73.一人目の告白
19日のうち、6日を、俺は狩りに使った。
薄情に聞こえるかもしれない。
だが、俺が1つ上がるたびに、塚での判断が1つ増える。
これは、準備の一部だった。
空が裂けてから、北の獣が南に降りてきていた。
蒼氷のグリフォン。
ニヴル最北にしか湧かない。この世界の誰も、存在を知らない獣だ。
翼幅が9メートル。羽が氷でできている。降下するとき、羽が擦れて音が鳴る。その音を聞いてから2秒で来る。
格でいうと520帯。
飽いは、13体。
13体目から、1体あたりの伸びが半分になる。だから、12で切り上げる。
6日で12体。1日2体だ。狩っている時間より、探している時間のほうが長い。
6日で、12体狩った。
ガウスとレインとシグルドを連れていった。3人には「見て覚えてくれ」としか言わなかった。
音が鳴ってから2秒で来る、というのは、塚でも使う。ヨトゥンの第二形態が同じ音を出すからだ。
7日目の朝、相馬が宿に来た。
来るなり、こう言った。
「クエストログ、見てください」
俺は、開いた。
クエストログ
進行中:帰??
指が、止まった。
——変わってる。
2年1か月、これは『???』だった。
一度も変わらなかった。称号の一文字目が読めるようになった日ですら、変わらなかった。
「わたしのも、同じです」
相馬が言った。
「一昨日からです」
「一昨日」
「空が裂けた日です。夕方に確かめました」
俺は、徹を呼んだ。
彼は、寝ぼけた顔で来て、ログを開いて、そして目が覚めた。
「帰」
彼は、その1文字を、口に出した。
「……帰る、の帰っすよね」
「たぶん」
「帰れるってことっすか」
「分からない」
俺は、机に紙を出して、3人ぶんを並べた。
『相馬——帰??(一昨日から)
俺————帰??(一昨日から)
徹————帰??(いま確認)』
3人とも、同じ日に、同じ1文字。
「何が起きた日ですか、一昨日は」
徹が聞いた。
「北の柱が、目を覚ました日です」
相馬が、すぐに言った。
「柱です」
「柱が動くと、これが進むんです。だから、4つ倒せば、全部読めます」
「全部読めたら、帰れます」
——早い。
俺は、そう思った。
彼女の言っていることは、筋が通っている。
だが、通りすぎている。
「相馬さん」
「はい」
「南の柱のときは、変わりましたか」
彼女の口が、止まった。
「……変わって、ないです」
「起きた日も、死んだ日も」
「変わってないです」
「じゃあ、今回だけです」
彼女は、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「でも、これしかないんです」
——ああ。
これは、議論じゃない。
3年ぶんの、しがみつきだ。
彼女は、ノルンの記事の1行を信じて、竜の巣に手をつけた。
村が3つ焼けた。
その1行が間違いだったと、俺の口から聞いた。
それでも、彼女には、帰る理由が要る。
理由がないと、11人の子供に字を教えている3年が、ただの罰になってしまうからだ。
俺は、否定しなかった。
「調べます」
そう言った。
「塚で、確かめます」
彼女は、頷いた。
そして、少しだけ、いつもの半拍遅い笑い方をした。
「今度は、あとって言わなかったですね」
◇
その日の午後、詰所に、見慣れない男が来た。
30代の商人だった。
痩せている。丁寧な物腰。東の訛りがある。
「クアン・タオと申します」
彼は、深く礼をした。
「以前、市の書庫で、あなたを一度、拝見しております」
——あのときの。
9か月前、『飽いと戻りについて』を交換した日に、隅に立っていた男だ。
「何のご用ですか」
彼は、荷から、綴りを1冊出した。
俺の手順書だった。
いや、違う。
そっくりだが、俺のものではない。
紙が違う。綴じ方が違う。字が、東の書法だ。
そして——
表紙に、俺の名前がない。
「東方の6つの都市で、これを売っております」
彼は、当たり前のことを言う顔で、そう言った。
「1冊、銀貨40枚。既に2400冊ほど」
俺は、その綴りを開いた。
——前提が、ない。
『やめどき』も、ない。
『この本の使い方』も、ない。
『この手順で死んだ者』も、ない。
手順だけが、抜き出されている。
「これは」
俺は、声が低くなった。
「前提を全部抜いてますよね」
「抜きました」
彼は、即答した。
「売れないのです。あちらの読者は、注意書きの多い本を買いません」
「……人が死にます」
「死ぬでしょうな」
彼は、少し目を伏せた。
悪びれてはいなかった。だが、面白がってもいなかった。
「わたくしも、承知しております」
「じゃあ、なぜ」
「あなたが、無料で配ったからです」
俺の手が、止まった。
「金を取っていれば、権利がありました。写しを禁じることもできました」
彼は、丁寧に続けた。
「ですが、あなたは無料で配った。であれば、これは誰のものでもありません」
「誰のものでもないものは、誰が何をしても、罪になりません」
俺は、返す言葉を探した。
探して、見つからなかった。
俺は、半年前、灰狼の詰所で、自分でそう言った。
『金では売りません』
『無料で、全員に教えてください』
ヴィオは、あのとき、こう言った。
『あんた、それで何を取るつもりだ』
俺は、何も取らなかった。
取らなかったから、守れない。
「1つ、伺ってもよろしいですか」
クアン・タオが、言った。
「なぜ、無料で配られたのですか」
俺は、答えた。
「金を取ると、買える人にしか渡らないからです」
彼は、頷いた。
「よい考えです」
そして、綴りを荷に戻しながら、こう付け足した。
「そして、無料だと、注意書きが抜かれます」
俺は、その日、彼を止められなかった。
止める権利が、1つもなかった。
◇
その夜、俺は、その東の綴りを、最後まで読んだ。
読んで、1つだけ、笑ってしまったところがある。
火の《紅蓮嵐》の項に、誤字があった。
「108回」が「180回」になっていた。
写しの写しの、そのまた写しなのだろう。
180回。
誰も、届かない。
108回で喉が焼ける手順を、180回やろうとする人間が、東方の6つの都市に、いま何人いる。
俺は、その頁に、赤で正しい数字を書き込んだ。
そして、翌朝、それをクアン・タオの宿へ届けさせた。
添えた手紙は、1行だけだ。
『108です。180ではありません。刷り直してください。金は要りません。』
書きながら、俺は、この1行が何なのかを考えていた。
抗議ではない。取引でもない。
俺が3年半やってきたことの、いちばん最初の形だ。
誰かが数字を間違えている。だから、正しい数字を書いて渡す。
それだけの行為に、3年半前は、名前がなかった。
書いてから、俺は、その1行を長いこと見ていた。
金は要りません、と書いた。
——また、それだ。
半年前、俺は同じことを言って、手順書を無料で配った。
無料で配ったから、前提が抜かれた。
いま、俺はまた無料で誤字を直している。直したものが、また誰かに抜かれるかもしれない。
それでも、書き直さなかった。
金を取る方法を、俺はまだ1つも思いついていない。
思いつくまでのあいだにも、東方では、誰かが180回目を数えている。
——これが、いまの俺にできる全部だった。
止められない。禁じられない。取り返せない。
誤字を直すことだけが、できる。
◇
3日後、返事が来た。
『刷り直しました。
1240冊は既に売れております。回収は不可能です。
残り1160冊を訂正し、あわせて東方6都市の商館へ、訂正の触れを出しました。
費用は当方で持ちます。
——クアン・タオ』
そして、そのあとに、こう続いていた。
『追伸。
なぜ、お教えくださったのですか。
わたくしは、あなたの敵であるはずです。』
俺は、返事を書いた。
これも、1行だった。
『あなたを敵にすると、東方の1240人が死ぬので。』
Lv.521




