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81.書かなかったこと

ヴェルンハイムに春が来たのは、それから2か月後だった。


北の空の裂け目は、ゆっくり閉じた。


港の氷が割れて、噛まれていた11隻のうち9隻が浮いた。


鳥が、戻ってきた。


詰所の壁には、まだ表が貼ってある。


いちばん新しいのは、『春の猟場の割り当て』だ。


字は下手だが、枠が全部同じ幅で、名前が縦に揃っている。


「ノルンさん、おはようございます」


徹は、灰狼の事務方の腕章をつけていた。


「夜勤、どうですか」


「最高っす。誰も来ないんで」


ステインから、手紙が来た。


字が、下手だった。


去年より、少しだけ、ましになっていた。


『ノルンさんへ


 あたらしい人を、12人おしえています。


 やり方は、まえと同じです。


 こたえは、いちども言っていません。


 こたえを言わないのは、しんどいです。言ったほうが早いので。


 でも、言わないほうが、あとで速いです。


 これは、ぼくが3かいためして3かいそうでした。


 けいじばんの「たしかめたこと」は、いま91まいです。


 ノルンさんのぶんも、はっていいですか。


 トト』


——91枚。


去年、31枚だった。


その前の年は、11枚だった。


俺は、返事を書いた。


『貼っていい。


 ただし、3回ためして3回そうだったやつだけにしてくれ。


 俺のは、たいてい1回しか試してない。』


街を歩くと、言葉が変わっていた。


「その猟場、飽いが来てるだろ」


市場の脇で、駆け出しが2人、そう言い合っていた。


「戻りは何日だ」


「9日」


「じゃあ、明後日でいい」


2人とも、革の胸当てをつけていた。


去年の春、この街の駆け出しは、胸当てを買えなかった。日雇いの日当が銅貨25枚。宿代が11枚。パンと水で4枚。残るのは10枚だ。革の胸当ては銅貨で200枚する。


いまは、日当が58枚になっている。同じだけ引いても、43枚残る。


5日で買える。


俺が動かしたのは相場じゃない。この2人が、猟場を7日で一巡するようになっただけだ。


——1年ちょっと前、この街に、その言葉はなかった。


俺が作った言葉でもない。


アイリーンが選んだ言葉だ。


そして、それを最初に当たり前に使ったのは、この街の日雇いと、斧の少年だった。


レインが、王都へ戻る前に、酒を持ってきた。


肋は繋がったが、右腕はまだ上がらない。


「ノルン」


「はい」


「1つ、取り消す」


俺は、コップを置いた。


「『お前が死んだら、この世界には何も残らない』」


彼は、そう言った。


「これを、取り消す」


「……いいんですか」


「よくはない」


彼は、酒を飲んだ。


「お前の頭の中には、まだ何千枚もある。それは、お前が死んだら消える」


「はい」


「そこは、変わっていない」


「だが」


彼は、コップを置いた。


「塚で、俺が習ったことを、俺が書いた」


「はい」


「あの12歳が、足首を見つけて、それも紙になった」


「はい」


「あの小男の表は、いま街が使っている」


「はい」


「お前が死んでも、書ける人間が増えた」


彼は、そこで、初めて、俺の目を見て言った。


「それは、残る」


俺が返事をする前に、横から声が入った。


「じゃあ、わたしのものになった人が死んでも、困らないんですね」


リゼだった。


レインが、しばらく黙った。


そして、こう言った。


「……それは、別の話だ」


「別ですよね」


「別だ」


「なら、そう言ってください」


俺は、そのやりとりを、コップの陰で聞いていた。


ヴィオは、去り際に、こう言った。


「先生。灰狼の件、まだ諦めてねえからな」


「……1年近く、言い続けてますね」


「あと10年言う」


10年。


この人は、団の稼ぎを1.1倍にするのに8年かけた人だ。


その人が、10年ぶんの時間を、俺1人を口説くのに使うと言っている。


断り続けるほうの理由を、俺はまだ、言葉にできていない。


言葉にできないまま、断っている。


たぶん、そこがいちばん、この人に失礼だ。


『飽いと戻りについて』の第二稿が、刷り上がったのは、春の終わりだった。


アイリーンが、王都から持ってきた。


厚い。第一稿の3倍ある。


中身は、こうなっている。


『飽いと戻りについて 第二稿


  著——アイリーン・ヴォルフ/セシル・ウェイン/ノルン


  寄稿——トビアス・レーン/相沢徹/ミア・ハウグ/レイン・アシュフォード/リノ・カラム/その他11名


  ※余白の書き込みは、すべて残した。消していない。』


——著者が、3人になっている。


俺の名前は、3番目だった。


そして、最後の1章が、白紙だった。


30枚以上、何も書いていない。


表題だけが、いちばん上にある。


『書かなかったこと』


アイリーンが、その頁を開いて、俺を見た。


「ノルンさん」


「はい」


「これは、未完成では」


俺は、答えた。


「そこが、本文です」


説明は、2か月かかって、こうなった。


俺は、1行を削って、3人殺した。


削った理由は4つあって、4つとも正しかった。


だから、また削る。


全部は書けない。書けば読まれない。読まれなければ守れない。


書かないこと自体は、やめられない。


だが、塚で、12歳が止まらなかった。


彼女は、こう言った。


『手順には、こういうときに、どうするかは、書いてありませんでした』


『だから、自分で決めます』


あの子は、紙を疑ったんじゃない。


書いていないことを、書いていないと、正確に言った。


俺は、いつも1秒迷う。「紙はこうだが、目の前は違う。どっちだ」。


その1秒が、止まる時間だ。


あの子は、線を先に引いてから、現場に立っていた。


——なら、線を、こっちで引いておけばいい。


白紙の30枚は、こう言っている。


「ここから先は、書かれていない」。


そして、余白は、書き足すためにある。


アイリーンは、しばらく白紙を見て、それから、頷いた。


「綴じます」


「いいんですか」


「わたしは記録官です」


彼女は、綴じ糸を出した。



「空白も、記録です」


彼女は、針に糸を通した。通すのに、一度も手元を見なかった。11年、地下三層でそれをやってきた手だ。


白紙の30枚を、他の頁とまったく同じ間隔で綴じていく。糸が紙を抜けるたびに、乾いた音が1回した。


30回、同じ音がした。



相馬は、その本を、長いこと見ていた。



白紙の頁を、1枚ずつ、最後までめくった。



そして、こう言った。



「……ずるいですね」



「はい」



「これ、解決してないですよ」



「してません」



「書いてないところで、みんな転びます」


「転びます」



彼女は、本を閉じた。



そして、返しながら、こう付け足した。



「でも」



「はい」



「転ぶ場所が、書いてあります」



彼女は、そこに書き込まなかった。


1文字も書かずに、俺に返した。



「いつか書きますか」



俺が聞くと、彼女は少しだけ笑った。



例の、半拍遅い笑い方だった。



「まだです」


まだ、という言い方に、俺は少し安心した。


「書きません」ではない。


3年、読むだけだった人間が、板と炭を持ち歩くようになって、いまは「まだ」と言う。



手紙の束の中に、宛名が下手くそなのが1通あった。



封の横に、斧の絵が描いてあった。



俺は、それを読んで、少し笑った。



そして、荷のいちばん奥にしまった。



黄色い綴じ紙と、同じ場所だ。



   ◇


その夜、俺は、白紙の帳面を1冊買った。



攻略のことは、書かない。



1頁目には、去年、1行だけ書いてある。


『佐久間 数学の小テストの話をするやつ 椅子の脚を蹴った』



その下に、続きを書いた。



『母 台所 「ごはん、あっためる?」「電気つけなさい」「まだやってるの」


  ※声は出ない。リゼが3つ覚えた。


 教室 6限のあと、いつも誰かが騒いでいた。窓は左。黒板は緑。


 コンビニ 扉が開くと音が鳴る。ピンポン、ではない。もっと低い。匂いは出ない。


  ※匂いは、たぶん、もう戻らない。だから音のほうを書く。』



——書けるものから、書く。



書けないものは、書けないと書いておく。



俺が、2年かけて覚えたやり方だ。



窓の外で、春の風が鳴っていた。



北の空に、まだ細い線が残っている。


閉じかけの、白い線だ。



その向こうに、あと2つある。


そして、300年前に石を彫った誰かも、あと2つと書いていた。



俺は、ステータスウィンドウを開いた。



 Lv.550


 クエストログ


 進行中:帰??


 称号:二柱――



1年4か月前、俺は、こう思った。



『999まで、あと579』



いまは、違う数字を見ている。



999は、この世界の上限だ。俺は、そこまで行ったことがない。



行ったことがあるのは、925までだ。



そこまでの道は、全部、覚えている。


どこで何を狩って、どこで飽いが来て、どこで移ったか。


その先は、俺も知らない。


1年4か月前、俺は上限までの距離を数えていた。


上限は、俺が一度も見たことのない数字だ。


見たことのない場所までの距離を数えるのは、簡単だ。何も思い出さなくていい。



だから、いま数えるべきは、こっちだ。



——925まで、あと375。



俺は、帳面を閉じて、灯りを消した。



明日から、また歩く。

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