3.こんなマップあったっけ
落ちている。
まだ、落ちている。
最初の10秒くらいは、何とも思っていなかった。ダンジョンの落とし穴なんて珍しくもない。落ちて、着地して、階段を探して、戻る。ただそれだけの手順だ。
20秒を過ぎたあたりで、俺は姿勢を整えた。
暗闇の中で体を反転させて、足を下に向ける。落下中の姿勢制御は、着地モーションが変わるだけで実利はほとんどない。だが3年半の癖というのは抜けない。落ちるときは足から。これは体が勝手にやる。
30秒。
……おかしい。
俺は視界の端でタイマーを確認した。落下開始からの経過時間を表示させる機能なんて、このゲームにはない。だから体感で数えるしかないのだが、体感でももう30秒は超えている。
カルナスの廃遺跡の縦深を、俺は正確に知っている。
第1階層の床から第3階層の床まで、階段の段数で換算して18メートル。これはこのゲームの落下速度に換算すると、およそ2秒だ。
2秒。
俺は今、その15倍の時間を落ち続けている。
『……こんなマップあったっけ』
誰も読まないチャット欄に、俺はそう打ち込んだ。
パーティチャットの表示が、いつの間にか灰色になっている。距離が離れすぎて、圏外扱いになったらしい。カルナスの中で圏外になる距離なんて存在しないはずなのに。
不思議と、恐怖はなかった。
理由は単純で、俺は自分の数字を知っていたからだ。
Lv.925。
このゲームの落下ダメージは、落下距離に比例して増える。ただし上限がある。実装当時、開発が「マップ外に落ちたキャラクターが無限にダメージを受ける」バグを潰した結果、落下ダメージの最大値は最大HPの40パーセントで打ち止めになった。
Lv925のノルンの最大HPは、装備補正込みで48万を少し超える。その40パーセントは、19万ちょっと。
つまり、この世界のどこから落ちようと、俺のHPバーは6割残る。
痛い数字ではある。だが、死ぬ数字じゃない。
だから俺は、落下しながら、のんきに考えごとをしていた。
——隠しエリアか?
その線はある。運営が告知なしで実装を混ぜてくることは、過去に3回あった。去年の秋、北の氷原の地下に「静寂の祭壇」という場所が黙って追加されて、条件を総当たりしたプレイヤーが3週間かけてレアスキルを掘り当てたことがある。あれは祭りだった。俺も参加した。
もしこれが同じ類のものなら、大当たりだ。カルナスの廃遺跡なんて、日本サーバーの全プレイヤーが通過する場所だぞ。そこの2階層の壁を「壊せる」なんて誰も気づいていない。
——いや、待て。
壁は俺が壊した。正確には、スミレを受け止めた勢いで背中から突っ込んで割った。
Lv925の質量と速度が、たまたま、あの壁の耐久値を超えた。
つまり、この穴は「隠しエリアの入口」じゃなくて、単に「壊れてはいけないものが壊れた」結果じゃないのか。
俺の背中を、ひやりとしたものが撫でた。
バグだ。
それも、ワールドの外側に落ちるタイプの、いちばん厄介なやつ。
こうなると話が変わってくる。マップ外に落ちたキャラクターは、当たり判定のある地面に永久に到達しない。落ち続ける。落ち続けて、そのままだ。
対処法は知っている。ログアウトして、入り直せばいい。落下中のキャラクターはセーフエリアに強制送還される仕様になっている。
俺はメニューを開こうとした。
——1分。
指がキーの上で止まった。
いや。せっかくだから、もう少し落ちてみるか。
我ながら、どうかしていると思う。だが3年半もこの世界にいると、こういう「見たことがない現象」に出くわしたときの興奮のほうが、面倒くささを上回るのだ。マップ外の景色を見たプレイヤーは、日本サーバーに何人いるだろう。スクリーンショットを撮っておけば、掲示板が沸く。
1分を過ぎた。
不思議なもので、こういう状況になると、頭は勝手に別のことを考えはじめる。
俺は、このゲームを始めた日のことを思い出していた。
中学2年の冬だ。友達が「無料だからやってみろ」と言ってきて、半信半疑でダウンロードした。キャラクターメイクの画面で、俺は1時間以上悩んだ。目の色を7回変えた。髪型を3回作り直した。名前はもっと悩んで、結局、思いつきで「ノルン」にした。北欧神話の運命の女神から取ったのだが、女神の名前を男キャラにつけたことを、あとで少し後悔した。
最初の3日で角兎に4回殺された。
半年でレベル100に届いた。1年で300を超えて、そのころには「日本サーバーに剣士でやたら伸びてるやつがいる」と掲示板に書かれるようになった。2年で600。エンドコンテンツのレイドに、初日から呼ばれるようになった。
3年で900。
そこから925まで、8か月かかった。
Lv900を超えると、レベルアップに必要な経験値が跳ね上がる。1レベル上げるのに、丸1日狩り続けても届かない日がある。それでも上げ続けたのは、単に、上げるのが好きだったからだ。
数字が伸びる。強くなる。昨日倒せなかったものが今日倒せる。
こんなに分かりやすい快感が、現実にはどこにもない。
——だから俺は、ここにいるんだよな。
暗闇を落ちながら、俺は少しだけ笑った。
俺は視界を見回した。
暗い。何もない。テクスチャの裏側なら、本来は空の色か、真っ黒か、そうでなければ壁の内側が透けて見えるはずだ。だがここには、そのどれでもない暗さがあった。
暗いのに、方向が分かる。
上と下がある。落ちている感覚がある。風の音がする。
——風の音?
このゲームに、落下中の風切り音なんて実装されていたか?
3年半、俺は数えきれないほど高い所から飛び降りてきた。塔からも、崖からも、飛竜の背からも。そのときに鳴る音は、決まって同じ短いループのSEだった。
こんな、耳の奥に低く溜まるような音じゃない。
俺は口を開けて、息を吸ってみた。
空気が、冷たかった。
——冷たい?
このゲームに温度はない。氷原にも溶岩地帯にも行ったが、寒いとも熱いとも思ったことは一度もない。当たり前だ。俺は椅子に座って、暖房の効いた部屋でモニタを見ているだけなのだから。
なのに今、俺の頬を、上へ向かって流れていく風が、はっきりと冷たかった。
『……なんだこれ』
打ち込んだ文字が、震えた。
いや、震えたのは文字じゃない。
指だ。俺の指が、キーボードの上でずれた。
そのとき——来た。
どん、と。
椅子ごと、体ごと、部屋ごと、下から突き上げられた。
「うわ——」
声が出た。ゲームの中じゃない。俺の喉から出た。
机が跳ねた。モニタが傾いた。本棚から何かが落ちて、床で割れる音がした。地震だ。それも、生まれてこのかた経験したことのない揺れだった。縦に突き上げて、そのあと横に殴りつけてくる。
俺は椅子から転げ落ちて、机の脚に掴まった。掴まった手が滑った。天井の照明が、振り子みたいに大きく揺れていた。
「かあさん!」
叫んだつもりだったが、声が出ているのかどうか自分でも分からなかった。揺れの音がすべてを塗り潰していた。家の骨組みが軋む音。窓ガラスが枠の中で暴れる音。どこか遠くで、金属が擦れるような、耳障りな高い音。
台所のほうで、皿がまとめて落ちる音がした。
俺は床を這った。ドアまで3メートル。その3メートルが、船の甲板みたいに上下していた。膝が浮いて、また落ちる。肘を打った。
——地震のときは、机の下。
小学校で何十回も習ったことが、頭の隅で光った。
だが俺の机の下には、パソコンのタワーと、コード類と、山積みの雑誌が詰まっている。潜り込む隙間なんてない。
代わりに俺がやったのは、頭を両腕で抱えることだけだった。
視界の端で、モニタがまだ光っていた。
そこには、暗闇の中を落ち続けているノルンの背中が映っていた。
あいつはまだ落ちている。
俺の部屋がめちゃくちゃになっているのに、あいつだけは、何も変わらない速度で、暗闇を落ち続けている。
その画面が、ぐるりと回った。
——モニタが、倒れてきた。
避けようとした。腕を上げた。
間に合わなかった。
耳の奥で、何かが割れる音がした。ガラスが割れる音に似ていたけれど、たぶん違う。もっと近くで、もっと深いところで鳴った音だった。
視界の右半分が白く飛んで、次に左半分が黒く塗り潰されて。
——あ、これ、まずいやつだ。
そう思ったのが、最後だった。
音が消えた。
揺れも消えた。
落下している感覚だけが、なぜか、まだ残っていた。




