57.書いた側と読んだ側
泣き石までは、峠から2日だった。
その2日で、俺は彼女の戦い方を見た。
初日、街道で霜の使徒に当たった。
7体。
俺が剣に手をかける前に、彼女が前に出た。
「わたし、やります」
彼女は、7体の並びを、一瞥した。
そして、右から3体目の前に立った。
——正しい。
霜の使徒は、群れると扇に広がる。扇の要は、真ん中じゃない。風上側から3体目だ。氷の重さが違うからだ。
そこに立つと、全部の突進線が1歩前で交わる。
俺が、街道で6分04秒でやったのと、同じ位置だった。
彼女は、左肩の霜が落ちるのを待って、火と土を1/8拍でずらした。
《溶岩落》。
地面が持ち上がって、持ち上がる途中で赤くなった。
7体が、まとめて溶けた。
12秒だった。
トビアスが、また膝をついていた。この人は膝をつくのが癖になりつつある。
ガウスは口笛を吹いた。
そして、リゼだけが、俺の顔を見ていた。
——気持ち悪いだろ。
俺は、心の中でそう言った。
息が、合いすぎている。
俺と彼女は、初めて一緒に戦った。打ち合わせは1つもしていない。
なのに、俺は彼女がどこに立つか分かったし、彼女は俺が動かないことを分かっていた。
同じ表を、同じ順番で、頭に入れているからだ。
2日目に、それは崩れた。
泣き石の手前、5キロ。
道が、氷の斜面になっていた。
北の氷原が近い。地面が凍って、その上に薄く雪が乗って、その下がまた凍っている。
一見、雪の道だ。
俺は、先頭を歩いていた。
3歩進んで、止まった。
「ここ、迂回します」
「なんでですか」
スミレが、後ろから聞いた。
「地図では、まっすぐ行けますよね」
「行けます。去年までは」
俺は、しゃがんで、雪を払った。
下が、鏡だった。
「雪が薄くて、下が氷です。傾斜が11度くらいある。滑ったら、下は谷です」
「……そんなの、どこにも」
「書いてないです」
俺は言った。
「書いてないから、俺が今、見ました」
「見た、って」
「雪の乗り方です」
俺は、道の先を指した。
「風下側だけ雪が薄いでしょう。あれ、地面が凍ってると、そうなるんです。凍ってない土なら、風下にも積もる」
「……」
「あと、この道、足跡が1つもない。獣の足跡もです。獣は滑る道を避けます」
彼女は、道を見た。
それから、俺を見た。
「……それ、どこで覚えたんですか」
「覚えてないです」
「え」
「いつ覚えたか、思い出せません」
本当だった。
3年半のどこかで、たぶん何十回も見ている。「あ、ここ滑るな」と思って避けた回が、記憶の底に積んである。
それは記事にならない。記事にするほどのことじゃないからだ。
だが、それが、いま、この人と俺を分けている。
彼女は、そこで、少し黙った。
そして、こう言った。
「わたし、たぶん、そのまま行ってました」
「はい」
「去年、似たところで転んでます」
彼女は、外套の左側をめくった。
腰から膝にかけて、大きい傷跡があった。古い。縫った跡が雑だ。
「30歩滑って、岩で止まりました。止まらなかったら死んでました」
「そのとき、どうしたんですか」
「這って、村まで戻りました」
「どのくらいかかりました」
「4時間くらいです。途中で1回、寝ました」
「寝た」
「寒いと、眠くなるんです。あれ、知りませんでした」
彼女は、外套の裾を払った。
「記事に、書いてなかったので」
彼女は、外套を戻した。
「そのあと、その道を通るときは気をつけるようになりました。その道だけ」
——ああ。
そこで、俺は、この人の輪郭を掴んだ。
彼女は、俺の書いたものを、完璧に持っている。
だから、書いてある状況では、俺と同じ精度で動く。
Lv380で、上級の使い手が片手で足りる世界で、混合魔法を撃つ。
だが、書いていない状況に出た瞬間、彼女はLv1に戻る。
判断する材料が、1つもないからだ。
そして、彼女が持っている「書いてない知識」は、全部、自分が痛い目に遭って覚えたものだった。
その道で転んだから、その道は気をつける。
隣の道は、また転ぶ。
俺は、迂回路を歩きながら、自分の頭の中を見た。
俺が持っているものは、2つある。
1つは、記事にしたやつだ。表と、数字と、手順。この子と同じもの。
もう1つは、記事にしなかったやつだ。
3年半、俺は毎日ゲームをやっていた。
そのあいだに、書くほどでもないことを、数えきれないほど拾っている。
「この地形は滑る」「この段差は音が響く」「こういう並びのときは1体多い」。
いちいち書かない。書いても誰も読まない。
だから記事には載っていない。
だが、俺の中にはある。
——差は、そこか。
俺は、それを、少しだけ、優越として感じた。
感じてから、すぐに、気持ちが悪くなった。
——優越って、なんだ。
俺が書かなかったから、この子は30歩滑って、腰から膝まで縫ったんだ。
迂回路は、半日ぶん遠かった。
だが、遠回りしたぶん、獲物がいた。
氷渡りのワーム。氷の下を泳ぐ。姿は見えない。足を止めた者に来る。
俺は、わざと足を止めて、出てきたところを25体もらった。飽いは30だ。あと5体、残しておく。
「なんで止まるんですか」
相馬が聞いた。
「止まると、来るからです」
「……それ、記事に」
「書いてないです」
◇
その日の夕方、泣き石に着いた。
高さ2メートルの、黒い石だ。
上半分に、読めない文字。下半分に、後世の書法で『——ここより北、神の座あり』。
俺は、上半分に、拓本の写しを当てた。
柱の記号が、3か所にあった。
俺は、それを写しながら、隣にいたスミレに聞いた。
「相馬さん」
「はい」
「柱って、聞いたことありますか」
彼女は、首を傾げた。
「なんですか、それ」
「神を数える単位です。一柱、二柱って」
「……」
彼女は、しばらく考えて、こう聞いた。
「それ、記事にありました?」
俺は、その一言で、背中に何かが降りるのを感じた。
——この人は、記事にないことは、存在しないと思ってる。
いや、違う。
そこまで莫迦じゃない。
だが、確かめる順番の、いちばん最初に、記事が来る。
3年、それで生き延びてきたからだ。
「ないです」
俺は言った。
「この世界にしかない言葉です」
彼女は、泣き石を見上げた。
そして、しばらく黙ってから、こう言った。
「……そういうの、いっぱいあるんですね」
俺は、拓本と、市の書庫から借りた1葉を、石の前に並べた。
3つとも、同じ記号がある。
原本の注釈。泣き石の上半分。そして、市の書庫の1葉。
柱。
市の1葉には、その記号が2回出てきた。
そして、そのうちの1回の直前に、数を表す記号があった。
俺は、それを、灯りに近づけた。
縦棒が、4本。
「……4」
トビアスが、後ろから覗き込んだ。
「4、なんですか」
「分かりません」
俺は言った。
「4つ、あるものの話です」
トビアスは、それをそのまま復唱した。
復唱してから、意味の分からない顔で黙った。
原本の2行目にも、数の記号があった。あちらは炭で潰れていて、輪郭しか残っていない。アイリーンは「少なくとも2本、3本かもしれない」と言った。
こっちは、はっきり4本だ。
——南の柱が1つ。
——北に、神の座がある。
——柱は、4つ。
俺は、石の前にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
「ノルンさん」
スミレが、隣にしゃがんだ。
「なんて書いてあるんですか」
「まだ、全部は」
「分かるとこだけでいいです」
俺は、指で記号をなぞりながら言った。
「南に1つ、寝てました」
「はい」
「北に、1つあります」
「はい」
「全部で、4つです」
彼女は、それを聞いて、少し黙った。
そして、こう言った。
「南の、って」
「はい」
「竜の話ですか」
俺は、顔を上げた。
彼女の横顔は、石を見ていた。
表情が、なかった。
「……なんで、そう思ったんですか」
彼女は、答えなかった。
長いこと、答えなかった。
それから、立ち上がって、外套の雪を払って、こう言った。
「サルヴに寄っていいですか」
「サルヴ」
「北の村です。子供が11人いるんです」
彼女は、歩き出した。
背中が、俺のほうを向いていた。
「そこで、全部話します」
Lv.470




