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5/27

5.Lv.1

どれくらい水の中に座っていたのか、自分でも分からない。


尻が冷たくなってきて、ようやく俺は立ち上がった。びしょ濡れの服から水が滴る。厚い革の胴当てと、下に着た麻のシャツ。腰の鞘に収まった長剣。ブーツ。手甲。


全部、ノルンの初期装備だ。


3年半前、キャラクターを作った直後に支給される、いちばん安っぽい一式。だが今のノルンは、王都の職人が打った剣と、竜鱗を張った鎧を着ているはずだった。


——装備が、初期に戻っている。


その考えが浮かんだ瞬間、俺は反射的に、口の中で唱えていた。


「ステータス」


視界の右上に、それは開いた。


音もなく、透明な板が浮かび上がる。細い金の縁取り。3年半、数万回見てきた見慣れたレイアウト。


俺は息を吐いた。半分は安堵で、半分は、まだ何も安心できていないという自覚だった。


そして、そこに並んだ数字を読んだ。


 名前:ノルン

 Lv.1

 HP 40/40 MP 15/15

 STR 5 VIT 5 AGI 5 DEX 5 INT 5 MND 5

 スキル:——

 称号:――――


「……は?」


俺は板を掴もうとした。掴めなかった。指がすり抜けた。


Lv.1。


STR5。VIT5。AGI5。


これは、キャラクターを作った直後の初期値だ。一度も戦っていない人間の数字だ。


「いや、待て。待て待て待て」


俺は指でウィンドウをなぞった。指はすり抜けるが、視線を合わせると項目が展開する。この操作感も、記憶通りだった。


スキル欄——空。《縮地》も《旋刃》も《断罪の一閃》もない。3年半かけて集めた87個のスキルが、一つ残らず消えている。


所持金——0。


装備——初期一式。


そして称号の欄には、《無銘》がなかった。代わりに、意味の読めない記号が並んでいた。


 称号:――――


横棒が4本。それだけ。視線を合わせても展開しない。


——《無銘》が、ない。


3年半、俺が一度も外さなかった称号だ。


他人から見た俺のレベル表示を「??」に変える、それだけの効果しかない、誰も使わない称号。俺はそれを、初心者に自分で育つ余地を残すために、ずっと付けていた。


外れている。


そして、外れていることが、たぶん、いちばんどうでもいい。


だって、この称号は「925を隠す」ための道具だった。


隠すべき925が、消えている。


隠すものがなくなった隠れ蓑ほど、間抜けなものはない。


——役に立たないな。


俺は、そう思った。


頭の中の3年半は、たぶん全部使える。地図も、湧きも、値段も、手順も。


その全部の中で、これだけが、真っ先に用済みになった。


さらに下、クエストログの欄に、俺は違和感を見つけた。


 進行中:???


受けた覚えのない依頼が、1件だけ、そこにある。


俺はしばらく、その表示を睨んでいた。睨んでも何も起きなかった。


「……分かった。分かったよ」


俺は両手を上げて、誰にともなく降参した。


夢だ。ものすごく手の込んだ夢だ。地震で頭を打った俺の脳が、いちばん好きなものを引っ張り出して見せているだけだ。それ以外に説明のしようがない。


そう決めてしまったら、急に気が楽になった。


夢なら、覚めるまでの間、好きにしていい。


俺は水から上がって、周りを見回した。


ここがどこなのかを知りたかった。夢の中の地理に意味があるとは思わないが、癖だ。知らない場所に放り出されたら、まず現在地を特定する。


白い幹。細長い葉。地面に散った紫の小花。斜面の傾き。日の差し込む角度。


——ん?


俺は足を止めた。


この白い木を、俺は知っている。


「シラカバもどき」と俺たちが呼んでいた木だ。正式名称は忘れた。テクスチャの継ぎ目が見えるとかで、実装当時に少し話題になったやつ。


そして紫の小花。あれは採取ポイントだ。近づくと「摘む」の選択肢が出る。中身は下級ポーションの材料になる薬草で、序盤の金策としてはあまり効率がよくない。


斜面の角度。木の密度。地面の起伏。


俺は視線を上げて、木立の切れ間から見える尾根の形を探した。


見つけた。


北の方角、木々の上に、二つのこぶを持った低い尾根がある。西のこぶがわずかに高く、東のこぶは平ら。その間の鞍部に、灰色の岩肌が縦に走っている。


——リテリナの森だ。


間違いない。


カルナスの廃遺跡の南に広がる、初心者が最初に踏み込む森。俺はこの森を、たぶん200回以上歩いている。


心臓が、変な打ち方をした。


「……マジか」


夢だ夢だと言い聞かせていたのに、体のほうが勝手に反応していた。


だって、リテリナの森なら。


ここが本当にリテリナの森なら。


俺は、この森のマップを、頭の中に持っている。


尾根の形からして、俺がいるのは森の北東寄り、沢筋のあたりだ。この沢を下流に向かって歩けば、やがて木立が切れて、街道に出る。街道を西へ折れて15分。


そこに、街がある。


俺は歩き出した。


歩きながら、笑いが漏れた。楽しくなってきていた。夢だとしても、これは相当いい夢だ。俺がいちばん好きな場所を、自分の足で歩けているのだから。


沢を下る。予想通り、途中で角兎が2匹こっちを見て、跳ねて逃げた。逃げられて少しほっとした。今の俺のステータスであれに突っ込まれたら、たぶん普通に怪我をする。


木立が切れた。


視界がひらけて、踏み固められた土の道が、左右に長く伸びていた。街道だ。


俺は西へ折れた。


歩いて、歩いて——曲がり角を回ったところで、それは見えた。


低い石壁。木の柵。番小屋。その向こうに、赤茶けた屋根が幾重にも重なっている。


門の上に、掲げられた木の看板。


読めた。日本語じゃない。見たことのない文字なのに、意味が頭に流れ込んでくる。


『ステイン』


俺は、その場に立ち尽くした。


初心者の街ステイン。このゲームを始めた人間が、必ず最初に立つ場所。


「……嘘だろ」


門番らしき兵士が、槍を持って立っていた。俺が近づくと、じろりとこちらを見て、それだけだった。剣を差した男が街に入るのは、この世界では珍しくもないらしい。


門をくぐった。


石畳の音が、ブーツの底から伝わってくる。


俺は歩いた。ただ歩いた。


噴水があった。あの噴水だ。3日前——いや、俺の体感では昨日、あの縁に腰かけてスミレたちを待っていた。


革鎧を売る露店があった。あの親父だ。ゲームの中では同じ台詞を10回繰り返すだけのNPCだった男が、隣の店の女と天気の話をしていた。


パン屋があった。ゲームの中では入れなかった建物だ。扉が開いていて、中で女の子が粉まみれになって笑っていた。


鐘楼があった。ゲームの中では、あそこに登る手段はなかった。今、階段が見えている。


俺は街を歩き回った。何時間も歩いた。金は1枚も持っていなかったから、何も買えなかった。それでも足は止まらなかった。


東の路地に入った。ゲームの中では、この路地は行き止まりの壁で塞がれていた。マップの端を隠すための、雑な処理だ。


壁は、なかった。


路地は先へ続いていて、その先には長屋が並んでいた。井戸があって、女が3人で洗濯をしていて、そのそばで子供が石を蹴って遊んでいた。子供は俺を見て、蹴った石を追いかけて、また戻っていった。


俺は、その路地の入口に立ったまま、しばらく動けなかった。


ゲームには、なかった場所だ。


なかった場所に、人が住んでいる。


冒険者ギルドの前も通った。両開きの木の扉から、革鎧の男たちが出入りしている。掲示板の前に人だかりができていて、何かの紙を奪い合うように読んでいた。


中に入ろうとして、やめた。


金がない。身分もない。俺がこの街の人間だと証明するものが、何ひとつない。


——そうか。


俺は、この世界では「誰でもない」んだな。


Lv925のノルンは、日本サーバーでいちばん名の知られたキャラクターだった。街を歩けば知らないやつから話しかけられた。掲示板に名前が出た。誰かが俺の装備構成をまとめた記事を書いた。


ここでは、誰も俺を知らない。


不思議と、それは嫌な気分ではなかった。


——全部ある。


全部あるし、全部ちゃんとしている。


石畳の間から草が生えている。露店の布に染みがある。パンの匂いがして、下水の匂いもして、洗濯物が路地の上に渡されている。


ゲームの中の街には、生活がなかった。


ここには、ある。


日が傾いて、空が赤くなって、やがて紫になった。街灯に火が入りはじめる。人が家に帰っていく。俺は帰る家がなかった。


広場の隅に、石を切り出して作った長椅子があった。ゲームの中では座れないオブジェクトだ。俺はそこに寝転がった。


石は冷たかった。背中が痛かった。


でも、疲れていた。全身が重くて、足の裏がじんじんして、目を閉じるとまぶたの裏が熱かった。


——いい夢だったな。


星が出ていた。知らない星座だった。


朝になったら、たぶん自分の部屋の天井が見えるんだろう。母親が「あんた昨日の地震のとき寝てたでしょ」とか言うんだろう。


それでもいい。


俺は今日、あの街を歩けたのだから。


そう思いながら、俺は目を閉じた。


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