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79.踵

左胸を、見た。


霜核が、なかった。


ゲームでは、そこにある。


24人レイドの解説記事にも、そう書いてある。俺が書いた。


『第三形態、弱点は左胸の霜核。纏いを剥がしたあと、そこへ集中』。


ない。


俺は、青白い体を、上から下まで探した。


胸。腹。腰。


——下だ。


薄い青の光が、体の中を、ゆっくり下へ流れていた。


胸から、腹へ。腹から、腿へ。


——知ってる。


この動きを、俺は知っている。


第三形態に入ると、ヨトゥンの体内の光が、上から下へ流れる。


ゲームにも、それはあった。


だが、当たり判定は左胸のままだった。


光が足元へ行っても、足を殴っても、通らない。左胸を殴ると通る。


だから、あれは演出だと言われた。


実装の都合。見栄えのための動き。意味のない光。


俺も、そう書いた。


『※第三形態で体内の光が下降するが、判定は変わらない。気にしなくてよい』


——気にしなくてよい。


俺は、口伝を、頭に出した。


『一、氷の巨人は、左胸に心臓を置かぬ。』


6日かけて11個を仕分けたとき、俺はこれだけを保留にした。


理由は、ゲームの記述と食い違うからだ。


いま、食い違っていない。


ゲームには、光が下へ流れる動きが、ちゃんと実装されていた。


判定が変わらなかっただけだ。


この世界には、判定がない。


演出という言葉が、そもそも成立しない。


動いているものは、動いている。


——口伝が、正しい。


そして、それを確かめたのは、俺の3年半のほうだ。


口伝だけでは、「左胸ではない」までしか言えない。


どこかは、言えない。


ゲームの記憶だけでは、「左胸だ」で終わる。


2つ合わせて、初めて、下だと分かる。


俺は、光を追った。


腿から、脛へ。


脛から、下へ。


踵。


左足の、踵の内側。


そこに、拳ほどの青が、集まっていた。


拳ほど、と言っても、27メートルの体でいえば、俺の親指の先ほどの割合だ。


3年半、俺はあの体の左胸を殴り続けてきた。何十回も、何百回もだ。


一度も、足を見たことがない。


見る理由がなかった。判定が、そこになかったからだ。


「踵!」


俺は、岩の上から叫んだ。


「左足の、踵の内側! 拳ほどの青がある!」


だが、そこは、地面についている。


27メートルの体重が、上から乗っている。


剣も、槍も、入らない。


足を、上げさせるしかない。


俺は、旗を捨てた。


もう、旗では足りない。


名前で呼んだ。


「ガウス、右前! 受けろ!」


大剣が、右前方から入った。ヨトゥンの視線が、そっちへ動く。


「シグルド、左の腱!」


銛が、右足の腱に入った。右足に、重心が乗った。


「リゼ、目!」


矢が、目に入った。ヨトゥンが、顔を振った。


振ったぶん、上体が7度、前に傾いた。


——踏みつけが来る。


「リノ! 膝の裏! いま!」


12歳の背丈から、線が走った。


右膝の裏。


重心の乗っていた、右足。


ヨトゥンが、右膝をついた。


そして——


左足の踵が、地面から浮いた。


拳ほどの青が、剥き出しになった。


俺は、最後の号令を出した。


「レイン」


一言だけだった。


白銀が、走った。


甲冑は凹んでいる。肋は2本いっている。右腕は下がっている。


11年、毎朝2000回振ってきた男が。


19日前に、初めて近道を通ってみると言った男が。


浮いた踵に、剣を入れた。


入れた、という言い方が正しい。


振っていない。突いてもいない。


走ってきた速度のまま、剣先を、浮いた踵の内側の青に、置いた。


置いてから、そこへ、体重を乗せた。


11年、毎朝2000回。その全部が、最後の1歩ぶんの重さになっていた。


音は、割れる音ではなかった。


溶ける音だった。


27メートルの体が、上から崩れた。


崩れ方が、順番どおりだった。


まず、頭が落ちた。次に肩。腕は肘のところで折れて、二度に分けて落ちた。


胸から下は、その場で沈んだ。膝が抜けて、腰が抜けて、最後に、剣を入れられた左足だけが、いちばんあとまで立っていた。


氷が、砕けながら落ちた。


落ちた氷が、地面に触れる前に、白い水になった。


音がしなかった。


千年、この氷原で音を立てずに伏せていたものは、崩れるときも、音を立てなかった。


28人の反応は、全部ばらばらだった。


火の術者の1人が、その場に座り込んだ。座り込んでからも、詠唱の途中だったらしく、口だけが動き続けていた。


盾役の男が、盾を落とした。落としたことに気づかず、もう一度構えようとして、何も持っていない腕を上げた。


土の術者が5人、誰も倒れていないのに、全員で同時に回復役を呼んだ。


ヤナは、石環の縁に座ったまま、両手で口を押さえていた。


伝令の3人は、走る先がなくなって、走るのをやめられずに、その場で足踏みをしていた。


ミアは、ここにいない。


いたら、たぶん「もう1回やって」と言った。


2時間41分。


ゲームの平均は、2時間14分だ。


27分、遅い。


その27分の内訳を、俺は言える。


19分——ヤナと回復役2人を運び出した時間。


5分——火の術者が、石環の内側へ5歩戻る判断をした時間。


3分——リノが、足首の高さを見つけた時間。


27分。


24人でやれば、27分速い。


28人でやったから、27分遅い。


そして、誰も死ななかった。


俺は、岩の上に座り込んだ。


ステータスウィンドウが、勝手に流れた。



 Lv.534


 Lv.541


 Lv.548



止まったのは、ここだった。



 Lv.550



氷原に、28人が立っていた。



誰も、声を上げなかった。



いちばん最初に音を出したのは、ガウスだった。



彼は、大剣を雪に突き立てて、こう言った。



「……飯は」



そこから、笑い声が、順番に伝染した。



シグルドだけが、笑わなかった。


彼は、崩れた氷の山のところへ歩いていって、そこに膝をついた。



そして、雪を1つかみ取って、額に当てた。



「叔父さん」——ではない。


彼の一族の、5代ぶんの誰かに向けた仕草だと、俺には分かった。



しばらくして、彼は立ち上がって、俺のところへ来た。



「ノルン」


「はい」


「1つ、聞く」



「なぜ、踵と分かった」



俺は、正直に答えた。



「あなたの口伝が『左胸ではない』と言ったからです」


「それだけでは、踵は出んだろう」


「出ません」



俺は、続けた。


「俺の頭には、光が下へ流れるという記憶がありました。ずっと、意味のない動きだと思ってました」


「……」


「あなたの口伝が、意味を与えました」



シグルドは、しばらく黙って、それから、こう言った。



「うちの5代は、無駄ではなかったか」



「無駄じゃないです」



「半分は嘘だったぞ」



「半分は本当でした」



彼は、鼻から息を吐いた。



そして、初めて、笑った。



歯を見せない、下手くそな笑い方だった。



レインは、剣を杖にして立っていた。


俺が近づくと、彼は剣を持ち上げようとして、失敗して、雪に落とした。



「拾う」


「いいです。座ってください」


「座ると、立てなくなる」



俺は、彼の隣に立った。



「レインさん」


「なんだ」


「踵、届きましたね」



彼は、崩れた氷の山を見た。



そして、こう言った。



「11年ぶんだ」


「はい」


「毎朝2000回だ。数えたことはない」



「はい」


「そのうち、19日ぶんが、お前のだ」



俺は、首を振ろうとした。



その前に、彼が続けた。



「19日で、11年が届く場所まで来た。それを俺は認める」


「……はい」



「だが、19日だけでは、届かん」



彼は、雪に落とした剣を、そのままにした。



「両方だ。どっちが欠けても、あの踵には入らなかった」



——それは、口伝と記憶の話でもある。



俺は、そう思った。



リゼが、離れたところで、矢を回収していた。



彼女は、目を射抜いた1本を抜いて、雪で拭いて、こっちを見た。



そして、片手を上げた。



俺も、上げた。



それだけだった。



それで足りた。

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