9.狩場を移る理由
冒険者というのは、たいてい、同じ場所で狩り続ける。
これは怠慢じゃない。合理的な判断だ。
慣れた猟場には、慣れた地形がある。どこに逃げ道があって、どこが足場が悪くて、どのあたりで敵が出るか、体が覚えている。命が懸かっている以上、慣れた場所を選ぶのは正しい。
だから、東の森の谷筋には、いつも同じ顔ぶれがいた。
「よお、狼の兄ちゃん」
3日目の朝、谷筋の入口で声をかけてきたのは、30がらみの男だった。革の胸当てに、使い込まれた槍。同業だ。
「毎日来てるな。感心なこった」
「そちらこそ」
「俺はもう2年ここだよ。狼はいい。素材が安定して売れる」
2年。
俺は思わず聞いてしまった。
「あの、失礼ですが……2年で、どれくらい強くなりました?」
男は笑った。
「そりゃお前、強くなったさ。最初のころは3体来たら逃げてたが、今は2体までなら正面から捌ける」
「……なるほど」
2年で、3体が2体になった。
俺は昨日、9体を1人で殺した。登録して2日目に。
◇
この差がどこから来るのかを、説明しておきたい。
俺が特別な才能を持っているからじゃない。むしろ逆で、俺のステータスは今、この男よりだいぶ低い。
差は、たった一つ。
俺には、討伐習熟度が見えている。
ステータスウィンドウを開いて、下のほうにある項目を展開する。
【討伐習熟度】
角兎 119/120
森狼 9/200
スライム 6/400
この数字が意味するのは、「あと何体まで、その敵から満額の経験値がもらえるか」だ。
角兎は120体を超えると、取得経験値が7割に落ちる。250体で4割。500体で1割を切る。同じ相手を殺し続けても、身になるものは目減りしていく。
これはこのゲームの根幹の仕様で、通称「飽き補正」と呼ばれていた。
そして——現実になったこの世界では、たぶん、これがそのまま「人が伸び悩む理由」になっている。
槍の男は2年、森狼を狩り続けた。
森狼の逓減境界は200体だ。2年も通えば、とっくに数千体を超えている。
つまりあの人は、この1年半ほど、ほとんど何も得ずに狼を殺し続けている。
本人には、それが見えていない。
見えていないから、「自分は年季で強くなった」と思っている。実際、技術は伸びている。2体捌けるようになったのは技術の成果だ。
だが、素の力は、1年半前から動いていない。
——これ、言うべきなんだろうか。
俺は一瞬、そう考えた。
言ったところで、信じてもらえるはずがない。「あなたの経験値は逓減しています」と言われて理解できる人間は、この世界に一人もいない。
俺は会釈をして、谷筋へ入った。
◇
森狼を、その日で190体まで詰めた。
3日で、199。境界の、1体手前だ。
やり方は単純だ。谷筋で1組(3体)を処理し、次の湧きまでの間に、東の斜面で角兎——ではなく、少し奥の岩場でイワトカゲを狩る。イワトカゲは経験値こそ森狼より低いが、俺の習熟度がまだ0だから、逓減がない。
待ち時間をゼロにする。
これも、3年半で身についた癖だった。
日没時点で、Lv22。
槍の男は、俺が谷筋を出るとき、まだそこにいた。
◇
4日目。
俺は毒沼へ移った。
街の南、湿地をさらに下った先にある、腐った緑色の水たまり。空気が甘ったるく淀んでいて、10分いると頭が痛くなる。
ここにリザードマンが湧く。
推奨レベル18。二足で立つトカゲの兵で、粗末な石斧を持ち、太い尾で薙いでくる。単体の経験値は、森狼の4.1倍。
Lv22の今なら、正面から戦っても勝てる。
——勝てる、はずだった。
◇
最初の6体は、順調だった。
浅瀬から1体だけ引きずり出して、乾いた岩の上で戦う。リザードマンは水中では素早いが、陸では足が遅い。この差を使えば、Lv22でも安全に処理できる。
7体目で、レベルが上がった。
Lv.28
STR 49 VIT 44 AGI 55 DEX 39
数字が跳ねた。
Lv20からLv28までの8レベルで、STRが28から49まで上がっている。ほぼ倍だ。
俺は、その数字を見て、少し気を良くした。
8体目のリザードマンが、水から上がってきた。
——今なら、正面から潰せる。
そう思った。
思ったことが、間違いだった。
俺は待ち構えず、自分から踏み込んだ。
Lv28のSTR49で振り下ろす鉈は、Lv12のときとは別物だ。頭でそう理解していた。だから、そのつもりで振った。
振った。
——速すぎた。
自分の腕が、自分の想定より速く動いた。
狙っていたのはリザードマンの首だった。鉈の先端は、その30センチ上の空を斬った。
的を外した鉈は、止まらなかった。
STR49の力で振り抜かれた腕は、慣性のまま、俺の体を引っ張った。
肩が、いやな方向に伸びた。
「————っ、が」
声にならなかった。
右肩の付け根で、何かが「ずるり」と音を立てた。骨が動いた音だ。目の前が白くなって、膝から力が抜けた。
俺は岩の上に膝をついた。
そこへ、リザードマンの尾が来た。
避けられなかった。
腹に、丸太で殴られたような衝撃。体が浮いて、岩から転がり落ちて、毒沼の縁の泥に叩きつけられた。
HP 88/268
——3分の1。
俺は泥の中で仰向けになったまま、視界の隅の数字を見ていた。
リザードマンが、ゆっくり近づいてくる。
右腕が上がらない。
左手で鉈を探した。落としていた。どこにあるかも分からない。
——死ぬ。
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
俺は泥を掴んで、リザードマンの顔に投げつけた。
目に入ったらしい。トカゲは首を振って、一瞬止まった。
その一瞬で、俺は転がった。転がって、泥の中に落ちていた鉈の柄に、左手が当たった。
握った。
立ち上がるより先に、下から突き上げた。
リザードマンの喉の下、鱗の薄いところに、刃が入った。
生温かいものが、俺の顔に降ってきた。
◇
俺は、泥の中に座り込んだまま、10分ほど動けなかった。
右肩が、燃えるように熱かった。
腕を持ち上げようとすると、肩の中で骨が引っかかる感触がある。外れているのか、ひびが入っているのか、俺には判断がつかない。
——STR49。
数字は、上がっていた。
上がっていたのに、俺はその力を使えなかった。
いや、違う。
使えなかったんじゃない。
使い方を、知らなかったんだ。
◇
ゲームの中では、レベルが上がると、キャラクターは自動的に「上がったぶんだけ強く」動いた。俺はマウスとキーボードを同じように操作するだけでよかった。振りの速さも、踏み込みの深さも、体重の乗せ方も、全部システムが面倒を見てくれていた。
ここには、それがない。
レベルが上げてくれるのは、潜在的な出力だけだ。
その出力を、どの角度で、どのタイミングで、どこに当てるか——それは、俺自身の技術の問題になる。
そして俺は、剣を握ったことが一度もない、17歳の高校生だった。
「……ああ、そうか」
俺は泥の中で、声に出して言った。
俺の頭には、この世界の攻略情報が925レベル分入っている。
入っているが。
「体は、Lv1のままなんだ」
◇
街まで、3時間かかった。
右腕を左手で抱えて、脂汗をかきながら、街道を歩いた。途中で3回吐いた。毒沼の空気のせいか、痛みのせいか、その両方か。
門をくぐったのは、日が完全に落ちてからだった。
ギルドの扉を押すと、食堂の喧騒がぶつかってきた。
ミリアが俺を見て、顔色を変えた。
「ノルンさん!?」
「……治療院、この街にありますか」
「あります、ありますけど、その前に——ちょっと、誰か!」
騒ぎになった。
俺は椅子に座らされて、誰かがぬるい酒を飲ませて、誰かが肩を触って「外れてるな」と言った。
「戻すぞ。歯を食いしばれ」
ごり、という音がして、俺は椅子から落ちかけた。
◇
その夜、俺は宿の寝台で、天井を見上げていた。
右肩は布で吊られている。動かせるようになるまで、5日はかかると言われた。
5日。
俺の頭の中の計算では、この5日で本来ならLv50に届くはずだった。
——効率が、落ちる。
そう考えて、俺は自分に呆れた。
肩を壊した理由が、そもそも「効率」だ。Lv28の数字を見て、いけると思って、正面から踏み込んだ。谷筋を使わずに。地形を使わずに。
3年半、俺が初心者に一番言ってきたことは何だったか。
——数字を過信するな。
俺は寝返りを打った。
肩が痛んだ。
明日、まずやるべきことは、レベリングじゃない。
俺は、この体の使い方を、誰かに習わなきゃいけない。




