1.レベルを隠す称号
「藤代、お前ほんと元気だよな」
六限目が終わった教室で、佐久間が机に突っ伏したままそう言った。俺は返事の代わりに、そいつの椅子の脚を軽く蹴ってやる。
「元気って言い方が年寄りくさいんだよ。まだ17だぞ、俺ら」
「17だからしんどいんだろ。数学の小テストとかいう概念、誰が発明したんだ」
「発明者を恨むな。答案を恨め」
笑い声が上がって、後ろの席の女子が「藤代くん、明日の日直まだ決まってないんだけど」と話しかけてきて、俺はそれも引き受ける。誰かと喋るのは苦にならない。むしろ好きだ。人の顔色を読むのも、場の空気を軽くするのも、たぶん俺は上手いほうだと思う。友達は多いし、教室で孤立したことも一度もない。
そういう毎日を、俺はちゃんと楽しんでいる。
ただ——本当に楽しみにしているのは、家に帰ってからだった。
夕飯を掻き込んで、風呂を済ませて、部屋の電気を落とす。机の上のモニタだけが白く光っている。椅子に座って、マウスを握って、ランチャーのアイコンをダブルクリックする。
『ルーンヴェルト・オンライン』。剣と魔法の世界を、何万人もの人間が同時に歩き回る、俺の3年半。
ロード画面が明けて、視界がひらけた。
石畳の広場。噴水。革鎧を売る露店の親父。夕暮れの色に染まった空に、鐘楼の影が長く伸びている。初心者の街ステイン——このゲームを始めた人間が、必ず最初に立つ場所だ。
そして画面の中央に立っているのは、俺じゃない。
銀灰の髪を短く刈った、蒼い目の剣士。背は高く、肩幅は広く、年の頃は20代の半ばに見える。腰に吊った長剣は、この世界の職人が3人がかりで半年かけて打った品だ。
名前を、ノルンという。
俺が作って、俺が育てて、俺が3年半かけて自分の分身にしたキャラクターだった。
ステータスウィンドウを開く。表示は見慣れた数字だ。
Lv.925。
このゲームのレベル上限は999。900を超えているキャラクターは、日本サーバー全体でもほんの一握りしかいない。エンドコンテンツは全部踏破した。実装済みのレイドボスで、俺が倒していない相手はもういない。攻略サイトの半分くらいは、俺が検証して書いた情報でできている。
日本サーバーで、いちばん名前を知られているキャラクター。それが、ノルンだ。
——で。
そのノルンが今日、何をしているかというと。
「ノルンさーん! こっちこっち!」
広場の隅で、小さな革鎧の一団が手を振っていた。4人。全員、初期装備からほとんど変わっていない。武器は支給品の短剣と、木の杖と、ひび割れた盾。レベルは、たぶん一桁の後半。
俺はチャット欄に文字を打ち込む。
『おまたせ。今日は東の森でいい?』
『はい! よろしくお願いします!』
『よろしくおねがいしますー』
『ノルンさんおっすー』
『ちわっす』
スミレ、ぽち丸、こむぎ、ダイゴロー。3日前に街の広場で「装備どこで買えばいいんですか」と聞かれて、それきり毎晩付き合っている連中だ。リーダー格は、たぶんスミレだった。いちばん喋るし、いちばん前に出る。
俺の頭上に浮かんでいる情報を、こいつらは読めない。
称号《無銘》。これを付けている間、他のプレイヤーから見た俺のレベル表示は「??」になる。実装当時は不評だった役に立たない称号で、今でも使っているやつはほとんどいない。
俺は、これをずっと外していない。
理由は単純だ。Lv925のノルンだとバレた瞬間、この4人は俺を「連れて行ってもらう相手」として見はじめる。俺の後ろをついて歩けば、経験値は勝手に入る。装備は勝手に降ってくる。3日でこいつらのレベルは200まで上がるだろう。
そして、たぶん半月で辞める。
——自分で強くなった記憶がないやつは、続かないんだよ。
これは俺が3年半かけて見てきた事実だ。だから俺は、パワーレベリングは絶対にしない。道は教える。安全な狩り方も教える。危ないときは助ける。でも、経験値バーを伸ばすのは、こいつら自身の手でやらせる。
『じゃ、今日の目標決めよっか。全員レベル10でいい?』
『いけますかね!?』
『いけるいける。狩り方さえ間違えなきゃ』
東門をくぐって、街道を外れて、東の森へ入る。
この森の湧きは全部頭に入っている。入口から時計回りに歩けば角兎に当たり、沢を渡ったあたりから森狼の縄張りになる。森狼は3体で1組。3組が代わる代わる湧く。1組を処理したら、次が湧くまでの間に必ず後退する。
『こむぎさん、盾もうちょい前。壁になるつもりで立って』
『こうですか?』
『そう。で、ぽち丸さんは盾の斜め後ろから殴る。真後ろに立つと、盾が下がったとき巻き込まれる』
『なるほど……』
『ダイゴローさんは杖の射程ギリギリまで下がっていいよ。詠唱中は動けないから、動かなくていい場所に最初から立つ』
俺は指示だけ出して、剣は抜かない。抜けば1秒で終わってしまう。
こういう言い方も、3年半で覚えたものだ。答えだけを言うんじゃなくて、判断できる材料を渡す。そうすると、次の戦闘で自分から動くようになる。人に教えるのは、けっこう楽しい。教室で誰かの相談に乗るのと、そんなに変わらない。
森狼が3体、藪から出てきた。
こむぎが盾を構えて、ぽち丸が回り込んで、ダイゴローが詠唱を始める。ぎこちない。でも、昨日より確実にましだ。
『いいよ、その形。あと2組同じことやれば体で覚える』
『ノルンさん、褒めるの上手すぎません?』
スミレのチャットが流れて、俺は笑った。実際、褒めるところを見つけるのは得意だ。
——問題は、そのスミレだった。
3組目を片付けたあと、こいつは沢の向こうを覗き込んで、こう打ったのだ。
『あっちにもいますよ! まとめて行きましょ!』
『待って』
俺が止めるより早く、スミレは沢を飛び越えていた。
沢の向こうは、森狼の縄張りが3つ重なっている場所だ。しかも今の時刻は、湧きの周期が全部揃うタイミングだった。
案の定、藪が揺れた。
3体、じゃない。9体。
『え』
『えっ』
『やば』
『にげ』
初心者の反応速度で、9体の森狼から逃げ切れるわけがない。1体目がこむぎの盾を弾き飛ばし、2体目がぽち丸の脇腹に食いついた。ダイゴローの詠唱は途中で潰れた。スミレのHPバーが、赤くなった。
——ここまでだ。
俺は、右手をマウスから離してキーボードに置き、指を3つのキーに乗せた。
ここから先の3秒間だけ、俺は「そこそこやってる先輩」をやめる。
《縮地》。
ノルンの体が消えて、次の瞬間には9体の輪の中心に立っていた。移動速度に依存する短距離跳躍。Lv925の敏捷値でこれを撃つと、この距離は「移動」ではなく「消失」になる。
《旋刃》。
腰の長剣が抜かれて、円を描いた。斬撃の判定が全方位に一周する範囲攻撃。序盤で覚える地味なスキルだ。ただし威力は筋力値に比例する。
森狼のHPバーが、9本同時に、上から下まで一息で消えた。
そして最後に——本当は要らなかったのだが、癖で出てしまった。
《断罪の一閃》。
空を斬った刃から光が伸びて、沢の向こうの木立を薙ぎ払い、地面に長い焦げ跡を残して消えた。
森が、静かになった。
チャット欄が、止まっている。
『…………』
『…………なに、いまの』
『え』
『9体』
『一瞬で』
俺は剣を鞘に収めて、キーボードに指を戻した。
『たまたま。いいスキル持ってたんだ』
『いやいやいやいやいや』
『ノルンさん何者ですか!?』
『何それ』
『神』
『神では?』
チャット欄が一気に流れはじめる。俺は椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げて、少しだけ笑った。
——毎回これだ。
助けたあとの数十秒、こいつらは俺を化物を見る目で見る。そのあと必ず「レベルいくつなんですか」と聞かれて、俺は必ずはぐらかす。
『そんなことより、スミレさん』
『はい……』
『沢の向こうは湧きが3つ重なってる。あそこは、まだ早い』
『……ごめんなさい』
『謝らなくていい。次から、藪が3つ以上見えたら一回止まる。それだけ覚えといて』
『はい!』
返事だけは、いつも一番いい。
時計を見ると、もう23時を回っていた。明日も学校だ。
『今日はここまでにしよ。全員レベルいくつ?』
『10になりました!』
『9!』
『10です』
『おれ11!』
『上出来。じゃ、また明日』
ログアウトの処理が走って、視界がゆっくり暗転していく。最後に見えたのは、夕暮れ色の森と、こっちに手を振っている4つの小さな影だった。
モニタの光が消えて、部屋が暗くなる。
——週末は、朝からカルナスに連れて行ってやるか。
あの遺跡は、このゲームを始めた人間が必ず一度は潜る、最初のダンジョンだ。骸兵の湧き位置も、罠の場所も、宝箱の中身も、俺は全部知っている。知っている道を、知らないふりで案内してやるのは、けっこう楽しい。
俺はモニタの電源を落として、ベッドに転がった。
このときの俺は、まだ何も知らない。
その週末に自分がどこへ落ちるのか。落ちた先で、この3年半で覚えた何もかもが——たった一つの称号を除いて——全部そのまま役に立ってしまうことを。
そして、その称号こそが、いちばん最初に俺を裏切るということを。




