2.カルナスの廃遺跡
俺の週末は、2日で1セットになっている。
土曜は友達と遊ぶ。カラオケでも、ゲーセンでも、駅前をだらだら歩くだけでもいい。佐久間たちと合流して、何も生産しない時間を6時間くらい潰して帰ってくる。これはこれで大事な時間だ。抜くとたぶん人間が荒れる。
そして日曜は、朝5時に起きる。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。カーテンの隙間がまだ青い。俺は音を立てずに階段を降りて、食パンを2枚焼いて、牛乳をコップに注いで、部屋に戻る。パソコンの電源を入れる。ロード画面が明けるころには、パンを食い終わっている。
そこから、夜中まで。
母親には「あんた日曜死んでるよね」と言われている。否定はしない。実際、日曜の俺は死んでいる。死んでいて、そのぶんノルンが生きている。
『おはようございます! 早い!』
ログインした瞬間、スミレのチャットが飛んできた。ステインの噴水前に、すでに4人が揃っている。
『そっちも早いな』
『だって今日、ダンジョン行くって言うから』
『昨日から装備整えてました!』
『ポーション20個買った』
『おれ30個』
俺は少し笑ってしまった。20個も30個も要らない。序盤のダンジョンで初心者が使う回復薬は、うまくやれば5個で足りる。だが、そういうのは自分で気づくまで言わない。多く買って余らせた経験がないと、次から適正量を考えないからだ。
『じゃ、行こうか。カルナスの廃遺跡』
『うわ、ちょっと緊張してきた』
『大丈夫。今日はほんの入口までしか行かない』
北門を出て、街道を1時間ほど歩く。歩くと言っても、この世界の1時間は現実の10分ちょっとだ。リテリナの森の外周をなぞるように進むと、木立の切れ間から、灰色の石が見えてくる。
崩れた城壁。倒れた柱。苔と蔦に飲まれかけた、大きな石の門。
カルナスの廃遺跡。
このゲームを始めた人間が、戦闘に慣れてきたころに必ず一度は潜る、最初の洞窟型ダンジョンだ。推奨レベルは10から15。適正の敵しか出ないし、罠も優しいし、初回クリアで貰える報酬もそこそこいい。
そして俺にとっては、庭みたいなものだった。
第1階層は入って右に折れる一本道。3歩目の床板に感圧式の矢罠。10歩目の壁の窪みに骸兵が2体。20歩目の分岐は、左が正解で右は行き止まり——ただし右の行き止まりには小さな宝箱があって、中身は銅貨が18枚。
『ノルンさん、こっちですかね?』
分岐でスミレが左を指した。
『どうしてそう思った?』
『えっと……風が来てる気がして』
『いい判断』
実際には風なんか来ていない。この遺跡は完全に密閉されている。だがスミレは「風」を根拠にして左を選んだ。理由が間違っていても、選んだのは自分だ。それでいい。
『ちなみに右も行っといたほうがいいと思う。行き止まりでも』
『えっ、なんでですか?』
『どうしてだろうね』
『ずるい!』
4人は右の行き止まりで宝箱を見つけて騒いだ。銅貨18枚。大した額じゃない。だがこいつらは、次から行き止まりを覗くようになる。
俺は、3歩目の床板だけは黙って踏んで潰した。あれは初心者が引くと1人死ぬ。教える前に死なせるのは、教育じゃなくてただの事故だ。
壁の窪みから骸兵が2体出てきたときも、俺は剣を抜かなかった。
『こむぎさん、盾は正面じゃなくて斜めに構えて』
『斜め、ですか?』
『骸兵の攻撃はまっすぐ振り下ろすだけ。正面で受けると腕にくる。斜めにして流したほうが楽だよ』
こむぎが盾を傾けた。骸兵の錆びた腕が振り下ろされ、盾の表面を滑って、地面を叩いた。骨の体が前のめりに泳ぐ。
『あ、崩れた!』
『そう。今の隙にぽち丸さん』
ぽち丸の短剣が、泳いだ骸兵の首の骨を横から叩いた。乾いた音がして、骸兵が崩れ落ちる。
『……なんか、できた気がする』
『できたんだよ、実際』
俺はそう打った。嘘じゃない。今のは全部こいつらがやった。
こういうとき、いちばん我慢が要るのは「教えすぎないこと」だ。俺は骸兵の弱点も、崩れる角度も、何秒で立ち直るかも全部知っている。全部言ってしまえば、こいつらは3分で最適解を実行できるようになる。
でも、そうやって渡された答えは、身につかない。
3年半で、それだけは確信している。掲示板に貼られた攻略テンプレを丸暗記してきたプレイヤーと、自分で試行錯誤したプレイヤーは、ちょっと想定外のことが起きた瞬間に、はっきり差が出る。前者は固まる。後者は動く。
だから俺は、答えを渡さない。判断できる材料だけを置いて、選ばせる。
——それが、俺の流儀だった。
第2階層に降りたのは、それから40分後だった。
天井が高くなり、空気が湿る。壁の松明の間隔が広くなって、明かりと明かりの間に長い闇ができる。骸兵が単体で徘徊しはじめて、4人の顔つきが変わった。
いいペースだ。誰も死んでいないし、ポーションもまだ半分残っている。
——このあたりで切り上げるか。
そう考えたときだった。
広間の奥、崩れた祭壇の陰から、大きな影が立ち上がった。
遺跡守り。第2階層の中ボスだ。錆びた大剣を引きずった、身の丈2メートル半の石の兵。推奨レベル25。今のこいつらには、明確に、早い。
しかも、こいつは本来この時間帯には湧かない。
正確に言うと、遺跡守りの再湧きは前回討伐から48時間だ。俺は昨日ここへ下見に来ていない。だから誰か別のパーティが2日以上前に倒して、そのまま——ということになる。
そこまで一瞬で考えて、俺は自分の詰めの甘さに舌打ちした。
初心者を連れて入る前に、中ボスの状況くらい確認しておくべきだった。知っているつもりでいたから、確認を省いた。
3年半のうちで、俺がいちばんやってはいけないミスの形が、これだ。
『やば』
『でかっ』
『下がって』
俺は前に出た。倒すためじゃない。時間を稼いで撤退させるためだ。
遺跡守りは、大きく2種類の攻撃をする。振り下ろしと、薙ぎ払い。振り下ろしは範囲が狭くて避けやすい。問題は薙ぎ払いのほうで、こいつは横に広い上に、判定が出るまでの予備動作が短い。
そして遺跡守りは——左肩を引いたら、必ず薙ぎ払いだ。
『薙ぎ来る! 全員伏せ——』
言い終わる前に、錆びた大剣が横一線に走った。
3人は伏せた。
1人だけ、逆に走った。
スミレだ。避けようとして、横に飛んだ。飛んだ先が、薙ぎ払いの軌道の真ん中だった。
小さな体が、ぬいぐるみみたいに吹き飛んだ。
俺は考えるより先に動いていた。《縮地》で滑り込んで、飛んできたスミレを胸で受け止める。受け止めた——のはいい。だが、飛んできた勢いが想像より重かった。
俺の背中が、壁に叩きつけられた。
Lv925のノルンにとって、この程度の衝突はダメージにすらならない。HPバーは1ドットも減っていない。
減っていないのに、いやな音がした。
ぱき、という乾いた音が、背中の向こうで鳴ったのだ。
石壁に、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走っていた。亀裂は壁から床へ潜り込み、俺の足元まで届いて——そこで、床が抜けた。
視界が下に落ちる。
『ノルンさん!?』
腕の中にスミレがいた。
俺はもう落ちている。これは確定している。だが腕の中のこいつは、まだ落ちていない。落ちる俺に掴まっているだけだ。
つまり、離せばいい。
離すだけじゃ足りない。この落下速度なら、離しても一緒に落ちる。
——投げるしかない。
俺は落下しながら体を捻って、腕の中のスミレを、崩れていない床の側へ、力任せに放り投げた。
Lv925の筋力値で人間を投げるのは、正直、加減が難しい。壁に叩きつけたら本末転倒だ。だから角度だけ気をつけた。真横じゃなく、少し上向きに。
小さな体が、宙を飛んで、3人のいる側の床に転がった。
『スミレ!』
『ノルンさんが——』
チャットが流れる。だが、それを読んでいる余裕はもうなかった。
俺の体は、崩落した穴の中へ、まっすぐに落ちていく。
穴の口が、上でどんどん小さくなる。松明の明かりが遠ざかって、細い光の点になって、それも消えた。
『すいません、下で合流します』
俺はそう打った。
このときの俺は、本気で、そう思っていた。
カルナスの廃遺跡は3階層構造だ。第2階層の床が抜けたなら、落ちる先は第3階層に決まっている。距離にして、たぶん10メートルかそこら。Lv925のノルンなら、落下ダメージなんて発生すらしない。
着地して、階段を上がって、2階層に戻る。所要時間はせいぜい5分。
だから俺は、暗闇の中を落ちながら、まだ笑っていたのだ。
『スミレさん、次から薙ぎ払いは伏せて。横に逃げると当たる』
打ち終わって、送信して。
それが、俺がこの世界に打った最後のチャットになった。




