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74.25歳の顔が好きだったわけじゃない

出発は、19日目の朝だった。


その前の夜。


俺は、城壁の上にいた。


北の空が、まだ裂けたままだった。


線が1本、地平から天頂まで走っていて、その縁だけが、白く光っている。


足音がした。


リゼだった。


彼女は、いつものように、何も聞かずに隣に座った。


そして、こう言った。


「1年、とっくに過ぎてます」


俺は、空を見たまま、頷いた。


「……過ぎてる」


「2か月です」


「2か月」


「数えてました」


——数えていた。


この人は、毎朝300本射って、そのうえで、日数も数えていた。


俺が数えていたのは、討伐数と、境界値と、戻りの日数だ。


俺は、そこで、少し笑った。


そして、話しはじめた。


全部、話した。


日本という国のこと。学校のこと。17歳だったこと。


『ルーンヴェルト・オンライン』という遊びのこと。3年半、毎週末そこに沈んでいたこと。


ノルンという名前は、俺が作ったキャラクターの名前で、この顔も、この背丈も、この銀灰の髪も、全部、俺が選んだものだということ。


「じゃあ、その」


リゼが言った。


「中身は」


「19です」


「……19」


「17で来ました。ここで2回、誕生日を数えました。たぶん19です」


彼女は、しばらく黙っていた。


俺は、そのまま続けた。


剣の腕は、ガウスに教わったものだということ。


知識は、他人に読ませるために書いた文章の集積だということ。


その文章で、5人死んだこと。


そして——


「向こうのことを、忘れかけてます」


「……忘れる?」


「使わない記憶から、薄くなるんです」


俺は、指を折った。


「友達の顔が、出てきません。思い出そうとすると、ガウスの顔になります」


「……」


「コンビニの——店の、扉が開いたときの匂いが、出ません」


「……」


「母の声が、もう出ません」


言いながら、俺は、自分が何を失っているのかを、正確には言えなかった。


声が出ないというのは、音が消えたという意味ではない。


「こういう声だった」という手触りは、まだある。あるのに、その手触りに合う音を、頭が作れない。


輪郭だけの器があって、中身が入らない。


彼女は、そこで初めて、こっちを向いた。


「それ、いつからですか」


「たぶん、1年くらい前から」


「1年」


「はい」


「なんで、言わなかったんですか」


俺は、答えられなかった。


言えば、心配される。


心配されると、話が「かわいそうな人」の話になる。


それが嫌だった。


だが、それは全部、俺の都合だ。


「……ごめん」


俺は、そう言った。


そして、最後に、いちばん言いにくいことを言った。


「たぶん、あと何年かしたら、俺は向こうのことを全部忘れます」


「はい」


「そうなったら、俺は、この顔と、この知識だけの人間になります」


「はい」


「それが、俺なのかどうか、分かりません」


話し終えて、俺は、初めて怖くなった。


2年1か月、誰にも言わなかった。


ドロテアにも、セシルにも、レインにも言わなかった。


言えば、寺に連れていかれる——ということはない。俺は25歳の顔をしているからだ。


変わり者で済む。


だが、この人には。


リゼは、長いこと、黙っていた。


そして、こう言った。


「知ってました」


「……は?」


「別の世界から来たのは、知りませんでした。それは今日初めて聞きました」


彼女は、指を1本立てた。


「でも、中身が子供なのは、知ってました」


「……いつから」


「毒沼の帰りです」


——最初の日だ。


彼女は、崖下で足を挫いて、リザードマンに囲まれていた。俺が上から飛び降りて、11秒で片づけた。


あの日か。


「なんで分かったの」


「言い訳の仕方です」


彼女は、膝を抱えた。


「わたしが『好きになったと思うんですけど』って言ったとき、あなた『それは大変だね』って言いました」


「……言ったね」


「あれ、大人はやらないです」


「大人は、断るか、受けるか、どっちかです。はぐらかすのは、子供です」


彼女は、そこで、少し笑った。


「あと、トトが同じことしてました」


「……トトが」


「14のとき。女の子に何か言われて、『それは大変だね』って言ってました」


俺は、両手で顔を覆った。


「……1年半、バレてたんですか」


「バレてました」


「なんで言わなかったんですか」


「言ったら、逃げるからです」


彼女は、そこで、立ち上がった。


城壁の縁に立って、北の裂け目を見た。


そして、こう言った。


「わたし、25歳の顔が好きだったわけじゃないので」


「……」


「格が高いのが好きだったわけでも、竜を殺したから好きだったわけでもないです」


彼女は、振り返った。


「3人が死んだ日、名簿のいちばん最後に、自分が削った1行を書きましたよね」


「……はい」


「黙っていれば、誰にも分からなかったです」


「……」


「わたしが好きなのは、そこです」


俺は、そこで、何も言えなかった。


「返事、いります?」


彼女が聞いた。


「……いる」


「じゃあ、言ってください」


「俺から言うんですか」


「2年、こっちから言ってます」


——正しい。


俺は、立ち上がった。


そして、19歳の声で、言った。


「好きです」


「はい」


「ずっと前から好きでした」


「知ってます」


「知ってたんですか」


「顔に出てました」



彼女は、笑った。



そして、笑ったまま、鼻をすすった。



それから、指で目の下を拭いて、こう言った。



「確認します」



「……はい」



「わたしたち、付き合ってる、っていう関係でいいんですよね」



俺は、頷いた。



「声に出してください」



「……付き合ってます」



「はい」



彼女は、膝を抱え直した。



「じゃあ、もう1つ」



「はい」



「なら、わたし、もっと、ノルンさんの特別でいたいです」



「……特別」



「敬語、やめていいですか」



「……いいですけど」



「あと、『さん』も取ります。ノルン、って呼びます」



「……」



「だめですか」



俺は、首を振った。



3年半、日本サーバーでいちばん名前を知られたキャラクターだった。



何万回も呼ばれた名前だ。



「さん」を付けずに呼ばれたのは、あの山で、シグルドに一度きりだった。



「……いいよ」



「じゃあ、そっちもです」



彼女は、俺を見た。



「敬語、たまに抜けてます。全部、抜いてください」



「……全部」



「わたしだけ抜くの、ずるいので」



——ずるい、という言い方をする人だ。



「……分かった」



彼女は、そこで、息を吸った。



そして、呼んだ。



「ノルン」



「……はい」



「はい、じゃない」



「……なに」



「それ」



彼女は、満足そうに頷いた。



しばらくして、彼女は、俺の袖を掴んで、こう言った。



「1つだけ、約束して」



「うん」



「忘れたら、わたしが覚えとく」



「え」


「お母さんの声も、友達の顔も、匂いも。全部、話して」



「……」



「わたしが覚える。ノルンが忘れても、わたしが覚えてれば、消えない」



俺は、そこで、崩れた。



19歳が、城壁の上で、みっともなく泣いた。



顔は25歳のままだった。



だから、下から見上げた見張りの兵が、たぶん、ものすごく困ったと思う。



落ち着いてから、俺たちは、城壁の上に並んで座った。



「じゃあ、1つ目」



リゼが、膝を抱えて言った。



「お母さんの声」



「……いま?」


「いま。あとって言ったら怒るから」



俺は、しばらく考えた。



考えて、出てこなかった。



「出ない」


「じゃあ、何を言ってた人?」



——それなら。



「……『ごはん、あっためる?』」


「他には」


「『電気つけなさい』」


「他には」


「『まだやってるの』」



リゼは、それを、指を折りながら聞いた。



「3つ、覚えた」


「……うん」


「声は分からないけど、言うことは分かった」



彼女は、そこで、こう言った。



「わたし、お母さんの顔、覚えてないんだ」



「……え」



「4つのときに死んだから。顔は1つも残ってない」



「……」


「でも、『ゆっくり噛みなさい』って言われたのは、覚えてる」



彼女は、北の裂け目を見た。



「顔がなくても、残る。だから、大丈夫」



——この人は。



俺が1年抱えていたものに、15年前から答えを持っていた。



   ◇


出発は、翌朝だった。



30人が、北門の前に並んだ。


並び順は、徹の表のとおりだった。名簿の上から順ではない。歩くのが遅い者を前に置いて、後ろが詰まらないようにしてある。


先頭は、盾役の1人と、12歳だった。


術者13、近接8、盾3、回復4、それと俺と相馬。


見送りに、街が出た。



ヴィオが、門の上から怒鳴った。



「帰ってこい! 帰ってこねえと、金貨2400枚が回収できねえ!」


30人が、笑った。



徹は、荷車の上で、最後の表を配っていた。



「これ、9日ぶんの飯と、着替えの日程です。凍傷の見分け方、裏に書いときました」


「徹さん」


「はい」


「来なくていいんですか」



彼は、少し笑った。



「行っても、荷になるんで」


「……」


「俺、ここで表を回します。帰ってきたときに、飯と風呂と寝床がないと困るでしょ」



そして、彼は、俺に紙を1枚渡した。



『帰還時受け入れ表


 一、30人ぶんの湯を沸かしておく。


 二、医者を4人、門で待たせる。


 三、欠員が出た場合、宿割りを組み直す。名簿は消さない。』



三番で、また、指が止まった。



「……名簿は消さない」


「はい」


「なんでですか」



彼は、当たり前のことのように言った。



「消すのは、いちばん最後でいいんで」



 Lv.525

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