60.ガウスに勝つ
ヴェルンハイムに戻って、3日、俺は宿から出なかった。
やることはあった。北の氷の線が40キロ動いた件を、地図に落とさなければならない。ヴィオに報告する順番も考えないといけない。手順書の第二稿が王都から届いていて、それも読む必要があった。
だが、実際にやっていたのは、机の前で紙を睨むことだけだった。
4日目の朝、部屋の戸が、蹴り開けられた。
「出ろ」
ガウスが、木剣を2本持って立っていた。
「いや、あの」
「裏だ。出ろ」
「今日は地図を」
「その地図、3日前から同じ線しか引いてねえだろ」
見られていた。
宿の裏は、井戸と洗い場と、10歩四方の空き地だった。
雪をどけると、土が凍っていて、足の裏が鳴る。
ガウスは、木剣の1本を、俺に放った。
「条件を言うぞ」
「はい」
「魔法なし。スキルなし」
「はい」
「それと——力任せに振ったら、その時点でお前の負けだ」
俺は、木剣を握ったまま、彼を見た。
「判定は」
「俺がする」
「不公平では」
「振った本人が、いちばんよく分かるだろうが」
——ああ。
そのとおりだ。
俺の膂力は、いま、この世界の常識から完全に外れている。
木剣で本気で振れば、ガウスの木剣ごと肋が折れる。だから普段は、常に抑えている。抑えるのに、いちいち意識が要る。
その意識を、彼は「振った本人が分かる」と言った。
信用されている、ということだ。
構えた。
——1年半ぶりだ。
最後にこの人と立ち合ったのは、まだ格が100にも届いていないころだった。
あのとき、俺は一度も当てられなかった。
膂力だけはあった。だが、振れば空を切った。踏み込めば深すぎた。受ければ手首が返った。
ガウスは、そのたびに、俺の胴を軽く叩いて、こう言った。
「当てる位置が、10センチ遠い」
ガウスが、動いた。
大剣使いの構えだ。木剣でも変わらない。両手で持って、剣先を高く上げる。上段からの縦。
この人の剣は、単純だ。
単純なのに、当たる。
理由は、踏み込みの深さにある。
振り下ろしと踏み込みが同時に来る。だから相手は、剣の速さで距離を測ると、必ず外す。
1年半前の俺は、これで15回連続で叩かれた。
1本目は、普通に負けた。
俺は下がった。下がって、距離を測って、間合いの外から合わせにいった。
入られた。
木剣が、俺の左肩に乗った。乗せただけだ。本気なら鎖骨が折れている。
「今の、何回目だと思う」
「……16回目です」
「1年半で、たった1回しか増えてねえのか」
2本目も、同じだった。
3本目で、俺は考えるのをやめた。
考えるのをやめて、1年半前に彼が言ったことだけを思い出した。
——当てる位置が、10センチ遠い。
あのとき、俺はそれを「腕の長さの話」だと思って聞いていた。
違う。
足の話だった。
俺は、下がらなかった。
半歩、前に入った。
これが、答えだった。
彼の剣は、踏み込みと同時に来る。だから踏み込む先の場所を、先に潰す。
半歩前に入れば、彼の足が着地する場所に、俺の足がある。
ガウスの体が、一瞬、詰まった。
そして俺は、振らなかった。
振れば、力任せの判定を受ける。
だから、柄頭を、彼の右手首に当てた。
叩くのではない。置いた。
彼の振り下ろしの勢いのほうが、俺の柄頭を押し返す形になる。だから、力は俺のものではない。
木剣が、彼の手から離れた。
雪の上に、乾いた音がした。
乾いていた。
湿った雪なら、木剣が落ちても鳴らない。この10歩四方だけ、朝から3度、踏み固められている。
ガウスが毎朝、ここで振っているからだ。
この地面の硬さも、たぶん、この人が作ったものだ。
ガウスは、そのまま、後ろに2歩下がった。
そして、尻もちをついた。
自分の右手首を、左手で握って、それを見ていた。
「……おい」
「はい」
「今の、手首だぞ」
「はい」
「なんで手首なんだ」
俺は、木剣を下ろして、答えた。
「当てる位置です」
「胴でも肩でもよかったんですけど、そこだと『力任せ』の判定を貰いそうだったので。手首なら、置くだけで剣が落ちます」
「……」
「その話、あなたに教わりました」
「1年半前です。裏の空き地で、3時間」
ガウスは、空を見た。
しばらく、そのままだった。
雪が、少し降っていた。
それから、彼は、笑った。
腹から出る、いつもの笑い方だった。
うるさくて、宿の窓から人が顔を出すくらいの声で、笑った。
そして、笑いながら、泣いていた。
「……あー、くそ」
彼は、手の甲で顔をこすった。
「教えたやつに負ける日が来るとはな」
「28で教えて、30で負けるか。早えよ」
「……すみません」
「謝るな莫迦」
彼は、尻もちをついたまま、木剣を拾って、膝に置いた。
「俺はな、19のときに、才能のあるやつに追い抜かれた」
俺は、黙って聞いた。
「そんときは、悔しくて、そいつを疑った。ズルしてんだろって。それで友達を1人なくした」
「……はい」
「だから二度とやらねえと決めた」
彼は、木剣の先で、雪に線を引いた。
「お前が化け物だってのは、ステインで初めて会った日から知ってる。格を聞かなかったのは、それを疑わねえと決めてたからだ」
「はい」
「でも、今日のは違うぞ」
彼は、顔を上げた。
「今日のは、才能じゃねえ」
「今日のは、俺が教えたやつだ」
「1年半、お前がそれを捨てなかったってことだ」
「それが、いちばん嬉しい」
俺は、そのとき、少しだけ、鼻の奥が痛くなった。
ガウスは、立ち上がって、雪を払った。
そして、いつもの顔に戻って、こう言った。
「で、ノルン」
「はい」
「お前、あの赤毛に、いつ返事する気だ」
俺は、木剣を落とした。
「……なんの話ですか」
「1年待ってくれって言ったんだろ。あれ、いつだ」
「……去年の、秋です」
「じゃあ、あと何か月だ」
俺は、口を開けたまま、指を折った。
「……2か月」
「2か月で、何が変わるんだ」
「……」
「言っとくけどな」
ガウスは、木剣で自分の肩を叩いた。
「あいつ、1年待ってくれって言われた日から、1日も休んでねえぞ」
「……え」
「弦の張り替えが、月に1回だ。あいつの弓、俺の大剣より金がかかってる」
「……」
「毎朝、矢を300本射ってる。お前が湖に潜ってた12日も、氷の上で射ってた」
折りきる前に、洗い場の陰から声がした。
「聞いてます!」
リゼだった。
彼女は、洗濯物の桶を抱えたまま、こっちを見ていた。
いつからそこにいたのかは、聞かないことにした。
「ガウスさん、ありがとうございます」
「おう」
「わたし、そこ、自分から言えなかったので」
俺は、逃げた。
正確に言うと、逃げようとして、井戸の桶を蹴った。
派手な音がした。
背中で、ガウスがまた笑っていた。
◇
その夜、俺は井戸の縁に座って、桶の水に映る自分を見ていた。
銀灰の髪。蒼い目。25歳の顔。
中身は、18だ。もうすぐ19になる。たぶん。数え方が合っているのかも分からない。
——2か月。
2か月あれば、何ができる。
北の氷の線は、去年の秋から40キロ動いた。同じ速度なら、2か月でさらに7キロ来る。
裂け目は3つ凍った。霜の使徒は20体で出るようになった。
そして俺は、あれが何なのかを、この世界で唯一知っている。
——2か月、待たせるのか。
俺は、そこで、初めて、自分がずっとやってきたことの形に気づいた。
俺は、いつも「あと少し」で先延ばしにしている。
セシルの問いに、答えを1年。
リゼの返事を、1年。
自分がどこから来たかを、誰にも、1年半。
その全部に、理由がある。
ちゃんとした、正しい理由が、全部にある。
だが、リゼは、その1年半、毎朝300本射っていた。
俺は、桶の水を、手のひらでかき混ぜた。
顔が、消えた。




