82.春が二度来た街
ヴェルンハイムに、二度目の春が来た。
順番は、去年と同じだった。
港の氷が割れて、鳥が戻って、詰所の壁の表が貼り替わる。
違うのは、貼ってある表の枚数だ。
去年の春は、3枚だった。
いまは、11枚ある。
俺は、朝のうちに帳面を開いた。
攻略のことは書かない、ほうの帳面だ。
買ってから、4か月になる。
頁の上から3番目に、『母 台所』の項目がある。
その下が、3か月、空いたままだ。
炭を持って、しばらく待った。
出てきたのは、氷原の、進軍の前の晩だった。
天幕の中で、リゼが指を折っていた。
「ごはん、あっためる?」
「電気つけなさい」
「まだやってるの」
3つとも、合っている。
合っているのに、声が、リゼだった。
俺は、その下に1行足した。
『※声は、リゼのになった。』
炭を持ち直して、もう1行足した。
『※これは、書いておいたほうがいい。』
書けるものから書く。
書けないものは、書けないと書いておく。
2年かけて覚えた、俺のやり方だ。
◇
昼、灰狼の詰所に呼ばれた。
ヴィオが、卓の上に紙の束を放った。
「東から来た船が、これを持ってきた」
「ギルドの回覧ですか」
「3枚ある。うちの荷が2つ、東の街道で消えてる」
彼女は、椅子の背に体を預けた。
「読めるやつに読ませたい。読んで、値をつけろ」
俺は、1枚目を取った。
翠州連邦。内陸の街道。宿場が3つ、ひと月で潰れている。
出るのは夜明け前。
姿は「悪鬼のよう」と書いてある。角があり、腕が長く、歯が並んでいる。
分類の欄に、こうあった。
『野盗の類と思われる』
——違う。
俺は、1枚目を伏せた。
「セシルさん。2枚目と3枚目、読んでもらえますか」
「え、あの、わたしがですか」
「合ってるかどうか、確かめてほしいので」
俺は、天井を見た。
「1つ。数が日ごとに増えてます。最初は2、3体で、いまは20を超えてるはずです」
セシルが、紙をめくった。
「……『初めは二、三。いまは二十を数う』」
「2つ。斬っても死体が残りません。焼いても灰が出ません」
「……『骸なし。灰もなし』」
「3つ。同じ場所に二度は出ません。出る場所が、内陸から外へ、少しずつ動いてます」
セシルの手が、止まった。
彼女は、紙を持ったまま、俺を見た。
「ノルンさん」
「はい」
「これ、まだ読んでませんよね」
「読んでません」
「……全部、書いてあります」
ヴィオが、椅子から体を起こした。
「先生。何だそれは」
俺は、答えた。
「羅刹兵です」
詰所の音が、一段下がった。
名前は、ゲームのものだ。
悪鬼の姿をした雑魚で、夜明け前に湧いて、斬っても骸が残らない。3年半で、何千体も斬った。
出所は、言わない。
この街では、もう誰も「なぜ知っている」と聞かない。
「強えのか」
「1体なら、この街の中堅で勝てます」
「なら、荷の1つや2つ——」
「ヴィオさん」
俺は、そこで区切った。
「あれは、ある場所の内側にしか湧きません」
「3年半、一度も、外で見たことがないんです」
俺は、伏せた紙を、指で押さえた。
「外に出てるなら、内側が、開いてます」
「……内側ってのは」
「東の柱です」
徹が、壁際で口を開けた。
「あの、それ、北で出たやつと、同じ枠すか」
「同じ枠です」
「……うわあ」
彼は、腕章を握って、そのまま黙った。
ヴィオは、しばらく紙を見ていた。
それから、短く聞いた。
「いつだ」
「分かりません」
俺は、正直に答えた。
「あれが湧きはじめる瞬間を、見た人間がいません」
「あんたもか」
「俺もです」
——知らないほうを、先に言う。
知らないことを数えるのにも、練習が要る。
「値をつけろ、って言いましたよね」
「言った」
「荷は、2つでは止まりません」
俺は、3枚目の、出た場所を書いた欄を指でなぞった。
点が、内陸から海のほうへ、順番に並んでいる。
「この街道は、ひと月で閉じます。二月もちません」
「……根拠は」
「湧く場所が、外へ動いてるからです。内側が広がってます」
ヴィオは、椅子を鳴らして立った。
帳簿を開いて、東廻りの頁に、その場で線を引いた。
書き終えてから、顔を上げずに聞いた。
「先生。それ、確かか」
「確かじゃないです」
俺は、そう答えた。
「ただ、外れたら損するのは荷です。当たったときに損するのは、人です」
彼女は、ペンを置いた。
「……8年かけて、1.1倍にした商売だぞ」
「知ってます」
「それを、おまえの一言で削らせるのか」
「はい」
ヴィオは、鼻から息を吐いて、帳簿を閉じた。
「削る」
東へ行く理由は、3つある。
1つ目は、羅刹兵だ。
2つ目は、裂け目だ。
この大陸の裂け目は7つある。竜骨山脈の裏に2つ、東の高原に1つ、西の岬に1つ、北の氷原の手前に3つ。
全部、回った。3つは、いまも凍っている。
だが、ゲームでは、裂け目は10あった。
残りの3つは、東海の向こうにある。
飽いの開始は10体。9体で切り上げて次へ移る。戻りは19日。順に回れば、最初の1つがちょうど戻っている。
去年、Lv486のときに計算した。7つを1周して、上がるのは8そこそこ。1周19日。
いまはLv550だ。同じ計算をやり直すと、数字はもっと下がる。
既知の狩場では、もう埋まらない。
——ただし、東の3つは、誰も獲っていない。
この世界に、地脈喰いを狩れる人間はいない。
湧きはじめてから一度も間引かれていない裂け目が、3つある。
そこがどうなっているかは、俺も知らない。
知らないが、行く価値はある。
3つ目は、俺の手順書だった。
「東の6都市で、銀貨40枚で売られてます。前提を全部抜いたやつが」
「あれか」ヴィオが鼻を鳴らした。「訳されてるらしいぞ」
「……訳?」
「東の字にだとよ。表紙に、おまえの名前だけ残してな」
俺は、少し黙った。
訳したものは、俺には読めない。
読めないものが、俺の名前で売られている。
「3つ目が、いちばん安い理由だな」
ヴィオが言った。
「はい」
「いちばん腹の立つ理由だろ」
「……はい」
◇
その夜、詰所の卓に7人が残った。
東へ行くのは、そのうちの6人になる。
徹が、真っ先に手を挙げた。
「行きます。船、3週間すよね。飯と水と、当番表つくっときます」
「頼みます」
「俺、シフト組むの得意なんすよ。夜勤のない船はないんで」
セシルが、そのあとに言った。
「わたしも、行きます」
「教壇は」
「……もう、わたしじゃなくても回ります」
彼女は、指を4本立てた。
「ヤナさんと、上の3人が続けてくれます。わたしが教えた人が、もう教えてるので」
——教わった側が、教える側を作っていた。
俺の書いた紙は、そこには1枚もない。
「わたし、行きます」
掠れた声が、卓の低いところから来た。
リノだった。
「東の獲物は、誰も見てません」
「見たら、書きます」
相馬は、板と炭を膝に乗せたまま、ひとことだけ言った。
「行きます」
それから、半拍遅れて、少し笑った。
「わたし、船、初めてです」
リゼは、行く行かないの話に入らなかった。
彼女は、卓の端で弓弦を巻いていて、話が途切れたところで顔も上げずに言った。
「荷、もう積んだ」
「まだ何も決めてない」
「決まる」
——決まった。
シグルドは、窓の外を見たまま言った。
「俺とレインは、あとから追う」
「助かります」
「ミアは、連れていかん」
彼は、そこで初めてこっちを見た。
「一族の最後の子を、柱に近づけんよ」
◇
出航は、10日後の朝だった。
船の名は『海燕』といった。東廻りの交易船で、行き先は三渚。海路3週間。
船賃は、1人14金貨。6人で84枚だ。
徹は、乗る前から帆柱に紙を貼っていた。
水の当番、飯の当番、見張りの当番。6人ぶんが、3週間、日付で埋まっている。
船長が、それを見て眉を上げた。
「客が当番表を持ってきたのは、初めてだ」
「あ、すんません。癖なんで」
「……減らせるか。うちの水夫のぶんも」
「見ます」
徹は、その場で紙をもう1枚出した。
——この人の武器は、いつも1回で通る。
ヴィオは、桟橋で帳簿を閉じてから、その袋を俺の胸に押しつけた。
「利子は取らねえ」
「……いいんですか」
「その代わりだ。先生」
彼女は、片目の古傷を歪めて笑った。
「灰狼の件、まだ諦めてねえからな」
「1年4か月、言い続けてますね」
「あと9年8か月ある」
計算が、合っていた。
「まだ、言葉にできてません」
俺は、そう言った。
「断る理由のほうです。言葉にできないまま、断ってます」
「上等だ」
ヴィオは、袋の口を締め直した。
「言葉にできてねえってことは、まだ脈があるってことだ」
そして、船が岸を離れるとき、彼女は桟橋の先まで来て怒鳴った。
「帰ってこい! 帰ってこねえと、84枚が回収できねえ!」
徹が、甲板で笑った。
リゼが、笑わずに手を振った。
——この人たちは、金額で人を送り出す。
そういう街で、俺は2回、春を見た。
◇
ヴェルンハイムの屋根が、水平線の下に落ちた。
俺は、ステータスウィンドウを開いた。
Lv.550
クエストログ
進行中:帰??
称号:二柱――
2文字のままだ。
柱を1つ落としてから、5か月。1文字も動いていない。
東の空は、よく晴れていた。
向こうに、あと2つある。
そのうちの1つが、いま、開こうとしている。
そして、そこには。
俺の顔も、強さも、届いていない。
俺の名前だけが、先に着いている。
リゼが、横に来た。
潮の風で、髪が全部、後ろへ流れていた。
「ノルン」
「ん」
「『ごはん、あっためる?』」
彼女は、指を1本折った。
「まだ、持ってる」




