80.二柱
白い水が、氷原に広がっていた。
27メートルぶんの水だ。
流れて、低いところへ集まって、そこで、また凍りはじめている。
石環の12本は、1本も倒れていなかった。
俺は、岩の上に座ったまま、ステータスウィンドウを開いていた。
Lv.550
クエストログ
進行中:帰??
称号:
——称号。
俺は、そこで、息を止めた。
1年3か月前。
竜の巣の岩室で、炭で書かれた5文字を見た日に、一文字目が読めるようになった。
二。
それから、1年3か月。
一文字も、増えなかった。
称号:二柱――
二文字目が、読めるようになっていた。
柱。
俺は、その2文字を、長いこと見ていた。
——二人目じゃ、なかった。
檻の中で、灰被りのジェスタが言った。
『見たことのない魔法を使うやつは、お前で二人目だ』
俺は、あの一言で、これを「二人目」だと読んだ。
一人目がいる。俺は二人目。そう読んだ。
1年3か月、そう読んでいた。
柱だ。
人ではない。
この世界が、神を数える単位だ。
一柱、二柱。
南の柱。
北の柱。
二柱。
俺は、岩の上で、自分の手を見た。
竜を1体。
巨人を1体。
2つ。
——数えられている。
俺が数えているんじゃない。
俺が、数えられている。
俺は、その言葉を、口の中で1回、転がしてみた。
数えられている。
誰が数えているのかは、どこにも書いていない。
風が、氷原を渡っていった。
崩れた氷の山から、湯気に似たものが上がっている。溶けているのではない。この寒さで溶けるはずがない。氷の内側にあったものが、抜けていくのだ。
音は、しなかった。
見えただけだ。
石環の内側では、28人が動いていた。
回復役が、ヤナの足に布を巻いている。ガウスは、雪に突き立てた大剣を抜こうとして、抜けずに諦めていた。シグルドは石環の1本に手をついたまま、動かない。
リノは、地面に座って、右手の包帯を巻き直していた。巻きながら、口が動いている。数えているのだ、と分かった。何を数えているのかは、分からない。
——生きてる。
28人。1人も欠けていない。
俺は、それを2回数えた。2回とも、28だった。
数を数えるのは、この2時間41分、俺がずっとやっていたことだ。
終わってからも、手が勝手にやっている。
「相馬さん」
俺は、岩を降りて、彼女を探した。
彼女は、石環の西側で、崩れた氷の欠片を1つ、拾い上げていた。
「称号、見てください」
彼女は、宙を見た。
そして、こう言った。
「一――」
「……変わってませんか」
「変わってません」
「本数は」
「3本のままです」
彼女は、宙を見たまま、指を3本立てた。立ててから、いちばん端の1本を、少しだけ曲げた。
「1本目が『一』です。2本目と3本目は、横棒のままです。長さも太さも、3年、1ミリも変わってません」
「毎朝、見てるんですか」
「見てます。起きたら、いちばん最初に」
俺は、その一言で、少し詰まった。
読めない4文字を、3年、毎朝いちばん最初に確かめてきた人間が、目の前にいる。俺は、この欄を、思い出したときにしか開いていない。
——合わない。
俺の「二」が柱の数なら、彼女の「一」も柱の数のはずだ。
彼女は、柱を1つも倒していない。
なのに「一」がある。
徹のは「三」だ。あの人は、獣1匹まともに倒していない。
——討伐数じゃない。
なら、着いた順か。
だが、それなら、俺の二文字目が「柱」になるのはおかしい。
「二人目の柱」では、意味が通らない。
文字数も、揃っていない。
彼女が3文字。俺が4文字。徹が4文字。
俺は、雪の上に、指で書いた。
『一——』
『二柱——』
『三———』
書いて、見た。
見て、何も出てこなかった。
残り、2文字。
そして、もう1つ。
俺の頭に、500年前の3行目が、戻ってきた。
『柱を数える者は——』
そこで、羊皮紙が終わっていた。
炭化ではない。切れているのでもない。
その先が、もともと書かれていない。
アイリーンは、あのとき、こう言った。
『途中でやめたんですね』
『あるいは、書けなかったか』
あのとき、地下三層は寒かった。息が白かった。彼女は羊皮紙の縁に指を置いたまま、最後まで手を離さなかった。紙は乾いた寒さでいちばん長持ちする、と言った人だ。
その人が、11年かけて読めなかった行だ。
俺は、いま、その続きを持っている。自分の視界の右上に、2文字。
称号欄に、2文字ある。
『柱を数える者は——二柱』
いや。
繋がらない。
主語と述語が、噛み合わない。
「ノルンさん」
相馬が、俺の隣に立った。
「柱、4つでしたよね」
「はい」
「南が死にました。北も死にました」
「はい」
彼女は、北の空を見た。
裂け目は、まだ閉じていない。だが、開くのは止まっている。
「あと2つです」
——あと2つ。
そして、俺の称号にも、あと2文字ある。
数が、合っている。
合っていることが、いちばん、気持ち悪い。
「相馬さん」
「はい」
「あなたの称号、3文字です」
「はい」
「俺のは4文字です」
「……はい」
俺は、そこで、言うのをやめた。
言おうとしたことは、こうだ。
あなたには、柱が3つしか要らない。
俺には、4つ要る。
言えば、彼女は「じゃあ、わたしのほうが先に帰れますね」と笑うだろう。
半拍遅い笑い方で。
そして、俺は、それが良いことなのかどうか、まだ分からない。
——柱を数える者は。
500年前の誰かは、そこでペンを止めた。
俺は、いま、その場所に立っている。
止めた理由が、ある。
その理由を、俺は、まだ1文字も知らない。
◇
日が落ちる前に、俺は、もう1つだけ確かめた。
石環の、3本目。
根元の、工具の痕。
ヨトゥンが崩れたあとで、もう一度、そこへ行った。
削り跡の内側に、指を入れた。
苔をかき出した。
下に、彫ってあった。
苔で埋まっていて、外からは見えなかった。
指の腹で、なぞる。
3つ。
線が、3本。
俺は、松明を近づけた。
——古語じゃない。
この世界の文字でも、ない。
日本語だった。
『まだ2つ』
俺は、その4文字を、指でなぞった。
彫りが、浅い。
刃物は、たぶんナイフだ。剣でも鑿でもない。何度も往復して、少しずつ削っている。指でなぞると、線の底が波打っているのが分かる。
急いでいない。
だが、丁寧でもない。
——書き慣れていない人間が、書き慣れていない道具で書いた字だ。
俺は、松明を、もう少し近づけた。
4文字のうち、『2』だけが、ほんの少し大きい。
数字を書くときだけ力が入る癖は、俺にもある。
高2の春、掲示板に貼った表の数字も、そこだけ濃かった。
——同じ癖だ。
俺は、その一致を、しばらく見ていた。
見ているうちに、気持ちが悪くなった。
彫ってある。炭ではない。刃物で、石に彫ってある。
彫り跡の底まで、苔が入り込んでいた。
縁が、丸くなっていた。
——風化してる。
俺の字じゃない。
相馬の字でもない。
そして、どう見ても——
数百年、そこにある。
俺は、相馬を呼んだ。
彼女は、松明の下でしゃがんで、その4文字を見た。
そして、動かなくなった。
長かった。
たぶん、1分以上、動かなかった。
指は、彫り跡から離れなかった。松明の火が、彼女の横顔で2回、風に振られた。
息が白く出て、消えて、また出た。数えたわけではないが、20回は出たと思う。
その間、彼女は一度もまばたきをしなかった。
それから、こう言った。
「わたしのじゃないです」
「はい」
「ノルンさんのでも、ないですよね」
「ないです」
「ぽち丸さんは、ここに来てません」
「来てません」
彼女は、指で、彫り跡の底をなぞった。
「……苔が、中まで入ってます」
「入ってます」
「これ、何年ですか」
俺は、答えた。
「竜の巣の掘り跡と、同じくらいです」
「……あれ、何年だと思ってるんですか」
「300年」
彼女は、そこで、初めて、俺の袖を掴んだ。
強く掴んだ。
「ノルンさん」
「はい」
「この人、数えてます」
「はい」
「『まだ2つ』って、書いてます」
「はい」
「300年前に、南と北が、もう死んでたってことですか」
——違う。
南の柱は、千年寝ていた。
北の柱は、今日まで、この塚で伏せていた。
300年前には、4つとも生きている。
なのに、この人は『まだ2つ』と書いた。
——この人が数えていたのは、柱じゃない。
俺は、松明を、石環から離した。
火が離れると、4文字は、また苔と影に沈んだ。
見えなくなると、なかったことにできそうな気がした。
——人は、見えなかったものを、なかったことにする。
1年前、灰爪の首を落として、7歩下がって息を荒くした夕方に、俺はそう思った。そう思った本人が、いま、自分に対してそれをやろうとしている。
俺は、そこで、その先を考えるのをやめた。
考えると、いちばん嫌な形になるからだ。




