77.手順に書いてないこと
第二形態は、48分の予定だった。
31分までは、そのとおりだった。
霜核が露出して、再生が始まった。
削る速度が、再生をわずかに上回る。焦らずに削り続ければ、必ず落ちる。
紙に書いてあるとおりだった。
第二形態に入って32分、ヤナが倒れた。
理由は、単純だ。
魔力が尽きた。
彼女は水の術者で、開始からの1時間52分で《氷牙の檻》を7回撃っている。
俺の紙には「1人あたり5回まで」と書いてある。彼女は2回超えた。
超えた理由も、分かっている。
左の水の術者が、第一形態の41分に離脱したからだ。
その穴を、彼女が埋めた。
倒れたのは、石環の内側、東寄り。
回復役が2人、走った。
息はあった。
意識がないだけだ。運び出せば、助かる。
そこへ、ヨトゥンが、手を下ろした。
殴ったのではない。
掌を、開いたまま、地面に伏せた。
俺の紙に、その動きはない。
11種の行動を、俺は全部覚えている。
薙ぎ払い。踏みつけ。ブレス。柱投げ。回転。咆哮。第二形態の潜り込み。突進。氷弾。凍結波。そして第三形態の纏い。
掌を伏せる、という動きは、ない。
掌の下から、霜が這った。
ヤナと、回復役2人を、下から包んだ。
3秒で、腰まで。
5秒で、肩まで。
そして。
3人が、立ち上がった。
——生きてる。
俺は、岩の上から、それを見ていた。
顔が、見えた。
氷は薄い。透けている。目が開いていた。
ヤナの目が、開いていた。
焦点が、合っていなかった。
ヤナの右手が、腰のあたりを探していた。
補助薬の革袋だ。彼女は、氷に包まれたまま、いつもの手順をやろうとしている。
手が、袋に届かなかった。
届かないまま、同じ動作を、3回繰り返した。
3回とも、同じ高さで止まった。
3人が、こっちを向いた。
そして、歩きはじめた。
28人が、止まった。
全員だ。
レインが止まった。ガウスが止まった。シグルドが止まった。
13人の術者が、詠唱をやめた。
リゼが、弓を下ろした。
戦線が、消えた。
音だけが、残った。
低い軋みが、規則正しく鳴っている。氷が再生する音だ。1秒ごとに、削ったぶんが戻っていく。
その音の中で、誰も動かなかった。
石環の内側に、28人いる。
そのうち、22人が武器を持っている。
22人とも、構えを解いていない。
解いていないのに、誰も前に出ない。
——これが、いちばん怖い形だ。
逃げるでも、突っ込むでもない。
全員が、正しい構えのまま、正しく止まっている。
ゲームなら、ここでチャットが流れる。「どうする」「指示ください」「一回離れる?」。
いまは、何も流れない。
28人が、俺の旗を見ている。
俺は、旗を持っていた。
上げられなかった。
——赤を上げたら、あの3人を撃つことになる。
——白を上げたら、退がる。退がったら、再生が追いつく。
——黄は、交代だ。交代する相手がいない。
俺の頭が、白くなった。
1年前と、同じだ。
竜が、地面に潜ったときだ。
3年半で一度も見たことのない挙動を見て、俺は、その場で何も出せなくなった。
あのときは、リゼが袖を引いた。
いま、リゼは、石環の東の岩の上にいる。
遠すぎる。
俺の頭に、5つの名前が走った。
マレン・ドス。
トビアス・レーン。
ケル・ヴァント。
イド・ヴァント。
ノーマ・ロウド。
手順書の最終頁に、俺が書いた名前だ。
あそこに、6人目を書くのか。
そして、そのあとに、もう1つ、浮かんだ。
診療所のベッドだ。
左脚を潰した14歳が、泣きながら、こう言っている。
『ノルンさんの言うとおりにしたのに、ぼくが下手だったから』
——関係ない。
いま、それは、関係ない。
だが、出てきた。
いちばん出てほしくないときに、出てきた。
そのとき。
前に出た者が、いた。
背が、低かった。
石環の内側、風の位置。
リノ・カラム、12歳。
彼女は、右手の火傷の跡を、一度、握って開いた。
そして、掠れた声で、こう言った。
「手順には」
「こういうときに、どうするかは、書いてありませんでした」
「だから、自分で決めます」
彼女は、詠唱に入った。
《断空》。
風の上級。線で走る。300年前に、山ひとつを退けたやつだ。
——待て。
俺は、そこで、叫ぼうとした。
《断空》は、通す魔法だ。
刃が、線で、向こうまで走る。
当てれば、3人ごと真っ二つになる。
だが、俺が叫ぶ前に、彼女は放った。
線が、走った。
3人の、足首の高さを。
——削いだ。
氷の脚が、3人ぶん、足首から下だけ、消えた。
3人が、その場に倒れた。
倒れて、動かなくなった。
氷は、包んだままだ。だが、支えを失った氷は、立てない。
「回復! 運べ!」
俺の口が、やっと動いた。
盾役が3人走って、氷ごと3人を引きずり出した。
戦闘のあとで、俺はリノに聞いた。
「なんで、足首だったんですか」
彼女は、掠れた声で、こう答えた。
「あそこだけ、氷が薄かったので」
「いつ見たんですか」
「包まれてるときです」
彼女は、右手を、腰の高さで水平にした。
「下から上に、3秒で腰まで、5秒で肩まで来ました。足首のところだけ、遅かったんです」
「遅い、って」
「厚くなるのが、です。細いところは、氷が回り込むのに時間がかかります」
——数えている。
この子は、あの3人が包まれていく5秒のあいだに、氷の厚みを、部位ごとに数えていた。
「見えたんですか」
「見えました。足首は、細いから、氷も薄いです」
俺は、その説明を、頭の中で1回、検算した。
合っている。
細いところは、外から凍る速度が速い。速いぶん、早く固まる。だが、包む厚みそのものは薄い。
俺は、それを知らなかったのではない。
見ていなかった。
——書いてない。
俺の9枚のどこにも、書いていない。
「リノさん」
「はい」
「怖くなかったですか」
彼女は、少し考えて、こう言った。
「怖かったです」
「じゃあ、なんで」
「わたし、あそこで止まったら、たぶん、一生あそこで止まるので」
彼女は、右手を握った。
「わたし、1回、止まってるんです」
「……いつ」
「地割れの、70回目です」
「あと11回でした」
70回目で、彼女は上がってきた。
上がったのは、正しい。あのまま下にいれば、死んでいた。
正しくて、1年2か月、彼女はそれを覚えている。
俺は、そこで、何も言えなかった。
——相馬は、この一部始終を、石環の西で見ていた。
彼女は、何も言わなかった。
だが、戦闘の再開の直前、俺の横を通るときに、1つだけ、こう言った。
「あの子、書いてないところで、止まらなかったですね」
——止まらなかった。
俺は、それを、走りながら考えていた。
相馬は、書いてないところで転ぶ。同じ形で、3年に4回。
俺は、書いてないところで、止まる。竜のときも、今日も。
リノは、止まらなかった。
違いが、どこにあるのか。
考えて、1つだけ、思い当たった。
あの子は、紙を疑ったんじゃない。
『手順には、書いてありませんでした』
——書いてないことを、書いてないと、正確に言った。
俺は、いつも、こう考える。
「紙にはこう書いてある。だが目の前は違う。どっちだ」
その1秒が、止まる時間だ。
あの子は、その1秒を使わなかった。
紙に書いてある/書いてないの線を、先に引いてから現場に立っていたからだ。
——書いてないところが、どこかを、書いておけばいい。
その考えが、頭の隅に落ちた。
拾うのは、まだあとになる。
いまは、第三形態が来る。
◇
ヤナは、氷ごと運び出されて、石環の縁で溶かされた。
意識が戻ったのは、その20分後だ。
彼女が最初に言ったのは、これだった。
「わたし、動いてましたか」
「動いてました」
「誰か、斬りましたか」
「斬ってません」
彼女は、そこで、両手で顔を覆った。
「……よかった」
そして、しばらくして、こう聞いた。
「誰が、止めてくれたんですか」
俺は、答えた。
「12歳です」
ヤナは、しばらく、それを飲み込めない顔をしていた。
それから、こう言った。
「あの子、風下に立ってもらった子ですよね」
「はい」
「トビアスさんが、後ろに立った」
「はい」
彼女は、天を見た。
「……回ってきましたね」
回ってきた、というのは、正確な言い方だった。
トビアスが風下に立ち、俺がそれを紙に書き、その紙を読んだ12歳が、氷の薄いところを見つけた。
誰も、次の人のためにやっていない。
それでも、届いた。




