58.還りの欠片
サルヴは、山の中腹にある村だった。
家が19軒。石を積んだ壁に、板の屋根。羊が20頭ばかり。
雪に埋もれかけていて、遠くから見ると、白い斜面に灰色の点が並んでいるだけに見える。
村の入口で、子供が走ってきた。
7、8歳くらいの女の子だ。彼女はスミレを見つけると、雪の中を転びながら走ってきて、腰にぶつかった。
「スミレせんせい!」
——せんせい。
俺は、その音を、一度、頭の中で反芻した。
子供は、そのあと5人増えた。
いちばん小さいのが5歳くらい、いちばん大きいのが12くらい。全員が、彼女の外套のどこかを掴んでいた。
スミレは、順番に頭を触って、名前を呼んだ。
6人ぶん、間違えずに呼んだ。
——名前。
自分の名前を、紙を見ないと言えない人間が。
村の集会小屋に、子供が11人いた。
板が壁に立てかけてあって、炭で字が書いてある。
俺は、それを読んだ。
『みず ひ いし かぜ
やま むら ゆき いえ
なまえ』
いちばん下の行だけ、字が大きかった。
「なまえは、いちばん最初に教えます」
スミレが、後ろから言った。
「自分の名前を書けるようにしてから、他のを教えます」
「……なんで」
「書けないと、消えるので」
板の『なまえ』の字だけ、炭が濃かった。
何度もなぞった跡だ。子供が書いたのではない。教える側が、いちばん上から、何度も上書きしている。
11人ぶん、消えないように。
俺は、板を見たまま、動けなかった。
◇
夜、集会小屋の隅で、彼女は話しはじめた。
子供たちはもう寝ていた。ガウスとトビアスとヤナは、村長の家に泊まっている。リゼだけが、少し離れたところで、火の番をしていた。
「わたし、竜を起こしました」
前置きは、なかった。
俺は、何も言わなかった。
言うことがなかった。
「2年近く前です。こっちに来て、1年3か月経ったころ」
彼女は、膝の上で、指を組んでいた。
「竜骨山脈の南麓に、洞窟があります。地図では『竜の巣』ってなってる場所」
「……はい」
「そこの、いちばん奥に、地脈の台座がありました。4基」
——ある。
俺の記憶にもある。第二形態で竜が吸うやつだ。
「わたし、それを、壊しました」
「……壊した」
「1基だけ。そしたら、山が鳴りました」
彼女は、指を組み直した。
「怖くなって、逃げました。すぐには何も起きませんでした。半年、何も起きませんでした」
「……」
「だから、大丈夫だったんだと思ってました」
半年。
俺がこの世界に着いてから、6か月目に、竜が目を覚ました。
彼女が台座を壊したのは、その半年前。
俺が、この世界に着いた、ちょうどそのころだ。
「なんで」
俺は、やっとそれだけ聞いた。
「なんで、壊したんですか」
彼女は、顔を上げた。
そして、こう言った。
「《還りの欠片》を、取りたかったんです」
俺の頭の中で、何かが、止まった。
「……なんですか、それ」
彼女は、俺の顔を見た。
そして、初めて、怒った顔をした。
「ノルンさんの記事に、書いてありました」
——書いた。
——書いたのか。
「カオスドラゴンの、レアドロップの一覧です。実装直後の検証記事。上から順に、竜鱗、竜牙、逆鱗、焔心の欠片、そして」
彼女は、そらで言った。
「《還りの欠片》。ドロップ率0.4パーセント」
——ある。
思い出した。
思い出した瞬間に、吐き気がした。
3年半前。実装初日の夜。俺は徹夜で竜を11回殺して、ドロップを全部記録して、朝5時に表を貼った。
アイテム名は、ゲームの表示をそのまま書き写した。
効果は「未鑑定」だったので、空欄にした。あとで埋めるつもりだった。
埋めなかった。
3日後に「ただのレア素材、装飾品の材料」と判明して、俺はそれを別のスレッドに1行だけ書いた。
表のほうは、直していない。
誰も困らないからだ。
3日経てば、みんな知っている。
「わたし、その名前を見て」
彼女が言った。
「『還り』って書いてあったので」
「……」
「帰れるんだと思いました」
小屋の中が、静かだった。
外で、風が、板の屋根を鳴らしていた。
「1年、探しました」
彼女は、淡々と続けた。
「竜が寝てるので、ドロップしません。起こさないと落ちない。だから、起こす方法を探しました」
「……」
「台座を壊せば起きる、っていうのは、記事にはありませんでした。自分で考えました」
「……」
「わたしが考えたのは、そこだけです」
俺は、床を見ていた。
「3つの村が」
彼女は、そこで初めて、声が少し掠れた。
「焼けました。ここから南に、荷馬車で3週間のところです」
「……」
「わたしが起こしたって、誰も知りません」
「言ってないんですか」
「言えません」
彼女は、少し笑った。
「言ったら、この村を出ていかないといけないので」
俺は、そこで、やっと口を開いた。
「相馬さん」
「はい」
「その記事、俺が書きました」
彼女の顔が、動かなかった。
「……知ってます」
「効果は、書いてませんでした。空欄でした」
「はい」
「3日後に、別のところに書きました。『ただの素材、装飾品の材料』って」
彼女は、まばたきを1回した。
それだけだった。
「……そうですか」
「相馬さん」
「はい」
「俺、その1行、覚えてませんでした」
「いま、あなたに言われて、初めて思い出しました」
「はい」
「俺が書いた1行で、村が3つ焼けたのに、俺はその1行を忘れてました」
彼女は、しばらく黙って、それから、こう言った。
「そりゃ、そうですよ」
「使わない記憶から、先に薄くなるんです」
「ノルンさん、その1行、一度も使ってないでしょう」
俺は、その言葉で、殴られたほうが楽だったと思った。
彼女は、責めていない。
分析している。
3年、自分の記憶が減っていくのを観察してきた人間の、正確な所見だ。
「相馬さん」
「はい」
「怒らないんですか」
彼女は、少し考えた。
「怒りました」
「……いつ」
「1年2か月前です」
彼女は、膝の上の指を、また組み直した。
「村が焼けたって聞いたとき、最初に思ったのは『なんで空欄なんだよ』でした」
「……」
「効果が『なし』って書いてあれば、わたし、行かなかった。空欄だったから、行ったんです」
「はい」
「それで、1週間くらい、ノルンさんのことを恨みました」
彼女は、そこで、少し笑った。
「1週間で、やめました」
「……なんで」
「恨む相手が、いなかったからです」
彼女は、天井の板を見た。
「この世界のどこにも、いなかったんですよ。恨む相手がいないと、恨めないんです」
「だから、代わりに、子供を集めました」
——ああ。
俺は、そこで、いちばん重いものを受け取った。
この人は、俺がいれば恨めた。
いなかったから、贖罪のほうへ行った。
そして今、俺は、目の前にいる。
「いま、恨んでいいですよ」
俺は、そう言った。
彼女は、首を振った。
「もう、無理です」
「……なんで」
「1年2か月ぶん、忘れました」
彼女は、それを、いちばん静かな声で言った。
◇
その夜、俺は村を出て、斜面を200歩ほど登った。
誰もいない。何もいない。雪だけの斜面だ。
俺は、そこに立って、両手を開いた。
火を保持して、1/8拍で風を差し込んで、もう1/8拍で土を重ねた。
《三重奏》。
斜面が、300歩ぶん、消えた。
雪が蒸発して、その下の土が焼けて、岩がめくれて、めくれた岩が風で削られた。
音が、山に3回反響した。
何も倒していない。
何も守っていない。
ただ、撃った。
村のほうを振り返ると、集会小屋の戸が、少しだけ開いていた。
隙間から、リゼが見ていた。
彼女は、何も言わなかった。
戸を閉めもしなかった。
ずっと、開けたままにしていた。




