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61/88

61.穴はまだ開いている

3人が同じ部屋に揃ったのは、その2日後だった。


宿の二階の、いちばん奥の部屋。窓は閉めた。戸も閉めた。


俺と、相馬と、徹。


徹は、相馬を見て、開口一番こう言った。


「うわ、スミレさんっすよね」


「……ぽち丸さん?」


「はい。うわー」


「うわーって」


「いや、すいません。画面で見てたのと、生身って、こんなにちがうんすね」


——それだ。


言われてみれば、白い髪も、背の低さも、画面で見ていたとおりだ。


だが俺は、峠で会ったとき、一度も気づかなかった。


顔は同じでも、描かれた絵と、目の前で息をしているものは、別物だった。


3人とも、ゲームで作ったキャラの顔のまま、こっちにいる。


俺はノルンで、相馬はスミレで、徹はぽち丸だ。


自分で選んだ顔を、何年も脱げないまま着ている。


だから、俺は相馬菫の顔を知らない。


19歳の、向こうでの顔だ。


相馬も、徹も、藤代湊の顔を知らない。


一緒に狩りをしたのは東の森で数晩で、それも画面越しだった。


この3人は、これから何年一緒にいても、向こうでの顔を、互いに一度も見ないまま終わる。


日本語で喋る部屋は、変な感じがした。


3人だけの音になる。戸の外を人が通っても、意味を持たない音として通り過ぎる。


3年半、俺はこれを画面の中でだけやっていた。


「まず、数字を並べます」


俺は、紙を広げた。


『俺が落ちた日を、0とする。


 俺の到着=0。


 徹さんの到着=+6か月。


 相馬さんの到着=−15か月。』


「マイナス?」


徹が、紙を覗き込んだ。


「マイナスっす?」


「マイナスだ」


俺は、次の行を書いた。


『向こうで落ちた日。


 俺=崩落の、その瞬間。


 徹さん=崩落の、翌日。


 相馬さん=落ちていない。』


徹が、顔を上げた。


「……え」


「落ちてないんですか」


相馬は、頷いた。


「わたし、あの日、投げられたんです」


彼女は、自分の肩を押さえる、あの仕草をした。


「床に転がって、下を見たら、穴があって、ノルンさんが落ちていくのが見えました。チャットに何か打とうとして、手が震えて打てませんでした」


「……」


「そのあと、こむぎさんとダイゴローさんと3人で、1時間くらい掲示板を見てました。運営に問い合わせて、返事がなくて、日付が変わって」


彼女は、そこで、少し首を傾げた。


「で、寝ました」


「……寝た」


「はい。眠かったので」


「それで」


「朝、起きたら、森にいました」


部屋が、静かになった。


「落ちてないんです」


彼女は言った。


「穴も見てません。落下もしてません。ベッドで寝て、リテリナの森で起きました」


「服は」


「パジャマでした」


俺は、その一言で、いちばん背中が冷たくなった。


落ちたのでも、吸われたのでもない。


寝ていただけの人間が、着替えもしないまま、別の世界の森に置かれている。


そこに、手続きが1つもない。


「靴は」


「裸足でした。歩いたら、2日目で足の裏が切れました」


「……」


「3日目に、村で服を貰いました」


徹が、頭を抱えた。


「待って。待ってください。俺、落ちましたよ。穴に、吸われました」


「はい」


「ノルンさんも落ちましたよね。分単位で落ちたって」


「落ちた」


「なのに、この人、寝てただけで来てるんすか」


俺は、紙に3本目の行を書いた。


そこから、仮説を3つ立てた。


仮説1。向こうとこっちで、時間の流れ方が違う。


向こうの1日が、こっちの何日かに当たる。だから、向こうで1日遅れて落ちた徹が、こっちで6か月遅れて着いた。


「じゃあ、向こうの1日=こっちの6か月っすね」


徹が言った。


「まあ、それなら分かります」


「じゃあ、相馬さんは」


「向こうで、俺より15か月ぶん前に落ちてないと合いません」


——マイナス15か月。


向こうの時間でいうと、崩落の2日半前だ。


彼女は、その日、ふつうに大学に行っている。


「合わない」


仮説2。落ち方で、着く時刻が決まる。


俺は数分落ちた。徹は「吸われた」と言った。落下の長さと、着く時刻に関係があるのかもしれない。


「じゃあ、俺のほうが吸われた時間が短いから、遅く着いた?」


「そういう並びなら、まだ」


「相馬さんは」


「落ちてないんだから、いちばん遅く着くはずだ」


「合わない」


仮説3。順番が、先に決まっている。


俺たちが落ちたから来たのではなく、来る順番が先にあって、それに合わせて落ちた。


これは、いちばん気持ちが悪い。


だが、いちばん、数字と喧嘩しない。


「それ、何で決まってるんすか」


徹が聞いた。


「分からない」


「順番があるなら、番号がありますよね」


——番号。


俺は、そこで、手を止めた。


ある。


だが、それは翌日の話になる。


その日は、俺が言い出さなかったからだ。


もう1つ、この日、確定したことがある。


「徹さん。穴のことを、もう一度」


「はい」


「覗いたとき、どうでした」


徹は、目を閉じて、思い出す顔をした。


「暗かったっす。底、見えませんでした」


「はい」


「で、風が出てました」


「風」


「下から。穴から、風が吹き上がってました」


俺は、その言葉を、紙に書いた。


『穴は、崩落の翌日にも開いていた。風が出ていた。』


「つまり」


相馬が言った。


「まだ、開いてるかもしれない、ってことですか」



「たぶん」



俺は、正直に言った。



「2年近く、誰も塞いだ話を聞いてません。カルナスの廃遺跡は、いまも初心者が通ります。崩落した第2階層の床は、たぶんそのままです」



3人とも、しばらく、その1行を見ていた。



帰り道が、初めて、地図の上の場所になった。



それまで、俺にとって「帰る」は、考える対象ですらなかった。


考えても仕方がないからだ。材料がない。材料のないことを考えるのは、俺のいちばん嫌いなことだ。


いまは、材料が1つある。


南に、穴がある。



「行きますか」



徹が、聞いた。



俺は、答えられなかった。



答えられない理由は、はっきりしていた。



北に、まずいものがいる。


氷の線が40キロ動いて、裂け目が3つ凍って、霜の使徒が20体で出る。


穴へ行くには、南へ2か月かかる。


その2か月で、北が来る。



「……もう少し、あとで」



俺は、そう言った。



相馬が、俺の顔を見た。



そして、こう言った。



「また、あとなんですね」



刺さった。



   ◇


その夜、3人で酒を飲んだ。


飲むつもりはなかった。徹が「こういうのは飲むもんっす」と言って、宿の一階から瓶を持ってきた。



話したのは、向こうの話だった。


徹が、コンビニの廃棄の話をした。相馬が、大学の1限に一度も出なかった話をした。俺が、数学の小テストの話をした。


途中で、相馬が言った。



「わたし、いま気づいたんですけど」


「はい」


「3人とも、去年の話をしてないですね」



——ああ。



俺が話したのは、高2の教室だ。1年半以上前になる。


徹が話したのは、8年やった夜勤の話だ。


相馬が話したのは、19年ぶんの中の、たった数か月だ。


3人とも、いちばん濃い部分を、繰り返し話している。



薄くなっていない場所だけを、選んで喋っている。



「試していいですか」



相馬が、コップを置いた。


「ぽち丸さん。お母さんの声、出ますか」


「え。出ますよ」


「出してみてください」


徹は、変な顔をして、それから、目を閉じた。



「……『徹ー、また夜勤ー?』」



「出ました」


「出ましたね」


「はい。1年2か月だと、まだ出るんですね」



彼女は、それだけ確認して、コップを取った。


確認、という言い方が、いちばん近い。


期限の切れかけた薬を、日付だけ見て棚に戻すときの手つきだった。



淡々としていた。



自分では、もう出ない人が。



「ノルンさんは」


「……試さないでください」


「試したほうがいいですよ」



彼女は、俺を見た。



「出なくなってから気づくと、遅いので」


   ◇



その夜、俺は帳面に2行目を書いた。



『母 台所 「ごはん、あっためる?」 声は——』


そこで、ペンが止まった。



止まったまま、しばらく動かなかった。



   ◇


翌朝、俺は日雇いに1日出た。


体を動かさないと、頭が回らなくなっていた。


北の街道で霜の使徒が22体出て、灰狼が2小隊で当たった。俺は指示を出しながら、外にこぼれた4体を拾った。


外にこぼれる数は、14体で3体だった。22体で4体。


書き足す1行が、また1つ増えた。


 Lv.478

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