83.東海の三週間
海に出て4日で、船の中の暮らしは徹の紙のとおりになった。
水は1人1日2杯。朝と夕。
見張りは2刻交代で、俺たち6人と水夫で回す。
飯の当番は、俺とリノが同じ組だ。
3日目に、水夫が1人、当番表を見に来た。
4日目には、3人が見に来た。
5日目に、船長が「紙を1枚くれ」と言った。
船長は、ロヴィクといった。東廻りを19年やっている男だ。
「客の書いた表で船を回すのは、初めてだ」
「すんません」
徹は、なぜか謝った。
海の上では、狩れない。
当たり前のことだが、俺にはそれが痛い。
3週間、Lv550のまま動かない。
陸にいれば、19日で裂け目が1つ戻る。3週間は、まるまる1周ぶんだ。
——焦っても、海は縮まない。
俺は、甲板で剣を振ることにした。
朝に300、夕に300。
3日目から、リゼが横で弓弦を張るようになった。
5日目から、リノが後ろで棍を振りはじめた。
8日目には、水夫が2人、見よう見まねで櫂を振っていた。
7日目の夜、相馬が卓に板を出して聞いてきた。
「東の狩場、何があるんですか」
「3つ覚えてます」
俺は、板に3行書いた。
「潮喰いの大蛇。東海の満潮洞。Lv560帯。飽い24体で、戻り31日」
「多いですね。24」
「多いです。ただ、洞が開くのが満潮の前後2刻だけです」
「入れる時間が、短い」
「入れる時間と、出られる時間は、別です」
俺は、そこを丸で囲んだ。
「あとは赤鉄の犀。飽い16体、戻り26日。これは帝国領です」
「入れませんね」
「入れません」
「3つ目は」
「雷紋の孔雀。飽い11体、戻り40日」
相馬は、その数字を写してから、顔を上げた。
「40日待って、10体ですか」
「10体です」
「……それ、効率って言えます?」
「言えません」
俺は、正直に答えた。
「Lv550から先は、そういう帯です」
彼女は、半拍遅れて、少し笑った。
「知ってる人が言うと、救いがないですね」
◇
11日目の朝、海の色が変わった。
濃い青の上に、細かい銀色の粒が浮いている。
魚の腹だ。
死んだ魚が、点々と、北へ流れていく。
「銀鰭だな」
ロヴィクが、手すりに肘をついて言った。
「どういうものですか」
「腕ぐらいの魚だ。群れで来る。舵と櫂を食う」
「人は」
「落ちたら、終いだ」
彼は、短く言った。
「去年は2人。一昨年は1人。19年で、9人だ」
——9人。
「いつ来るか、分かりますか」
「分からん」
ロヴィクは、水平線を見たまま答えた。
「機嫌だよ。来るときは来る。来ねえときは来ねえ」
俺は、空を見た。
昼だが、白い月が低いところに残っている。
——満月の、3日前。
「明後日の夜明けです」
ロヴィクが、こっちを見た。
「何だって」
「明後日、夜明けの少しあと。来ます」
「……根拠は」
「湧きが満月の前後3日。間隔が11日です」
俺は、流れていく魚を指した。
「11日前に、一度出てます。これはそのときの食い残しです」
ロヴィクは、俺の顔を2秒見た。
そして、笑わなかった。
19年やっている男は、こういうとき笑わない。
「……当たったら、酒を出す」
◇
明後日の、夜明け。
海の面が、内側から白く沸いた。
「来たぞ!」
見張りが叫ぶより先に、俺は舳先にいた。
群れの形は、覚えている。
先頭が扇に開いて、遅れて本隊が来る。舵を狙うのは本隊だ。先頭は囮で、そこを叩いても群れは止まらない。
だから、先頭は通す。
「リゼ。先頭は撃つな。真ん中の、水が盛り上がってるところ」
「わかった」
矢が、飛んだ。
盛り上がりの芯に刺さって、そこだけ動きが崩れる。
崩れた群れが、一拍、固まる。
——そこだ。
「《氷牙の檻》」
海面が、右舷から30歩ぶん、白く固まった。
本隊が、氷の下に閉じた。
閉じたものは、もう船には来ない。
飛び越えてきたのが、甲板に落ちた。
腕ぐらいの魚が、歯を剥いて跳ねる。
水夫が3人、悲鳴を上げた。
俺は、剣を抜いた。
37。
落ちた数と、斬った数が合っている。
甲板が静かになったとき、ロヴィクは、まだ舵輪を握ったままだった。
握ったまま、一度も動いていなかった。
「……舵は」
「無事です」
「櫂は」
「1本も欠けてません」
「人は」
「誰も落ちてません」
彼は、そこでやっと手を離した。
離した手が、震えていた。
「19年で、初めてだ」
「何がですか」
「群れに当たって、1人も減らなかったのが、だ」
彼は、樽から酒を出した。
出しながら、こう聞いた。
「なんで、来る日まで分かるんだ」
「戻りが11日だからです」
「……もどり?」
◇
その夜、甲板で、若い水夫が俺の横に座った。
19か20か、そのくらいだ。東の訛りがある。
「あんた、狩りの人か」
「そうです」
「なら知ってるだろ。厭が来たら、場所を変えるんだろ」
俺は、聞き返した。
「……厭?」
「厭だよ、厭」
彼は、指で甲板に字を書いた。
読めない字だった。
線が多くて、四角い。
「同じ場所で獲りすぎると、獲れが落ちる。落ちたら動く。狩りの本に、そう書いてある」
「その本、どこで」
「サンジュの市だ。銀貨40枚」
——飽い。
俺の言葉じゃない。
アイリーンが選んだ言葉だ。
その言葉が東の字に訳されて、いま、海の真ん中で、俺に説明されている。
「……いい本ですか」
「読めねえよ。おれは字が読めねえ」
彼は、笑った。
「親方が読んで、覚えろって言うから、口で覚えた」
字の読めない水夫が、俺の書いたものを暗唱している。
俺が書いたのは、日本語だ。
それをアイリーンが直して、この世界の字になって、東の字になって、いま、字を使わない形で人の口に入っている。
徹が、後ろから顔を出した。
「ノルンさん。これ、著作権とか、そういうの、ないんすね」
「ないですね」
「印税があったら、俺、当番表とか作らなくてよかったのに」
「作ってください」
「作りますけど」
リゼは、船に強かった。
相馬は、3日目で立てなくなって、5日目に戻ってきた。
戻ってきた第一声が「……船、2度目はないです」だった。
セシルは、初日から水夫に読み書きを教えている。
そしてリノは、11日目の朝から、死んだ魚を数えていた。
「ノルンさん」
「うん」
「あの魚、3日前は12でした。昨日は31。今朝は60です」
彼女は、掠れた声で言った。
「倍になってます」
「そうだな」
「次の群れが、もう始まってます」
——数えている。
俺が銀鰭の話をしたのは、船長にだけだ。
この子は、俺の言ったことを一度も聞いていない。
海だけを見て、同じところに来ている。
「リノ」
「はい」
「次、どのへんで来ると思う」
彼女は、少し考えて、右手を水平線に向けた。
「あっちの、風が細いところです」
合っていた。
リゼが、俺の横で小さく言った。
「教えてないのに」
「教えてない」
「じゃあ、あの子のだね」
「そう」
——そうだ。
あれは、あの子のだ。
◇
17日目の朝、群れが来た。
リノの言ったとおり、風の細いほうからだった。
数は、前回の半分もない。
俺は、舳先に出なかった。
「リゼ。芯を潰したら、あとは任せる」
「わかった」
「セシルさん、風は洞じゃないので使っていいです。ただ、帆に当てないように」
「は、はい」
「リノ、甲板に落ちたぶんを頼む」
「はい」
矢が、群れの芯に入った。
《断空》が、海面を横に薙いだ。
甲板に落ちた銀鰭を、掠れた声の子が、棍で1匹ずつ潰していく。
水夫たちが、櫂を持って横に並んだ。
誰も、悲鳴を上げなかった。
終わるまでに、四半刻もかからなかった。
ロヴィクが、俺の横に来た。
「あんた、出ねえのか」
「出たら、この人たちの数が減ります」
「減る?」
「次にこの船が群れに当たるとき、俺は乗ってません」
俺は、そう言った。
「そのときに櫂を持てる人間が、いま7人増えました」
ロヴィクは、口を開けて、それから閉じた。
19年やっている男が、2度目に黙った。
◇
三週間目の朝、水平線に陸が出た。
低い島が3つ並んで、その奥に、平たい土地が広がっている。
運河の口が、海へ向かって開いていた。
「カリャンだ」
ロヴィクが言った。
「三渚まで、あと半日だ」
船が近づくにつれ、水の色が薄くなった。
運河から出てくる土の色だ。
石を積んだ岸が、海に向かって長く伸びている。その上に、赤と白の旗が等間隔で立っていた。
旗の間隔が、全部同じだった。
——測って立てている。
水を引いて、土地を作って、線を引いて暮らしている人たちの街だ。
甲板の手すりに、リゼが並んだ。
「本、燃やしたりする?」
「しない」
「怒ってるのに」
「怒ってる」
俺は、東を見た。
あの陸のどこかに、俺の名前で売られている本がある。
その本を、字の読めない人間が、口で覚えている。
覚えたとおりに動いて、たぶん、何人かは助かっている。
そして、何人かは。
「……会いに行く」
「うん」
「会って何を言うかは、まだ決めてない」
リゼは、それきり何も聞かなかった。
聞かずに、俺の袖を1回だけ引いた。




