4.小川に映った顔
目が覚めた、という感じではなかった。
音が先に戻ってきた。自分の呼吸の音だ。吸って、吐いて、その音がやけに近くで反響している。次に匂いが来た。濡れた石と、土と、埃。最後にようやく、視界が戻ってきた——と思ったのだが、開けても閉じても同じだった。
真っ暗だ。
何も見えない。
俺は仰向けに倒れていた。背中に硬いものが当たっている。腕を動かすと、指先が冷たい石に触れた。
「……停電?」
声を出してみて、その反響でぎょっとした。声が遠くまで飛んで、少し遅れて戻ってきた。俺の部屋は6畳だ。こんな返り方はしない。
地震。倒れたモニタ。割れる音。
——家が潰れたのか。
血の気が引いた。四つん這いになって、手探りで周囲を触る。触れるのは石だ。角の丸い、大きな石。もっと手を伸ばす。やはり石。冷たくて、湿っていて、表面がざらざらしている。
コンクリートの破片、ではない気がした。感触が違う。鉄筋も、ガラスも、木材も、壁紙も、俺の家を構成していたはずのものが、何ひとつ手に触れない。
それに、おかしい。
瓦礫の下敷きになっているなら、俺の体の上に何か乗っているはずだ。だが胸の上にも、脚の上にも、何もない。起き上がろうとして、頭も打たない。
俺は試しに、手を叩いてみた。
ぱん、という音が、前へ飛んでいった。しばらくして、正面から薄く返ってきた。左からも、右からも、少し遅れて返ってきた。上からは——返ってこない。
広い。相当広い。
閉じ込められているのではなく、放り出されている。
「……どこだよ、ここ」
立ち上がってみた。頭はぶつからなかった。手を上に伸ばしても、何もない。
自分の体を確かめる。頭に触れる。腕に触れる。痛みが2箇所あった。左の肘と、右の脇腹。どちらも擦り傷らしい。指に少し血がついた——のかどうかは、暗くて見えない。ただ、ぬるりとした感触があった。
服。
服を触って、俺は動きを止めた。
Tシャツじゃなかった。厚い。硬い。胸のあたりに、革のベルトのようなものが何本も走っている。指でなぞると、金属の留め具に当たった。
腰にも何かある。長い。まっすぐで、重い。
握ってみて、指がその形を理解した。
——柄だ。
剣の、柄。
俺は手を離した。離した手が震えていた。
考えたくなかった。考えると、自分の頭がおかしくなったという結論しか出てこない気がした。だから俺は、いちばん現実的な仮説に飛びついた。
夢だ。
地震で頭を打って、意識を失っている。今見ているのはその中身だ。それならば全部説明がつく。
「なら、歩こう」
夢の中なら、歩いたって減るものはない。
そのころには、目が少しずつ慣れてきていた。真っ暗だと思っていた空間に、ほんのわずかな濃淡があるのが分かる。左の方角が、ほんの少しだけ薄い。
俺は左手を壁に当てて、そちらへ歩き出した。
歩いた。
とにかく、歩いた。
壁は湿っていて、ところどころ滑った。足元は平らではなく、拳大の石が転がっていて、何度もつまずいた。3回転んだ。3回目で膝を打って、しばらく声も出なかった。
夢にしては、痛い。
夢にしては、寒い。
夢にしては——喉が渇きすぎている。
途中から、俺は数を数えるのをやめた。最初は歩数を数えていたのだ。1000を超えたあたりで、数える意味がないと気づいた。
体感で、1時間以上は歩いたと思う。もっとかもしれない。ふくらはぎが張って、足の裏が熱を持って、口の中が乾いて舌が上顎に貼りついた。
歩きながら、俺は必死に理屈を組み立てようとしていた。
夢だと決めたはずなのに、頭は勝手に検証を始めるのだ。3年半、この手の作業ばかりやってきたせいだと思う。分からないものが出てきたら、条件を切り分けて、仮説を立てて、潰していく。
仮説1。これは夢だ。
反証。夢の中で、こんなに長く、こんなに単調な作業を続けられるものか。夢というのは場面が飛ぶものだ。気づいたら別の場所にいて、そこに違和感を持たない。それが夢だ。俺はさっきから、一歩ずつ、律儀に歩いている。ふくらはぎが張っている。石でつまずいて膝を打った痛みが、まだ引いていない。
仮説2。これは病院か、どこかの施設で、俺が意識だけで見せられている何かだ。
反証。壁が湿っている。指先に苔がつく。匂いが多すぎる。夢や映像で、こんなに複雑な匂いは作れない。
仮説3。俺は死んだ。
これは反証のしようがなかった。
だから俺は、この仮説を保留の箱に放り込んだ。今考えても仕方がない。
歩け。
とにかく、歩け。
その、遠くに。
——白い。
俺は足を止めた。
壁の曲がりの向こう、ずっと先に、小さな白い点がある。
さっきまでの「薄い暗がり」とは違う。あれは、明確に、光だ。
俺は走った。転んだ。また走った。
近づくにつれて白い点は広がり、形になり、輪郭を持ちはじめた。丸い。いや、いびつな楕円だ。その縁から、細い緑色のものが何本も垂れ下がっている。
草だ。蔦だ。
穴だ。
外に、つながっている。
穴は俺の胸くらいの高さで、大人ひとりがようやく通れる幅しかなかった。俺は蔦を掻き分けて、頭から突っ込んだ。肩がつかえた。体を横にして、捻って、押し込んで——
抜けた。
同時に、足場がなかった。
穴の外は、斜面だった。それも、けっこうな急斜面だ。
「うわ——っ!」
俺は落ち葉の絨毯の上を、そのまま転げ落ちた。腕で頭をかばうのが精一杯で、あとは重力に任せるしかない。木の根に脇腹をぶつけ、細い枝を数本へし折り、最後に何か冷たいものへ突っ込んで、止まった。
水だ。
顔から水に突っ込んでいた。慌てて手をつくと、底はすぐそこにあった。深さは膝の高さほどしかない。俺は咳き込みながら、水の中に座り込んだ。
顔を上げる。
——明るい。
日の光だった。木々の高いところで葉が重なって、その隙間から光の筋が何本も差し込んでいる。空気が冷たくて、匂いが濃い。土と、苔と、青い葉の匂い。
森だった。
見渡す限り、森だった。
ここが日本のどこかだという可能性を、俺は必死に探した。近所に山はある。地震で崩れた斜面を転がり落ちて、洞窟に入り込んだ——ありえない話ではない、と思いたかった。
だが、木が違った。
俺の知っている雑木林の木じゃない。幹がやたらに白くて、まっすぐで、葉が細く長い。地面には見たことのない紫色の花が点々と咲いている。
そして、静かすぎた。
車の音も、電車の音も、飛行機の音もしない。あるのは水の音と、鳥らしきものの声だけだ。
俺は膝立ちのまま、しばらく動けなかった。
呼吸を整える。整わない。整わないなりに、俺は水を飲むことにした。喉が限界だった。両手で水をすくって、口へ運ぶ。冷たい。甘い。生水を飲むのはまずいと分かっていたが、そんなことを気にしていられる状態じゃなかった。
3回すくって、4回目のために、俺は水面を覗き込んだ。
俺がかき混ぜたせいで、水面は揺れていた。
その揺れが、少しずつ収まっていく。
同心円が外へ逃げて、小さくなって、消える。
水の表面が、鏡になった。
そこに、顔が映った。
俺は動けなかった。
銀灰の髪。短く刈った前髪の下に、蒼い目。鼻筋が高くて、顎はきりっと角張っている。20代半ばの、男の顔。
見覚えがありすぎた。
3年半、毎晩見ていた顔だ。作ったのは俺だ。目の色を決めるのに1時間かけた。髪型を3回作り直した。名前をつけたのも俺だ。
ノルンの顔だった。
俺は口を開けた。水面の中の男も、口を開けた。
俺は右手を上げた。水面の中の男は、左手を上げた。鏡だ。ちゃんと鏡になっている。
なら、これは、俺だ。
——いや、待て。
俺は自分の胸に手を当てた。心臓が、速い。息が上がっている。
もし俺がノルンの体に入っているなら、身長も変わっているはずだ。ノルンは190センチ近くある。俺は172だ。
俺は自分の膝を見た。膝から下が、やけに遠かった。
腕を見た。二の腕の太さが、俺のものじゃなかった。
俺は水面に手を伸ばした。指が水に触れて、像が崩れた。
引っ込める。
待つ。
また、静まる。
やっぱり、ノルンだった。
俺は自分の頬に触れた。水面の中の男も、頬に触れた。
「……は」
喉から出た音は、俺の声じゃなかった。低くて、太くて、少しかすれた、聞き覚えのある声。
ノルンの声だった。
俺は水の中に座り込んだまま、自分の顔を、いつまでも見ていた。




