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71.俺が前に出ない

前の夜、俺は手順書の最後の推敲をしていた。


13人に配る、霜の使徒の対処法だ。


明日の朝までに刷って、全員に持たせる。


『霜の使徒——突進の前兆


 突進の前に、左肩の霜が一度落ちる。


 落ちてから突進まで、0.9秒。


 落ちた瞬間に、前へ踏み込む。逃げるな。


 踏み込めば、突進は加速前の速度で空を切る。


 空を切ったあと、0.6秒の硬直がある。首と胴の継ぎ目を突け。』


俺は、そこまで読み返して、次の行に指を置いた。


次の行が、あった。


『※ただし、地脈の吹き出し口の近くでは、落ちるのが右肩になる。』


——これ。


俺は、その1行を、しばらく見ていた。


ゲームの仕様だ。


地脈濃度が一定を超える区画では、霜の使徒の突進モーションが別の型に差し替わる。左右が反転する。


ゲームの掲示板で、これに気づいていたプレイヤーは、たぶん10人もいない。


見た目がほとんど変わらないからだ。俺は3年半かけて、3回だけ確認している。


そして、俺は、こう考えた。


——地脈の吹き出し口は、ここから12キロ南だ。


裂け目(ギンヌン)は、竜骨山脈の裏と東の高原と北の氷原の手前にある。


街の周りにはない。


明日、13人が戦うのは、城壁の前だ。地脈の吹き出し口ではない。


——この行は、明日には関係ない。


そして、もう1つ考えた。


13人のうち、9人が今日初めてこの紙を読む。


明日の朝までに覚えなければならない。


覚えることが多いほど、抜ける。


「左肩」を覚えてもらうことが、明日の生死を決める。


そこに「ただし右肩のこともある」を足したら、どうなるか。


迷う。


0.9秒で判断する場面で、左か右かを迷った人間は、死ぬ。


俺は、ペンを取った。


そして、その1行に、線を引いた。


これは細かすぎる。


混乱させるだけだ。


俺は、刷り直しをミリアに渡した。


そして、寝た。


   ◇


翌朝、北の地平が青かった。


推定、1200体。


物見の男は、数え切れずに降りてきた。「白い帯が来る」と言った。


俺は城壁の上から見た。


地平線が、青白い帯になっていた。


帯が、動いていた。


配置は、前の晩に決めてある。


城壁は、東西に1800歩。門が3つ。


13人の術者を、城壁の上に置いた。


火4、土5、水3、風1。


土は城門の前に壁を作る。水は堀の水を凍らせて足場を殺す。火は——


火は、城壁より外に出した。


理由は、ミア・ハウグだ。


『火の人は、外から撃たなきゃだめだね』。


塚ではないので領域補正はかからない。だが、城壁の上から撃つと、味方の頭越しになる。外に出して、横から撃つほうが通る。


近接8人は、城門の外。


レインが中央、ガウスが東門、シグルドが西門。


盾3、回復4は、門の内側。


灰狼80人が城壁上。冒険者が200人。市民の避難はヴィオが仕切る。


そして、俺は。


中央の櫓に立った。


剣は、抜かなかった。


戦闘は、4時間20分続いた。


俺がやったことは、3つだ。


1つ、旗を振った。


徹の作った符牒で、赤が「押せ」、白が「退け」、黄が「交代」。3色を、櫓の上から振り続けた。


2つ、数を数えた。


門ごとの残数と、術者の魔力の残りと、交代までの時間。


紙に書いて、伝令に走らせた。


3つ、名前を呼んだ。


「リノ、東!」


「ヤナ、堀を凍らせろ!」


「レイン、退け!」


——それだけだ。


戦線は、回った。


『左肩の霜が落ちた瞬間に踏み込め』


その1行が、13人の手元にあった。近接8人の手元にもあった。灰狼80人は、朝礼で3回復唱していた。


だから、全員が、同じ瞬間に踏み込んだ。


1200体の突進が、全部、空を切った。


音が、揃っていた。


1200体が同時に空を切ると、風が1回だけ鳴る。ばらばらには鳴らない。


櫓の上まで、その1回が届いた。


隣にいた伝令の若いのが、耳を押さえた。


俺は、櫓の上から、それを見ていた。


——すごいな。


正直に言うと、それが最初の感想だった。


俺が3年半かけて、1体ずつ確かめて、書き留めた1行が。


いま、300人ぶんの動きになっている。


リノの《断空》が、東門の前を薙いだ。


12歳の背丈から出た線が、200歩先まで走って、17体をまとめて割った。


レインは、中央で、動かなかった。


受けて、立って、また受けた。


彼が1歩も動かないので、霜の使徒はそこを見続け、その間に城壁の上から火が降った。


ヴィオは、城壁の下で避難路を捌いていた。


3600人を、4本の路に振って、1人も踏み潰させなかった。


避難の押し合いで人が死ぬのを、この人は10年で3回見ている。


徹は、詰所で表を睨んでいた。


交代の時刻だけを、ひたすら管理していた。


術者が魔力を切らす前に降ろす。回復を回す。飯を出す。


日没の30分前に、終わった。


城壁の下に、白い水が溜まっていた。


1200体ぶんの水が、堀に流れ込んで、堀が溢れていた。


市街は、無傷だった。


俺は、櫓を降りた。


城門の前に、13人が集まっていた。


全員、煤だらけだった。


そのうちの1人——王都の水路の技師が、俺を見て、こう言った。


「ノルンさん」


「はい」


「あなた、今日、一発も撃ってませんよね」


13人が、一斉に俺を見た。


——あ。


気づいていなかった。


俺自身が、気づいていなかった。


4時間20分、旗を振って、数を数えて、名前を呼んでいた。


剣を抜く発想が、一度も出なかった。


「……撃ってないですね」


俺は、そう答えた。


13人が、何も言わなかった。



そのとき、後ろから足音がした。



レインだった。



甲冑が凹んで、右腕が下がっていた。



彼は、俺の隣に立って、城壁の下の白い水を見た。



そして、短く、こう言った。



「見た」



それだけだった。



——大勝利だった。



死者は、3人だけだった。



1200体を相手にして、3人。



この世界の誰に聞いても、それは奇跡だと答えるだろう。



   ◇


その夜、宿へ戻る途中で、俺は2つ、引っかかっていた。



1つ目。



ハルダが、城門の外で倒れた。


彼女は盾を持たない。だから前には出ないはずだった。なのに、東門の外に出て、そこで一撃をもらっている。


盾がなかったのに、生きている。



2つ目。



戦闘の途中、西門の外の一角だけ、動きが違って見えた。


うまく言えない。


踏み込みと突進の噛み合わせが、そこだけ半拍ずれていた気がする。



俺は、疲れていた。



4時間20分、旗を振っていた。



だから、その2つを、明日にした。



   ◇


宿に戻ると、徹が一階で表を書き換えていた。


「おつかれっす」


「……そっちも」


「死者3人でした」


彼は、名簿の3行に線を引いていた。



「ケル、イド、ノーマ。3人とも西門です」


俺は、その3つの名前を見た。



「西門」


「はい。固まってるんすよ」



彼は、線を引く手を止めずに言った。


「東門は負傷7、死者ゼロ。中央は負傷11、死者ゼロ。西門だけ、死者3」


「……」


「まあ、西門は水路があって足場が悪いんで、そのせいっすかね」



——足場。



俺は、そのとき、その言葉を、聞き流した。



聞き流したことを、翌朝、思い出すことになる。


   ◇



その夜、俺は、久しぶりによく眠った。



夢を見た。



ゲームの夢だった。


日本サーバーのレイド、24人。俺が号令をかけて、24人が同時に動く。誰も死なない。全員が、書いてあるとおりに動く。


あのゲームには、死がなかった。



倒れたら、その場で復活する。街に戻って、また来る。


だから、俺の号令には、重さがなかった。



3年半、俺は号令をかけ続けて、一度も、人を殺していない。



昨日、俺は4時間20分、旗を振った。



同じ号令だった。同じ形の、同じ言葉だった。



——同じ形をしているものが、こっちでは違う。



そのことに、俺は、まだ気づいていなかった。



眠っていたからだ。



 Lv.508

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