた本もない。組む相手もいない武器で、だ。
「おまえ」
俺は、言いかけて、言い直した。
「ラス。7か月、何をしてたんだ」
彼は、少し照れた顔をして、荷袋を下ろした。
そして、紙束を出した。
1冊、2冊、3冊。
「これです」
「その前に」
俺は、聞いた。
「昨日、洞にいたな」
ラスは、頭を掻いた。
「あ、はい。たまたまです」
「たまたま?」
「焚き火で拾った坊主どもが、朝に洞へ行ったんすよ。で、潮が変わったのに出てこなくて」
「入口は」
「閉じてました。半分ぐらい」
彼は、当たり前の顔で言った。
「上の岩が崩れかけてたんで、そこを割って落ちました」
「……割って」
「割るのは、得意なんで」
◇
岩場から持ち帰った甲殻の欠片が、宿の裏にあった。
ロウが、証拠のつもりで担いできたらしい。
瓦を7枚重ねたような形で、厚みが手のひらぶんある。
俺は、剣で叩いてみた。
滑った。
角度を変えて、3回叩いた。3回とも滑った。
——本当に、通らない。
「ラス」
「はい」
「1回、見せてくれ」
彼は、斧を持ち直して、半歩だけ浅く入った。
吐いた。
落ちた。
欠片が、2つに割れた。
音は、1回だけだった。
リゼが、隣で小さく言った。
「わたしの矢、30本」
「そうだね」
「あれ、1回」
——1回だ。
◇
門の脇の、篝火の下で読んだ。
リゼが火に枝を足してくれた。
1冊目は、狩り場だった。
北の廃坑の第七区。沢の上の崩落地。
どちらも、俺の紙には載っていない場所だ。
選んだ理由が、頭に書いてある。
『湧きが1体ずつ。硬い。逃げ足が遅い。この3つが揃うと斧が勝つ』
——3体同時に出る場所を、避けている。
斧は振りが遅いから、複数湧きの場所では殺される。
俺は、それを知っていた。
知っていたが、書かなかった。
書かなかったのは、斧を使う人間が、どの世界にもいなかったからだ。
2冊目は、契だった。
『甲殻のやつを斧で700体で、《鎧断ち》が生える』
その横に、正の字が並んでいた。
140行ある。1行に5つ。
700。
数え損ねたときのために、日付と場所まで書いてある。
——この数え方は、俺のだ。
だが、数えた中身は、俺のじゃない。
3冊目は、身体の使い方だった。
『《一と半》——半歩浅く入る。斧は剣より短いので、同じ距離で構えると必ず一拍遅れる』
『《薪割りの拍》——吐きながら振る。吸いながら振ると肩が上がって刃が寝る』
そして、最後の頁に、こう書いてあった。
『《膂力Ⅰ》と《兜割り》は、師匠に教わった』
『ここから先は、オレが自分で試した』
俺は、その頁を、しばらく見ていた。
——3年半前の話をする。
俺は、攻略サイトの武器の頁を書いていた。
初心者向けの、いちばん上に出る頁だ。
斧の項目には、こう書いた。
『斧:振りが遅い(剣の1.4倍)。硬直が長い。範囲が狭い。DPSが出ない。初心者は片手剣を推奨』
嘘は書いていない。
数字は全部、俺が計測した。1000回振って、平均を取った。
実際、斧を選んだプレイヤーは、俺のサーバーでは1割を切っていた。
——なぜ1割を切ったか。
いま、分かった。
俺が、そう書いたからだ。
あの頁は、1日に2万回読まれていた。
読んだ人間が、斧を選ばなくなった。
選ばなかったから、誰も検証しなかった。
検証されなかったから、斧向けの戦い方は、3年半、誰も書かなかった。
——書かなかったんじゃない。
俺が、その頁を、書いたからだ。
そして、この世界で。
読む頁を持たなかった男が、700体を自分で数えて、1つの技を生やした。
俺の書いた頁が、届かなかったからだ。
書いたものは、書いたとおりには戻ってこない。
書かなかったものは、誰かが書く。
◇
「師匠」
ラスが、紙束を見ている俺に、言った。
「オレ、連れてってほしいです」
「その前に、1つ聞いていいか」
「はい」
「斧向けの契、他にもありそうか」
ラスは、少し考えて、正直に答えた。
「あります。たぶん、あと2つか3つ」
「条件は」
「分かんないです。いま、削岩の鑿を持って試してるとこで」
「……鑿」
「斧に近い動きなら、別の契が拾えるんじゃないかと思って」
俺は、そこで聞くのをやめた。
俺の頭の中には、925ぶんの手順がある。
その中に、いまこの男が言った話は、1行もない。
——俺は、知らない。
知らないことを、知らないと言うのは、去年から練習している。
「分からない」
俺は、そう言った。
「それは、俺の知らないところの話だ」
ラスが、ぽかんとした顔をした。
それから、嬉しそうな顔をした。
なぜ嬉しそうなのか、俺には分からなかった。
「……理由は」
「前は、追いつきたかったんです」
彼は、そこで、はっきりこう言った。
「でも、追いつくために強くなったんじゃないです。隣に立つために強くなりました」
俺は、紙束を閉じた。
閉じて、返した。
「ラス」
「はい」
「1つ、訂正する」
「え」
「おまえは、弟子じゃない」
ラスの顔が、止まった。
止まったまま、耳の先だけ赤くなった。
篝火の下でも分かるくらい、赤くなった。
「あ、あの、オレ——」
「同業者だ」
「……え」
「俺が書いてないところを、おまえが書いた」
俺は、3冊目を指した。
「この世界で斧の狩り場を知ってるのは、おまえだけだ。俺じゃない」
「それは、その、師匠が空けといてくれたから」
「空けたのは白紙だ。埋めたのはおまえだ」
ラスは、しばらく黙って、それから、勢いよく頭を下げた。
「わ、分かりました! じゃあ、師匠って呼ぶの、やめます!」
「ああ」
「今日からは、対等な同業者として——」
彼は、そこで顔を上げて、真面目な顔でこう言った。
「師匠、荷物持ちます」
リゼが、後ろで噴き出した。
◇
朝になって、宿で紹介した。
セシルが「お話は伺っています」と礼をして、ラスが慌てて礼を返して、柱に頭をぶつけた。
徹が「斧の人っすよね! 昨日の!」と握手を求めて、握られた手を振り回されて、悲鳴を上げた。
リノが、掠れた声で聞いた。
「700体、どこで数えたんですか」
ラスが、正の字の頁を開いた。
2人は、そのまま四半刻、動かなかった。
——似た者同士だ。
どちらも、誰も教えてくれない条件を、自分で数えて確かめた側にいる。
相馬だけが、少し離れたところで、板に何か書いていた。
書いてから、こっちを見て、こう言った。
「ノルンさん」
「はい」
「あの人の紙、あなたの本に入りますか」
俺は、少し考えた。
「本人が入れたければ」
「入れたがると思いますよ」
彼女は、半拍遅れて、少しだけ笑った。
「わたしは、まだ、1文字も書いてませんけど」
その日の午後、ギルドの掲示板の前に、ラスが1人で立っていた。
自分の紙束の写しを3部作って、台の上に置いている。
「売るのか」
「まさか。無料です」
彼は、当たり前の顔で言った。
「師匠が取らなかったんで」
——そこは、真似しなくていい。
言いかけて、やめた。
無料で配ったものは、誰のものでもなくなる。
俺は、それで11人死なせた話を、5日前に聞いたばかりだ。
言うなら、いま言うべきだった。
だが、俺はまだ、その答えを持っていない。
持っていないことを、俺は知っている。




