5.Lv.1
どれくらい水の中に座っていたのか、自分でも分からない。
尻が冷たくなってきて、ようやく俺は立ち上がった。びしょ濡れの服から水が滴る。厚い革の胴当てと、下に着た麻のシャツ。腰の鞘に収まった長剣。ブーツ。手甲。
全部、ノルンの初期装備だ。
3年半前、キャラクターを作った直後に支給される、いちばん安っぽい一式。だが今のノルンは、王都の職人が打った剣と、竜鱗を張った鎧を着ているはずだった。
——装備が、初期に戻っている。
その考えが浮かんだ瞬間、俺は反射的に、口の中で唱えていた。
「ステータス」
視界の右上に、それは開いた。
音もなく、透明な板が浮かび上がる。細い金の縁取り。3年半、数万回見てきた見慣れたレイアウト。
俺は息を吐いた。半分は安堵で、半分は、まだ何も安心できていないという自覚だった。
そして、そこに並んだ数字を読んだ。
名前:ノルン
Lv.1
HP 40/40 MP 15/15
STR 5 VIT 5 AGI 5 DEX 5 INT 5 MND 5
スキル:——
称号:――――
「……は?」
俺は板を掴もうとした。掴めなかった。指がすり抜けた。
Lv.1。
STR5。VIT5。AGI5。
これは、キャラクターを作った直後の初期値だ。一度も戦っていない人間の数字だ。
「いや、待て。待て待て待て」
俺は指でウィンドウをなぞった。指はすり抜けるが、視線を合わせると項目が展開する。この操作感も、記憶通りだった。
スキル欄——空。《縮地》も《旋刃》も《断罪の一閃》もない。3年半かけて集めた87個のスキルが、一つ残らず消えている。
所持金——0。
装備——初期一式。
そして称号の欄には、《無銘》がなかった。代わりに、意味の読めない記号が並んでいた。
称号:――――
横棒が4本。それだけ。視線を合わせても展開しない。
——《無銘》が、ない。
3年半、俺が一度も外さなかった称号だ。
他人から見た俺のレベル表示を「??」に変える、それだけの効果しかない、誰も使わない称号。俺はそれを、初心者に自分で育つ余地を残すために、ずっと付けていた。
外れている。
そして、外れていることが、たぶん、いちばんどうでもいい。
だって、この称号は「925を隠す」ための道具だった。
隠すべき925が、消えている。
隠すものがなくなった隠れ蓑ほど、間抜けなものはない。
——役に立たないな。
俺は、そう思った。
頭の中の3年半は、たぶん全部使える。地図も、湧きも、値段も、手順も。
その全部の中で、これだけが、真っ先に用済みになった。
さらに下、クエストログの欄に、俺は違和感を見つけた。
進行中:???
受けた覚えのない依頼が、1件だけ、そこにある。
俺はしばらく、その表示を睨んでいた。睨んでも何も起きなかった。
「……分かった。分かったよ」
俺は両手を上げて、誰にともなく降参した。
夢だ。ものすごく手の込んだ夢だ。地震で頭を打った俺の脳が、いちばん好きなものを引っ張り出して見せているだけだ。それ以外に説明のしようがない。
そう決めてしまったら、急に気が楽になった。
夢なら、覚めるまでの間、好きにしていい。
俺は水から上がって、周りを見回した。
ここがどこなのかを知りたかった。夢の中の地理に意味があるとは思わないが、癖だ。知らない場所に放り出されたら、まず現在地を特定する。
白い幹。細長い葉。地面に散った紫の小花。斜面の傾き。日の差し込む角度。
——ん?
俺は足を止めた。
この白い木を、俺は知っている。
「シラカバもどき」と俺たちが呼んでいた木だ。正式名称は忘れた。テクスチャの継ぎ目が見えるとかで、実装当時に少し話題になったやつ。
そして紫の小花。あれは採取ポイントだ。近づくと「摘む」の選択肢が出る。中身は下級ポーションの材料になる薬草で、序盤の金策としてはあまり効率がよくない。
斜面の角度。木の密度。地面の起伏。
俺は視線を上げて、木立の切れ間から見える尾根の形を探した。
見つけた。
北の方角、木々の上に、二つのこぶを持った低い尾根がある。西のこぶがわずかに高く、東のこぶは平ら。その間の鞍部に、灰色の岩肌が縦に走っている。
——リテリナの森だ。
間違いない。
カルナスの廃遺跡の南に広がる、初心者が最初に踏み込む森。俺はこの森を、たぶん200回以上歩いている。
心臓が、変な打ち方をした。
「……マジか」
夢だ夢だと言い聞かせていたのに、体のほうが勝手に反応していた。
だって、リテリナの森なら。
ここが本当にリテリナの森なら。
俺は、この森のマップを、頭の中に持っている。
尾根の形からして、俺がいるのは森の北東寄り、沢筋のあたりだ。この沢を下流に向かって歩けば、やがて木立が切れて、街道に出る。街道を西へ折れて15分。
そこに、街がある。
俺は歩き出した。
歩きながら、笑いが漏れた。楽しくなってきていた。夢だとしても、これは相当いい夢だ。俺がいちばん好きな場所を、自分の足で歩けているのだから。
沢を下る。予想通り、途中で角兎が2匹こっちを見て、跳ねて逃げた。逃げられて少しほっとした。今の俺のステータスであれに突っ込まれたら、たぶん普通に怪我をする。
木立が切れた。
視界がひらけて、踏み固められた土の道が、左右に長く伸びていた。街道だ。
俺は西へ折れた。
歩いて、歩いて——曲がり角を回ったところで、それは見えた。
低い石壁。木の柵。番小屋。その向こうに、赤茶けた屋根が幾重にも重なっている。
門の上に、掲げられた木の看板。
読めた。日本語じゃない。見たことのない文字なのに、意味が頭に流れ込んでくる。
『ステイン』
俺は、その場に立ち尽くした。
初心者の街ステイン。このゲームを始めた人間が、必ず最初に立つ場所。
「……嘘だろ」
門番らしき兵士が、槍を持って立っていた。俺が近づくと、じろりとこちらを見て、それだけだった。剣を差した男が街に入るのは、この世界では珍しくもないらしい。
門をくぐった。
石畳の音が、ブーツの底から伝わってくる。
俺は歩いた。ただ歩いた。
噴水があった。あの噴水だ。3日前——いや、俺の体感では昨日、あの縁に腰かけてスミレたちを待っていた。
革鎧を売る露店があった。あの親父だ。ゲームの中では同じ台詞を10回繰り返すだけのNPCだった男が、隣の店の女と天気の話をしていた。
パン屋があった。ゲームの中では入れなかった建物だ。扉が開いていて、中で女の子が粉まみれになって笑っていた。
鐘楼があった。ゲームの中では、あそこに登る手段はなかった。今、階段が見えている。
俺は街を歩き回った。何時間も歩いた。金は1枚も持っていなかったから、何も買えなかった。それでも足は止まらなかった。
東の路地に入った。ゲームの中では、この路地は行き止まりの壁で塞がれていた。マップの端を隠すための、雑な処理だ。
壁は、なかった。
路地は先へ続いていて、その先には長屋が並んでいた。井戸があって、女が3人で洗濯をしていて、そのそばで子供が石を蹴って遊んでいた。子供は俺を見て、蹴った石を追いかけて、また戻っていった。
俺は、その路地の入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
ゲームには、なかった場所だ。
なかった場所に、人が住んでいる。
冒険者ギルドの前も通った。両開きの木の扉から、革鎧の男たちが出入りしている。掲示板の前に人だかりができていて、何かの紙を奪い合うように読んでいた。
中に入ろうとして、やめた。
金がない。身分もない。俺がこの街の人間だと証明するものが、何ひとつない。
——そうか。
俺は、この世界では「誰でもない」んだな。
Lv925のノルンは、日本サーバーでいちばん名の知られたキャラクターだった。街を歩けば知らないやつから話しかけられた。掲示板に名前が出た。誰かが俺の装備構成をまとめた記事を書いた。
ここでは、誰も俺を知らない。
不思議と、それは嫌な気分ではなかった。
——全部ある。
全部あるし、全部ちゃんとしている。
石畳の間から草が生えている。露店の布に染みがある。パンの匂いがして、下水の匂いもして、洗濯物が路地の上に渡されている。
ゲームの中の街には、生活がなかった。
ここには、ある。
日が傾いて、空が赤くなって、やがて紫になった。街灯に火が入りはじめる。人が家に帰っていく。俺は帰る家がなかった。
広場の隅に、石を切り出して作った長椅子があった。ゲームの中では座れないオブジェクトだ。俺はそこに寝転がった。
石は冷たかった。背中が痛かった。
でも、疲れていた。全身が重くて、足の裏がじんじんして、目を閉じるとまぶたの裏が熱かった。
——いい夢だったな。
星が出ていた。知らない星座だった。
朝になったら、たぶん自分の部屋の天井が見えるんだろう。母親が「あんた昨日の地震のとき寝てたでしょ」とか言うんだろう。
それでもいい。
俺は今日、あの街を歩けたのだから。
そう思いながら、俺は目を閉じた。




