85.厭(えん)と、飽い
翌朝、俺はギルドで通詞を雇おうとした。
断られた。
3軒回って、3軒とも断られた。
3軒目の男は、はっきりこう言った。
「あんた、ノルン先生を騙ってる人だろ。名前が売れるんで、仕事は受けない」
俺は、礼を言って出た。
出たところの橋の袂に、ロウが立っていた。
昨日、腕を組んでいた22歳だ。
「シュイに言われた」
彼は、不機嫌な顔でそう言った。
「あんたが村に来ないか、見張ってこいって」
「来ますよ」
「来るなって言われただろ」
「言われました」
ロウは、しばらく俺を見て、それから、目を逸らして言った。
「……字は、読める」
「え」
「おれは、読める。村で一人だけ、読み書きを習った」
彼は、腰の袋から、擦り切れた1冊を出した。
淵語の『飽いと戻りについて』だった。
「昨日から、気になってんだよ」
「何がですか」
「あんた、読めないって言った。読めないのに、中身は全部言えるって言った」
彼は、本を突き出した。
「読んでやる。言ってみろ。1つでも外れたら、二度と名乗るな」
◇
宿の卓に、2冊並べた。
俺のほうは、アイリーンが綴じた原本だ。厚い。余白の書き込みが全部残っている。
ロウのほうは、薄い。余白が、ない。
「『狩り場の選び方』」
ロウが読み上げた。
「『同じ獲物を獲り続けると、得られるものが減る。これを厭という』」
「合ってます」
「『厭は獲物ごとに数が決まっている。泥蟹は百九十』」
「そこも合ってます」
「次。『獲物が再び現れるまでを還という。還の日数は場所ごとに違う』」
「合ってます。うちでは『戻り』と呼んでます」
「『還を待たずに入ると、獲れが半分になる』」
「それは書いてません」
ロウの手が、止まった。
「……は?」
「俺が書いたのは、『戻りの途中で入ると、湧きの種を潰す』です。半分にはなりません。ゼロになります」
「どっちがきついんだよ」
「ゼロのほうが、きついです」
ロウは、俺の顔を見た。
見てから、頁をめくる手が速くなった。
「『初めての獲物は、まず十を獲って、取れを見よ』」
「合ってます」
「『日の出前と日の入り後は、湧きが変わる』」
「合ってます」
「『狩り場を変える日は、前の日の夜に決めておけ』」
「……それ、俺が書いたやつじゃありません」
「あ?」
「余白に、誰かが書き足したやつです」
俺は、原本の同じ頁を開いて、端を指した。
下手な字で、こう書いてある。
『決めるのは前の晩にしとけ。朝に決めると、勿体なくなって動けん』
「これは、北の街の日雇いの人が書きました」
「……それが、こっちの本に入ってんのか」
「入ってますね」
ロウは、本を両手で持ち直した。
さっきまでの持ち方と、違う持ち方だった。
俺は、原本の同じ頁を開いた。
『泥蟹 飽い190体 戻り4日』
「じゃあ次だ」
ロウは、頁をめくった。
そして、注の欄を読み上げた。
「『すなわち、百九十を討て』」
——手が、止まった。
「もう一度、いいですか」
「『すなわち、百九十を討て』」
俺は、原本の同じ場所を見た。
俺が書いた文は、こうだ。
『飽い190体。よって189体で切り上げ、次の狩り場へ移る』
「……逆です」
「あ?」
「190は、獲る数じゃありません」
俺は、卓に指で線を引いた。
「190体目から、取れが落ちます。だから189で止めて、場所を変える」
「……落ちる?」
「はい」
「増えるんじゃなくて」
「落ちます」
ロウが、本を持ったまま動かなくなった。
持っている手の、親指の爪が白くなっていた。
「おれたちは」
彼は、そこで一度、息を継いだ。
「おれたちは、190まで数えて、それから、上の狩り場に行った」
「……はい」
「190まで獲ったのに、思ったほど格が上がらねえから、『まだ足りない』って言って」
「はい」
「足りねえから、もっと強いところへ行った」
——そうなる。
境界を越えて獲り続ければ、取れは落ちる。
落ちたことは、自分では分からない。数字が見えるのは、俺だけだ。
だから彼らは、こう考える。
『ここまでやったのに上がらない。ならば、もっと強い相手を獲らねば』
そして、まだ届かない相手の前に立つ。
「何人ですか」
俺は、聞いた。
ロウは、答えなかった。
答えなかったので、俺はギルドへ行った。
◇
死亡記録は、受付の奥にあった。
見せてくれたのは、金を払ったからではない。
俺が「泥蟹から河蛇に上がった者を調べたい」と言ったからだ。
書記が、少し黙ってから、綴りを出した。
半年で、11人。
全員、泥蟹の狩り場から、河蛇の淵へ移った直後に死んでいる。
河蛇はLv60帯だ。泥蟹はLv20帯だ。
間に何段もある。
本気で足りていないなら、ふつうは行かない。
『足りているはずなのに足りない』と思った者だけが、行く。
名前が、並んでいた。
ジャン・ホ(19)。
メイ・スン(17)。
ウー・タイ(23)。
あとの8人は、名前がない。身元の分からない者は、番号だけが書いてある。
俺は、その11行を、3回読んだ。
読んでも、増えも減りもしない。
◇
その日の夕方、宿に商人が訪ねてきた。
痩せていて、丁寧で、東の訛りがある。
「クアン・タオと申します」
彼は、深く礼をした。
1年近く前と、同じ礼だった。
「早かったですね」
「両替商から聞きました。金貨96枚を、40貫だけ替えた客がいたと」
彼は、目を伏せた。
「そういう替え方をする人を、わたくしは一人しか知りません」
後ろに、若い男が立っていた。
「訳をした者です。連れてまいりました」
若い男は、青い顔をしていた。
俺は、先に聞いた。
「『厭』という字は、どういう意味ですか」
訳者が、顔を上げた。
「……飽きて、嫌になる、という字です」
「悪くないですね」
俺は、そう言った。
本当に、悪くない。
『飽い』は、アイリーンが古語から選んだ言葉だ。満ちて、それ以上入らない、という意味だった。
この男は、それを、別の言葉の体系の中で、ほとんど同じ場所に置いている。
訳は、合っている。
間違っているのは、訳ではない。
若い男が、卓に膝をついて、額を床につけた。
クアン・タオは、それを止めなかった。
止めずに、本を1冊、卓に置いた。
「二百十の注は、わたくしが入れさせました」
「……あなたが」
「はい。『二百十』とだけあっては、読者が何をすればよいか分かりません。商品として、成立しないのです」
彼は、自分の指で、その注をなぞった。
「売り物には、やることが書いてなければなりません。ですから、書かせました」
「11人死にました」
「存じております」
彼は、顔を上げた。
「残っている3,200冊を回収します。訳し直します。費用はすべて当方で持ちます。東方六都市の商館には、明日、触れを出します」
「……それで」
「はい」
「謝らないんですね」
クアン・タオは、そこで初めて、少し間を置いた。
そして、こう言った。
「わたくしは、間違ったことをしたとは思っておりません」
「……」
「間違った訳を売りました」
区別を、つけている。
この人は、いつもそうだ。
売ったこと自体は罪ではない、と言っている。
そして——それは、正しい。
『金では、売りません』
『条件は一つです。団の全員に、無料で教えること』
1年半前、北の街で、俺が自分で言った言葉だ。
無料で配ったものには、値札がない。
値札のないものには、持ち主がいない。
持ち主のいないものを、誰がどう訳しても、罪にはならない。
俺は、反論の言葉を探した。
探して、見つからなかった。
見つからないのは、これで二度目だ。
◇
クアン・タオが帰ったあと、俺は卓の前に座ったままだった。
リゼが、湯を持ってきて、黙って置いた。
徹が、何か言おうとして、やめた。
相馬は、板に何も書かなかった。
セシルだけが、卓の向かいに座って、淵語の本を開いた。
「わたし、読めるようになります」
彼女は、そう言った。
「どのくらいかかりますか」
「分かりません」
彼女は、1文字目に指を置いた。
「でも、次に誰かが訳すとき、わたしが横にいれば、こうはなりません」
俺は、何も答えられなかった。
窓の外で、運河の水が動いていた。
線を引いて、測って、暮らしている街だ。
その線の上を、俺の書いた1行が、間違った形で流れていた。
夜中に、リゼが起きてきた。
「まだ起きてる」
「起きてる」
「ジャン・ホ、メイ・スン、ウー・タイ」
俺は、顔を上げた。
「3人だけ、名前があった」
彼女は、そう言った。
「覚えとく」
「……いや」
「わたしが覚えとく。ノルンが忘れても、消えないように」
——約束を、この人は1つも取り落とさない。
俺は、卓に置いた手を、握れなかった。
握らないまま、そこに座っていた。




