6.これは現実だ
肩を、小突かれた。
「おい」
低い声。俺は寝返りを打った。石の角が肩甲骨に食い込んで、痛みで意識が浮上する。
「おい、起きろ。ここで寝るな」
もう一度、今度は槍の石突きで小突かれた。
俺は目を開けた。
朝だった。
空が白い。まだ日が昇りきっていない、薄青い光。石畳が朝露で濡れていて、その上に長い影が2本落ちている。1本は俺の。もう1本は、俺を見下ろしている男のものだ。
革の胸当てに、街の紋章。腰に短剣、手に槍。
衛兵だった。
「浮浪者は西の宿場へ行け。ここは広場だ」
40がらみの、無精髭の男だった。怒っているというより、面倒くさそうな顔をしている。俺の身なりを上から下まで眺めて、剣を差しているのを見て、少し目つきが変わった。
「……冒険者か? だったらギルドの寮に行け。金がないなら、それも言え」
俺は答えられなかった。
飛び起きて、あたりを見回した。
石の長椅子。噴水。まだ閉まっている露店。パン屋の煙突から立ちのぼる細い煙。
昨日と、同じだった。
俺の部屋の天井は、どこにもなかった。
「……あの」
声が出た。ノルンの声だった。低くて、かすれていた。
「今日は、何日ですか」
衛兵が眉を寄せた。
「炎月の18日だが。おい、頭でも打ったのか」
炎月。
そんな月は、日本のカレンダーにない。だがゲームには——このゲームの暦には、ある。
俺は自分の手を見た。
大きい。俺の手じゃない。指が長くて、骨ばっていて、手の甲に薄く血管が浮いている。左の肘に、擦り傷があった。かさぶたになりかけている。
昨日、洞窟で転んだときの傷だ。
夢の傷が、翌朝まで残っているか?
俺は自分の腹を押さえた。
——腹が、減っている。
猛烈に減っていた。胃がねじれるように痛んで、意識するとめまいがした。昨日は水を飲んだきり、何も食べていない。
パン屋の煙の匂いが、風に乗って流れてきた。
その匂いで、俺の口の中に唾が湧いた。
夢は、腹が減らない。
夢は、匂いで唾が出ない。
夢は、傷がかさぶたにならない。
俺は、ゆっくりと石の長椅子に座り直した。
「おい、大丈夫か」
衛兵が、少しだけ声の調子を変えた。
「……大丈夫です。すみません、すぐどきます」
「ならいい。次は宿を取れ」
男は槍を担いで、歩いていった。
俺はその背中が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見ていた。
見えなくなってから、両手で顔を覆った。
これは、現実だ。
認めるのに、たっぷり10分かかった。
その10分の間に、俺の頭の中では、いくつもの計算が同時に走っていた。
俺の体は、ノルンだ。俺の顔も、声も、手も、全部ノルンのものだ。
俺の家族は、日本にいる。地震があった。あの地震で、俺の部屋はめちゃくちゃになった。母親は無事だろうか。あの揺れで、家は無事だっただろうか。
考えても、確かめる方法がない。
ここには電話がない。ネットもない。ステータスウィンドウを何度開いても、そこには「ログアウト」の項目がない。「タイトルへ戻る」もない。「設定」もない。
俺は、ここから出る手段を、一つも持っていない。
そして——もう一つ、認めなければならないことがあった。
俺は震える手で、ステータスウィンドウを開いた。
Lv.1
HP 40/40
40。
3年半前に一度だけ見た数字だ。当時はこれで角兎に殴られて死にかけた。
このゲームの死亡ペナルティを、俺は暗記している。所持経験値の10パーセントを失い、最寄りの街の教会で復活する。装備の耐久が減る。それだけだ。何百回も死んだ。死ぬのはただの手続きだった。
だが、ここには教会の復活サービスがあるのか?
昨日歩いた街に、教会はあった。だが、あそこにNPCの神官が立って「おかえりなさい」と言ってくれる保証が、どこにある?
俺は昨日、街のあらゆる場所を歩いた。生活があった。人がいた。パン屋の娘は粉まみれで笑っていた。
——あれが「本物」なら。
本物の街で、本物の人間が生きているなら。
本物の死も、あるに決まっている。
HP40。
この体で、角兎に飛びかかられたら。
森狼に喉を噛まれたら。
遺跡守りの薙ぎ払いを、まともに受けたら。
俺は、死ぬ。
復活しない。もう一度立ち上がらない。母親にも佐久間にも二度と会えないまま、この石畳の上で終わる。
その理解が、体の芯まで降りてきた瞬間。
手が、震え出した。
止まらなかった。膝も震えていた。呼吸が浅くなって、指先が痺れて、視界の端が白くなった。俺は石の長椅子の縁を両手で掴んで、頭を垂れて、必死に息を吸った。
怖い。
生まれて初めて、本気で怖かった。
——どれくらい、そうしていただろう。
震えは、少しずつ収まった。
浅かった呼吸が、深くなった。指先の痺れが引いた。
俺は顔を上げた。
朝日が、鐘楼の向こうから昇りはじめていた。街が動き出している。露店の親父が布を広げている。パン屋の扉が開いて、粉まみれの娘が箒を持って出てきた。荷車が石畳を鳴らして通り過ぎた。
その全部が、本物だった。
試しに、俺は近くを通りかかった老婆に声をかけてみた。
「すみません。少し伺いたいんですが」
「なんだね」
「あの……ステータス、というものをご存じですか」
老婆は俺をまじまじと見た。
「すてえたす?」
「その、自分の力の大きさが、数字で見えるような」
「あんた、酒が残っとるね」
そう言って、老婆は荷袋を担ぎ直して行ってしまった。
俺は、その背中を見送った。
——見えていないんだ。
この世界の人間には、あの板が見えていない。
俺は目の前の空中に、ウィンドウを開いたままにしていた。老婆はそれを一度も見なかった。俺の顔と、俺の剣は見た。だが、俺の顔の横に浮いている金縁の板には、視線が一度も止まらなかった。
見えないのだ。
俺にしか。
その事実を、俺は口の中で3回転がした。
3回転がして、味が変わった。
これは、とんでもない話じゃないか?
俺は、もう一度ステータスウィンドウを見た。
Lv.1
そして——
その数字を見つめているうちに、俺の中で、何かが裏返った。
Lv.1だ。
Lv.1ということは、上に998ある。
俺はゆっくりと立ち上がった。膝は、もう震えていなかった。
考えてみろ。
俺は、この世界のマップを、全部知っている。
どの森に何が湧いて、何時間で再湧きして、どの敵が何の素材を落とすか、知っている。
どの村の誰が何を高く買い取るか、知っている。
どのダンジョンのどこに隠し部屋があって、どういう手順で開くか、知っている。
伝説だと言われている魔法が、実は「取得条件を誰も試していないだけ」だということを、知っている。
このゲームのレベルキャップは999で、俺はそこから74手前の925まで行った。その道のりを、俺は全部覚えている。どのモンスターを何体狩れば効率がいいのか、どこで狩場を移るべきなのか、何をすれば無駄なのか。
3年半ぶんの攻略情報が、まるごと、この頭に入っている。
そして——
俺は街を見回した。
朝の広場を、人が行き交っている。
この街の誰ひとり、それを知らない。
「……はは」
声が漏れた。
俺は口を押さえた。押さえきれなかった。
「はははっ」
笑っていた。朝の広場のど真ん中で、ひとりで笑っていた。
腹は減っている。金は1枚もない。装備はボロい。HPは40しかない。死んだら終わりだ。家族に会えるかも分からない。怖いのは、まだ怖い。
それでも。
俺は、この世界を、誰よりも知っている。
これは、3年半のうちで、いちばん面白い状況かもしれなかった。
「……よし」
俺は袖で顔をこすって、深く息を吸った。
まずは、腹ごしらえだ。
金がない。
だから、稼ぐ。
俺は歩き出した。向かう先は決まっている。宿の裏手の廃材置き場、北門の外の斜面、それから路地裏の錬金術師の店。この3か所を回る順番も、そこで何を拾って何を売るかも、もう決まっている。
3年半前、初日の俺は、それを知らなかった。角兎に4回殺されて、宿代が払えなくて、街の外で野宿した。
今日の俺は、知っている。
——手順は、頭の中に、全部ある。
俺は朝日に背を向けて、路地へ入った。
これが、俺の2周目の1日目だった。




