75.巨人の墓所
ニヴル氷原に入って、3日目に、俺は間違えた。
順を追って書く。
30人。ヴェルンハイムから塚の外縁まで、9日の予定だった。
1日目と2日目は、街道と山道だ。問題ない。
3日目から、氷原に入る。
氷渡りのワーム。
氷の下を泳ぐ。全長6メートル。姿は見えない。
こいつは、振動に反応する。
正確に言うと、足を止めた者に来る。
歩き続けている人間の足音は、氷の上を流れていく。止まると、そこに音が溜まる。溜まった場所を、下から食う。
「隊列は、絶対に止まらないでください」
俺は、朝いちばんにそう言った。
「休むときは、歩きながら休んでください」
「そんなことができますか」
「できます。列の後ろに下がって、歩幅を半分にしてください。止まるよりましです」
これは、うまくいった。
3日目、氷原で4体出て、4体とも列の外で処理した。死者ゼロ。
問題は、夜に来た。
凍傷だ。
3日目の夜、気温が下がった。
どのくらい下がったかは分からない。この世界に温度計はない。
分かるのは、唾が地面に落ちる前に凍ったことだ。
凍傷は、ゲームに実装されていない。
寒冷地には「継続ダメージ」があった。耐寒装備で軽減できた。それだけだ。
指が落ちる、という仕様はなかった。
だから、俺の頭の中に、対処法が1行もない。
シグルドの口伝には、あった。
11個のうち、凍傷に関わるものが3つ。
『七、獣の脂を、厚く塗れ。』
——本当だ、と俺は判断した。
理屈が通る。脂は水を弾く。汗が凍るのを止める。北の猟師も同じことをしている。
『八、雪を口に入れて、水を作れ。』
——本当だ、と俺は判断した。
理屈が通る。氷原に水はない。雪はいくらでもある。溶かして飲めば水になる。
理屈が通っていた。
『九、火の前で靴を脱ぐな。』
——本当だ、と判断した。
3日目の夜、俺は3つとも採用した。
4日目の朝、2人が動けなくなっていた。
灰狼の盾役と、王都の回復役だ。
震えが止まらない。唇が紫。話しかけても、返事が遅い。
医者役が、真っ先に聞いた。
「昨夜、何を飲みましたか」
「……雪を」
「どのくらい」
「喉が渇いたので、たくさん」
医者は、俺のほうを見た。
「ノルンさん。これは、駄目です」
「……駄目」
「雪を口で溶かすと、体が、その熱を出します」
彼は、自分の腹を叩いた。
「中から冷えるんです。この寒さでやったら、命に関わります」
「じゃあ、水は」
「火で溶かして、温めてから飲むんです。北の人間は、みんなそうします」
俺は、そこで、シグルドを見た。
彼は、俺を見返して、こう言った。
「言ったろう。半分は嘘だ」
俺は、11個の口伝を書き取った紙を、その場で出した。
『八』の横に、俺は6日前、こう書いていた。
『——本当。理屈が通る。』
理屈が通る、と書いた自分の字を、俺はしばらく見ていた。
『二、巨人の吐息を吸えば、七日眠る』を嘘だと判定したのも、同じ理屈だった。
ブレスに睡眠効果はない。だから嘘。
同じ物差しで、片方は当たって、片方は外れた。
物差しが悪いのではない。
物差しの目盛りが、届いていないところがあっただけだ。
「……はい」
「選ぶのはお前だ、とも言った」
「はい」
彼は、責めなかった。
責めないことが、いちばんきつかった。
——理屈が通っていた。
そこが、いちばん、まずかった。
『七、獣の脂を塗れ』は、俺の知識で検算できた。汗と水の話だからだ。
『八、雪を口に入れろ』も、俺の知識で検算した。水分補給の話だと思ったからだ。
熱の話だと、俺は思わなかった。
ゲームには、体温がない。
だから、俺の中に「体の中から冷える」という概念が、そもそも存在しない。
存在しない概念は、検算できない。
2人は、離脱した。
徹の表に、離脱の手順が書いてある。
理由は聞かない。担当は次の者が引き継ぐ。戻る枠を1つ空けておく。
そのとおりに、粛々と進んだ。
2人は、シグルドの姪——ミアが、ハウグの家まで送っていった。
彼女は、去り際に、俺にこう言った。
「叔父さん、あんたのこと、怒ってないよ」
「……はい」
「あれ、5代前から半分嘘なの、うちの一族もみんな知ってて、それでも捨てなかったの」
彼女は、荷車の綱を握った。
「半分嘘でも、半分本当だから」
28人になった。
そして、凍傷そのものは、別の紙が止めた。
◇
5日目、若い術者の指先が白くなった。
医者が「これは戻らないかもしれません」と言った。
俺は、荷のいちばん奥を探った。
布に包んだ、粗末な綴じ紙がある。
紙が黄色い。綴じ糸が2度、切れて結び直してある。
字が、丸い。15歳の女の子の字だ。
俺は、それを2年近く、荷の底に入れて運んでいる。
15歳が、数値も契の欄も見えないまま、手で試して、手で書いたものだ。
王都で軟膏を作ったとき以来、俺はこれを開いていない。
持ってはいた。開かなかった。
——なぜ開かなかったのかを、俺はいま、正確に言える。
この中に、俺の知らないことが書いてあるとは、思っていなかったからだ。
俺の頭には、925レベルぶんの攻略情報が入っている。15歳が3回ためして書いた紙に、その先があるとは、考えたこともなかった。
考えたこともなかった、ということに、いま気づいた。
めくった。
『しもやけ、ひび、あかぎれ
黒つち草の根、すりつぶして、豚の脂とまぜる。
あたためないこと。あたためるとききめが落ちた。3かいためして3かいそう。
ぬったあと、布でまく。ぬのは毎日かえる。
※ゆびが白いときはこれをぬる。黒いときはもうおそい』
——黒いときは、もう遅い。
俺は、その一行を見て、若い術者の指を見た。
白かった。
黒つち草は、氷原には生えない。
だが、徹の物資表に、載っていた。
「薬草類・北方産・黒つち草の根 2袋」。
「徹さん、なんでこれ積んだんですか」
俺は、あとで手紙で聞いた。
返事は、こうだった。
『ノルンさんの荷に、布に包んだ古い紙が入ってるの、知ってました。
毎晩、荷を確認するのが俺の仕事なんで。
中を読んだのは、すみません。
でも、あれに書いてある材料、1つも積んでなかったんで、全部積みました。』
——メルの紙が、俺の知らないところで、物資表になっていた。
若い術者の指は、6日目に、色が戻った。
◇
9日目の午後、塚の外縁に着いた。
巨人の墓所。
高さ200メートル近い、盛られた小山。
裾に、石の環がある。
その石環を、シグルドが指した。
「あれが、封じだ」
「封じ」
「5代前から、そう聞いとる」
俺は、石環に近づいた。
高さ3メートルの石が、12本。円に並んでいる。
表面に、彫刻があった。
柱の記号が、12本のうち4本にある。
そして、3本目の石の、根元。
俺は、そこで、しゃがんだ。
抉れていた。
石が、根元から30センチほどの高さで、削られている。
自然の風化じゃない。縁が、まっすぐだ。
工具の痕だ。
俺は、指でなぞった。
苔が、削り跡の内側まで入り込んでいた。
風化して、角が丸くなっている。
——新しくない。
100年、200年——いや。
苔の厚みと、風化の具合。
竜の巣の《焔心鉱》の掘り跡と、同じくらいだ。
あれは、300年前だと、俺は思っている。
「シグルドさん」
「なんだ」
「この封じ、誰かが外そうとしてます」
彼は、しゃがんで、削り跡を見た。
そして、長く黙った。
それから、こう言った。
「——昔、空を裂く者が、北へ来た」
俺は、その口伝を、初めて、正しい形で聞いた。
あれは、来ただけの話じゃない。
来て、ここで、これをやったんだ。
Lv.530




