86.【幕間】斧はもう笑われない
【幕間】
——だから、笑っていいって言ってるだろ。
坊主。いま3人とも笑ったな。
いいんだよ。オレも3年笑われた。斧だからな。
火に枝を足しとけ。潮風は火が痩せる。
飯は食ったか。食ってないなら干し肉があるぞ。
オレはラス。ラス・ウェイドだ。海の向こうのヴェルンハイムってところから来た。
歳は19だ。武器は見てのとおり、片手斧。親父の形見だ。
そう。この斧で、Bランクだ。
——おい、そこの弓の坊主。目を丸くするな。逃げないから座ってろ。
去年の冬までは、オレはCランクだった。
1年半、Cで止まってた。
理由は分かってる。斧を使うやつが、世界にオレしかいねえからだ。
いいか。この世界に本は増えた。狩り場の本も、契の本も出た。
だがな、そこに書いてあるのは全部、剣と槍と弓と魔法の話だ。
斧の契がどこにあるか。斧で狩るのに向いた場所がどこか。斧を振る息をどこで吸うか。
——どこにも書いてねえ。
誰も書いてねえんだから、当たり前だ。
で、去年の秋だ。
師匠の本が刷られて、ヴェルンハイムに届いた。『飽いと戻りについて』だ。
オレは3日で3回読んだ。
飯を食いながら読んで、歩きながら読んで、最後は暗がりで指でなぞって読んだ。
それで、最後の章まで来て、手が止まった。
白紙だった。
30枚以上、1文字も書いてねえ。
表題だけ、いちばん上にあった。
『書かなかったこと』
……オレは、しばらく、そこを見てた。
それで、分かったんだ。
師匠は、忘れたんじゃねえ。間に合わなかったんでもねえ。
わざと空けたんだ。
——なんでそう思うか、だと?
あの人はな、書き忘れるってことを、しねえ人なんだよ。
薬の数も、岩ガニの数も、沢に着く時刻も、全部1回で合わせてくる。
その人が、30枚も空けたんだ。
空けたのは、そこに入るものを、あの人が持ってねえからだ。
持ってねえもんは、書けねえ。
——じゃあ、誰が書くんだ。
そう思ったところで、オレは飯を吹いた。宿のばあさんに怒られた。
そこからだよ、オレが変わったのは。
まず、甲殻のやつを斧で割り続けた。
岩ガニ、鉄殻蟲、廃坑の甲虫。北の沢まで行って、硬いやつばっかり探した。
何体で生えるかなんて、誰も知らねえんだぞ。
100かもしれねえし、1万かもしれねえ。
途中でやめたら、そこまでのは全部消える。消えるかどうかも分からねえ。
そういうのを、4か月やった。
刃こぼれで斧を3回研ぎ直した。柄は2回替えた。
300のあたりで、一度やめようと思った。
500のあたりで、何も感じなくなった。
700体目で、生えた。
《鎧断ち(よろいだち)》。
硬い相手ほど、深く入る。刃が滑らねえ。
——そうだよ。
生えた瞬間、オレは沢の水ん中に座り込んで、しばらく動けなかった。
誰も見てねえところでな。
見ててくれる人がいねえってのは、そういうことだ。
——名前か? オレが付けた。誰も付けてくれねえから、自分で付けた。
次が、間合いだ。
斧は剣より短い。だから同じ距離で構えると、必ず一拍遅れる。
半歩浅く入って、届かない距離から踏み込むと、ちょうどよくなる。
これを《一と半》って書いた。一歩と、半歩だ。
狩り場も、自分で探した。
これがいちばん時間を食った。
本に載ってる狩り場は、全部、剣で行くこと前提で書いてある。
「湧きが3体ずつ」とか「隘路で受けろ」とかな。
斧はな、3体同時が出ると死ぬ。振りが遅いからだ。
逆に、1体ずつ出てきて、そいつが硬いなら、こっちが一方的に勝つ。
だからオレが探したのは、「湧きが1体ずつで、硬くて、逃げ足の遅いやつがいる場所」だ。
北の廃坑の第七区と、沢の上の崩落地。この2つだ。
地図には載ってねえ。オレの紙にしか載ってねえ。
——そうだよ。世界で、オレの紙にしか載ってねえ。
3つ目が息だよ。
斧は吐きながら振る。吸いながら振ると、肩が上がって刃が寝る。
木こりは全員そうやってた。親父もそうだった。
だからオレは、それを《薪割りの拍》って書いた。
——いいか、ここは間違えるなよ。
《膂力Ⅰ》と《兜割り》は、師匠に教わったやつだ。
あの人が教えてくれた。オレが見つけたんじゃない。
その先は、全部オレだ。
紙は、いま3冊ある。
41枚から始まって、3冊になった。
素振りは、いまも毎晩2000回やってる。
Fランク3年のときから、1回も減らしてねえ。
減らそうと思ったことはある。Bに上がった夜に、1回だけな。
やめとけって、自分で自分に言った。
2000回振ってたやつがBになったんであって、Bになったやつが2000回振ってるんじゃねえからだ。
——分かるか? 分かんねえなら、10年後にもう一回聞け。
で、面白いのはここからだ。
去年の暮れに、ギルドの掲示板を見に行ったらな。
依頼票に、こう書いてあった。
『斧使い歓迎』
……お、悪い。
もう一回言うぞ。
『斧使い歓迎』だ。
3年間、受付で「斧です」って言うたびに2回聞き返された街だぞ。
その街の依頼票に、斧が先に書いてあった。
1枚剥がして、宿まで持って帰った。
いまも、紙束の3冊目に挟んである。
——見るか? ……やめとけ。皺だらけだ。
そのあとな、武器屋に斧が並びはじめた。
オレを笑ってた連中が、買いに来てるんだよ。
握り方を聞きに来たやつもいる。教えてやった。紙も写させてやった。
——金は取ってねえ。師匠が取らなかったからだ。
灰狼のハルダさんが、通りで声をかけてきた。副長の、口の悪い人だ。
「あんた、あの日雇いの弟子か」
そう言われた。
オレは「はい」って答えた。
そしたら、あの人は鼻を鳴らして、こう言った。
「あの日雇いが拾ったのが、おまえでよかったよ」
——3年間、あの人はオレの顔も覚えてなかったんだぞ。
その日、宿に帰ってから、ちょっと泣いた。そこは笑っていいぞ。
それと、もう一つある。
鉄鋲のガロンって男がいてな。
3年間、オレの依頼票を横取りしてたEランクの5人組の頭だ。酒場でオレの真似をして斧を振る仕草をやってたやつだ。
そいつが、冬に、うちの宿に来た。
入口で、立ってた。
それで、頭を下げた。
「仕事を、回してくれねえか」
——オレは、回してやったよ。
腕は悪くねえんだ、あいつら。組む相手がいなかっただけだ。
あのときのガロンの顔は、ここでは話さねえ。
話さなくていいことは、話さねえ。
師匠の本の、最後の章と同じだ。
7か月だ。
去年の秋にCランクで、いまはBランクだ。
格は、62から105になった。
……そこの棍の嬢ちゃん。いま、信じてない顔したな。
いいよ、信じなくて。明日の朝、その辺の硬いやつを1匹持ってきてくれ。割ってやるから。
なんで海を渡ったか、って?
師匠を追ってきた。
冬に北の空が裂けただろ。あの方角に行った。
行ったら、もういなかった。
東に行った、って聞いた。
船賃は、ガロンたちが半分出した。
「貸しにしとく」って言われた。
あいつが人に貸しを作る側に回ったの、たぶん生まれて初めてだぞ。
だから船に乗った。3週間、揺られた。ゲロ吐いた。2回。
船の上でも2000回振った。揺れるから、かえっていい稽古になる。
水夫に「何と戦ってんだ」って聞かれた。
「明日のオレです」って答えたら、変な顔された。
——前はな、追いつきてえと思ってた。
いまは違う。
オレは、追いつくために強くなったんじゃない。
隣に立つために強くなった。
隣に立てるやつが1人もいねえから、あの人は全部1人で書いてるんだ。
書ける人間が、もう1人いたっていいだろ。
——聞きたいことも、1つある。
あの白紙の章によ、オレが書いたやつを入れていいか、って。
たぶん、断られる。
あの人は、他人の名前を自分の本に乗せるのはやるけど、自分の本を他人に渡すのは、嫌がると思う。
嫌がったら、もう一回頼む。
それでも駄目なら、オレが自分で刷る。
そのときは表紙に、こう書く。
『斧の本 ラス・ウェイド』
……どうだ。いい題だろ。
いま考えた。
……なんだよ、その顔は。
師匠の名前が知りたい? 言わねえよ。
言ったら、おまえらが探しに行くだろ。
いいか、坊主ども。
明日、満潮洞に入るんだったな。
剣と弓と、あと魔法の姐さんが付いてるって言ってたか。
やめとけ、とは言わねえ。
ただ、これだけ覚えとけ。
——硬いやつが出たら、剣は滑る。
滑ったら、そこから先は、剣を持ってるやつの仕事じゃねえ。
そのときは、大声出せ。
オレ、耳はいいんだ。
……ん? 最後に1つだけ?
しょうがねえな。1つだけだぞ。
——「3年Fランクで、よく辞めなかったな」か。
よく聞かれる。
答えは、たいしたもんじゃねえ。
オレはな、辞めたあとの自分を想像したことが、一度もねえんだ。
それだけだ。
強くなるやつと、ならねえやつの違いなんて、才能でも武器でもねえよ。
明日も振るか、振らねえか。それだけだ。
師匠が最初にオレに言ったことも、それだった。
「明日、来ますか」
そう聞かれた。
オレは「行きます」って答えた。
それから、1日も休んでねえ。
さあ寝ろ。火は落としとくから。
明日、生きてたら、続きを話してやる。




