61.穴はまだ開いている
3人が同じ部屋に揃ったのは、その2日後だった。
宿の二階の、いちばん奥の部屋。窓は閉めた。戸も閉めた。
俺と、相馬と、徹。
徹は、相馬を見て、開口一番こう言った。
「うわ、スミレさんっすよね」
「……ぽち丸さん?」
「はい。うわー」
「うわーって」
「いや、すいません。画面で見てたのと、生身って、こんなにちがうんすね」
——それだ。
言われてみれば、白い髪も、背の低さも、画面で見ていたとおりだ。
だが俺は、峠で会ったとき、一度も気づかなかった。
顔は同じでも、描かれた絵と、目の前で息をしているものは、別物だった。
3人とも、ゲームで作ったキャラの顔のまま、こっちにいる。
俺はノルンで、相馬はスミレで、徹はぽち丸だ。
自分で選んだ顔を、何年も脱げないまま着ている。
だから、俺は相馬菫の顔を知らない。
19歳の、向こうでの顔だ。
相馬も、徹も、藤代湊の顔を知らない。
一緒に狩りをしたのは東の森で数晩で、それも画面越しだった。
この3人は、これから何年一緒にいても、向こうでの顔を、互いに一度も見ないまま終わる。
日本語で喋る部屋は、変な感じがした。
3人だけの音になる。戸の外を人が通っても、意味を持たない音として通り過ぎる。
3年半、俺はこれを画面の中でだけやっていた。
「まず、数字を並べます」
俺は、紙を広げた。
『俺が落ちた日を、0とする。
俺の到着=0。
徹さんの到着=+6か月。
相馬さんの到着=−15か月。』
「マイナス?」
徹が、紙を覗き込んだ。
「マイナスっす?」
「マイナスだ」
俺は、次の行を書いた。
『向こうで落ちた日。
俺=崩落の、その瞬間。
徹さん=崩落の、翌日。
相馬さん=落ちていない。』
徹が、顔を上げた。
「……え」
「落ちてないんですか」
相馬は、頷いた。
「わたし、あの日、投げられたんです」
彼女は、自分の肩を押さえる、あの仕草をした。
「床に転がって、下を見たら、穴があって、ノルンさんが落ちていくのが見えました。チャットに何か打とうとして、手が震えて打てませんでした」
「……」
「そのあと、こむぎさんとダイゴローさんと3人で、1時間くらい掲示板を見てました。運営に問い合わせて、返事がなくて、日付が変わって」
彼女は、そこで、少し首を傾げた。
「で、寝ました」
「……寝た」
「はい。眠かったので」
「それで」
「朝、起きたら、森にいました」
部屋が、静かになった。
「落ちてないんです」
彼女は言った。
「穴も見てません。落下もしてません。ベッドで寝て、リテリナの森で起きました」
「服は」
「パジャマでした」
俺は、その一言で、いちばん背中が冷たくなった。
落ちたのでも、吸われたのでもない。
寝ていただけの人間が、着替えもしないまま、別の世界の森に置かれている。
そこに、手続きが1つもない。
「靴は」
「裸足でした。歩いたら、2日目で足の裏が切れました」
「……」
「3日目に、村で服を貰いました」
徹が、頭を抱えた。
「待って。待ってください。俺、落ちましたよ。穴に、吸われました」
「はい」
「ノルンさんも落ちましたよね。分単位で落ちたって」
「落ちた」
「なのに、この人、寝てただけで来てるんすか」
俺は、紙に3本目の行を書いた。
そこから、仮説を3つ立てた。
仮説1。向こうとこっちで、時間の流れ方が違う。
向こうの1日が、こっちの何日かに当たる。だから、向こうで1日遅れて落ちた徹が、こっちで6か月遅れて着いた。
「じゃあ、向こうの1日=こっちの6か月っすね」
徹が言った。
「まあ、それなら分かります」
「じゃあ、相馬さんは」
「向こうで、俺より15か月ぶん前に落ちてないと合いません」
——マイナス15か月。
向こうの時間でいうと、崩落の2日半前だ。
彼女は、その日、ふつうに大学に行っている。
「合わない」
仮説2。落ち方で、着く時刻が決まる。
俺は数分落ちた。徹は「吸われた」と言った。落下の長さと、着く時刻に関係があるのかもしれない。
「じゃあ、俺のほうが吸われた時間が短いから、遅く着いた?」
「そういう並びなら、まだ」
「相馬さんは」
「落ちてないんだから、いちばん遅く着くはずだ」
「合わない」
仮説3。順番が、先に決まっている。
俺たちが落ちたから来たのではなく、来る順番が先にあって、それに合わせて落ちた。
これは、いちばん気持ちが悪い。
だが、いちばん、数字と喧嘩しない。
「それ、何で決まってるんすか」
徹が聞いた。
「分からない」
「順番があるなら、番号がありますよね」
——番号。
俺は、そこで、手を止めた。
ある。
だが、それは翌日の話になる。
その日は、俺が言い出さなかったからだ。
もう1つ、この日、確定したことがある。
「徹さん。穴のことを、もう一度」
「はい」
「覗いたとき、どうでした」
徹は、目を閉じて、思い出す顔をした。
「暗かったっす。底、見えませんでした」
「はい」
「で、風が出てました」
「風」
「下から。穴から、風が吹き上がってました」
俺は、その言葉を、紙に書いた。
『穴は、崩落の翌日にも開いていた。風が出ていた。』
「つまり」
相馬が言った。
「まだ、開いてるかもしれない、ってことですか」
「たぶん」
俺は、正直に言った。
「2年近く、誰も塞いだ話を聞いてません。カルナスの廃遺跡は、いまも初心者が通ります。崩落した第2階層の床は、たぶんそのままです」
3人とも、しばらく、その1行を見ていた。
帰り道が、初めて、地図の上の場所になった。
それまで、俺にとって「帰る」は、考える対象ですらなかった。
考えても仕方がないからだ。材料がない。材料のないことを考えるのは、俺のいちばん嫌いなことだ。
いまは、材料が1つある。
南に、穴がある。
「行きますか」
徹が、聞いた。
俺は、答えられなかった。
答えられない理由は、はっきりしていた。
北に、まずいものがいる。
氷の線が40キロ動いて、裂け目が3つ凍って、霜の使徒が20体で出る。
穴へ行くには、南へ2か月かかる。
その2か月で、北が来る。
「……もう少し、あとで」
俺は、そう言った。
相馬が、俺の顔を見た。
そして、こう言った。
「また、あとなんですね」
刺さった。
◇
その夜、3人で酒を飲んだ。
飲むつもりはなかった。徹が「こういうのは飲むもんっす」と言って、宿の一階から瓶を持ってきた。
話したのは、向こうの話だった。
徹が、コンビニの廃棄の話をした。相馬が、大学の1限に一度も出なかった話をした。俺が、数学の小テストの話をした。
途中で、相馬が言った。
「わたし、いま気づいたんですけど」
「はい」
「3人とも、去年の話をしてないですね」
——ああ。
俺が話したのは、高2の教室だ。1年半以上前になる。
徹が話したのは、8年やった夜勤の話だ。
相馬が話したのは、19年ぶんの中の、たった数か月だ。
3人とも、いちばん濃い部分を、繰り返し話している。
薄くなっていない場所だけを、選んで喋っている。
「試していいですか」
相馬が、コップを置いた。
「ぽち丸さん。お母さんの声、出ますか」
「え。出ますよ」
「出してみてください」
徹は、変な顔をして、それから、目を閉じた。
「……『徹ー、また夜勤ー?』」
「出ました」
「出ましたね」
「はい。1年2か月だと、まだ出るんですね」
彼女は、それだけ確認して、コップを取った。
確認、という言い方が、いちばん近い。
期限の切れかけた薬を、日付だけ見て棚に戻すときの手つきだった。
淡々としていた。
自分では、もう出ない人が。
「ノルンさんは」
「……試さないでください」
「試したほうがいいですよ」
彼女は、俺を見た。
「出なくなってから気づくと、遅いので」
◇
その夜、俺は帳面に2行目を書いた。
『母 台所 「ごはん、あっためる?」 声は——』
そこで、ペンが止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
◇
翌朝、俺は日雇いに1日出た。
体を動かさないと、頭が回らなくなっていた。
北の街道で霜の使徒が22体出て、灰狼が2小隊で当たった。俺は指示を出しながら、外にこぼれた4体を拾った。
外にこぼれる数は、14体で3体だった。22体で4体。
書き足す1行が、また1つ増えた。
Lv.478




