56.相馬菫
翌朝、彼女は自分から名乗った。
隊商を送り出したあと、休み場の焚き火の横で、彼女は懐に手を入れた。
出したのは、折り畳んだ紙だった。
四つ折りで、折り目が擦り切れている。何百回も開いたものだ。
彼女は、それを開いて、灯りにかざした。
そして、読み上げた。
「相馬菫。そうま、すみれ。19歳。大学1年」
俺は、その動作を、意味が分からずに見ていた。
「……なんで、読んでるんですか」
彼女は、紙を折り直しながら、事務的に答えた。
「忘れるんですよ、こっちにいると」
「……忘れる」
「はい。使わない記憶から、先に薄くなります」
俺の背中が、冷たくなった。
——佐久間の顔。
——コンビニの匂い。
「気づいたの、いつですか」
俺は聞いた。
「1年目の終わりごろです。お母さんの声が、出てこなくなって」
彼女は、紙を懐にしまった。
「それで、書きました。名前と、年と、家の住所と、通ってた大学と、友達の名前。忘れたら困るやつだけ」
「……効いてますか」
「効いてません」
彼女は、即答した。
「文字は残ります。中身が残りません」
「たとえば、住所は書いてあります。3丁目の、角から2軒目です」
「はい」
「でも、玄関がどっち向きだったか、思い出せません」
「わたし、いま、自分の名前を『相馬菫』だと知ってます。でも、誰かに呼ばれてる感じがしないんです」
焚き火が、はぜた。
「じゃあ、逆に」
俺は聞いた。
「毎日使ってるものは、残るんですか」
「残ります」
彼女は、あっさり言った。
「むしろ、鮮明になります」
「たとえば、何が残ってますか」
彼女は、少し考えて、それから、こう言った。
「北の氷原の入口から、泣き石まで、徒歩で6時間。ただし冬は9時間。
霜苔鹿は300で飽いが来ます。
《静寂の祭壇》の条件は、夜明けまで声を出さず、武器を抜かず、追われて3回生き延びること。
カルナスの廃遺跡、第2階層の隠し部屋は、松明を左・右・右・左で消すと開きます」
俺は、動けなくなった。
「……それ」
「はい」
「それ、どこで」
彼女は、俺を見た。
そして、少しだけ、笑った。
例の、半拍遅い笑い方だった。
「ノルンさんの記事です」
「……記事」
「ルンオンの攻略サイト。『ノルン検証まとめ』ってやつです」
彼女は、指を折りはじめた。
「隠し部屋の記事が全部で31本。祭壇の契の条件が87本。飽いの境界値の一覧表が、モンスター200種類ぶん。狩場の推奨帯が上から下まで。あと、詠唱節数の表と、キャンセル入力のタイミング表」
「……」
「1/8拍の記事もありました。あれ、いちばん読みました」
俺は、火を見ていた。
「ブックマーク、してたんですか」
彼女は、首を振った。
「暗記です」
「……暗記」
「わたし、そういうタイプなんです」
「ゲーム始める前に、攻略サイト全部読むタイプ。やる前に読み終わってるタイプ」
彼女は、両膝を抱えた。
「友達に『それ楽しい?』ってよく言われました。楽しいんですよ。読んでるときがいちばん楽しいんです」
「で、実際にやると、下手なんですよね。指が追いつかなくて」
「……」
「ノルンさんが引率してくれた3日間、わたし、たぶん4人でいちばん下手でした。知識だけあって、いちばん下手」
彼女は、そこで、初めて少し早口になった。
「だから、こっちに来て、最初の1か月で思ったんです。ここ、指が要らないって」
「……指」
「マウスもキーボードも要らない。体が勝手に動く。あとは、知ってるかどうかだけ」
彼女は、火に手をかざした。
「わたし、こっちに来て、初めて上手くなりました」
俺は、そこで、やっと1つ思い出した。
3年半前。
初心者4人を東の森へ連れていった夜。
いちばん喋って、いちばん前に出るリーダー格が、こう打っていた。
『ノルンさん、褒めるの上手すぎません?』
——ああ。
あのとき俺は、こいつを「調子に乗る子」だと思っていた。
沢を飛び越えて森狼の群れに突っ込んだから、そう思った。
違った。
こいつは、読み込んだうえで、突っ込んでいた。
「あの沢の向こうは3組が交互に湧く」と、記事で知っていた。だから行けると思った。
記事に書いていなかったのは、初心者4人のうち3人が、まだ立ち位置を体で覚えていないということだ。
「ノルンさん」
彼女が、呼んだ。
「顔、真っ白ですけど」
「……いや」
「怒ってます?」
「怒ってない」
俺は、そう言った。
言ってから、自分の声が、うまく出ていないことに気づいた。
——3年半。
俺は、あれを、暇つぶしで書いていた。
夜中の2時に、検証して、表を作って、掲示板に貼った。「乙」「助かる」「暇人かよ」の3件で満足していた。
誰が読んでいるかなんて、一度も考えたことがなかった。
その表が、3年、この子の命を支えていた。
「あの」
彼女が言った。
「昨日から、1つ聞きたかったんですけど」
「……はい」
「ノルンさんの記事に、書いてないことって、どのくらいあるんですか」
俺は、その質問に、答えられなかった。
答えは、簡単だ。
俺が書いたのは、たぶん、頭の中の2割もない。
書いたのは「みんなが知りたがること」だけだ。誰も聞かないことは、書かない。
季節の湧きの変動も、地形の危険も、身体の負荷も、書いていない。
書く必要が、なかったからだ。
——書かなかった8割の中に。
——この子が3年、知らないままでいたものが、全部ある。
「……たくさん、あります」
俺は、やっとそう言った。
「そうですか」
彼女は、頷いた。
そして、こう言った。
「じゃあ、わたしが知らないことを、教えてもらえますか」
——ああ。
これも、聞いたことのある形だ。
「強くしてください」
だが、彼女のは、少し違った。
彼女は、こう続けたからだ。
「わたし、書いてあることは、全部できます」
「書いてないところで、いつも転ぶんです」
そのとき、俺はまだ、その一言の意味を、軽く見ていた。
謙遜だと思った。
2日後に、それが、この世界でいちばん正確な自己診断だったと知ることになる。
◇
その夜、俺は焚き火の反対側で、彼女を見ていた。
ガウスが酒を勧めて、断られていた。トビアスが混合魔法について質問攻めにして、彼女は3つ答えて、4つ目で「それは記事になかったので分かりません」と言った。ヤナが薬の話を振ると、今度は逆に食いついた。「その補助薬、材料は何ですか」「竜の血です」「竜の……南の?」「はい」——そこで、彼女の言葉が止まった。
その止まり方が、少しだけ、変だった。
リゼが、俺の隣に来て座った。
「聞かないんですか」
「何を」
「あの人が、3年、何をしてたか」
俺は、火を見たまま答えた。
「聞いたら、答えると思う」
「じゃあ」
「答えたあとに、こっちが何も返せなかったら、あの人は二度と喋らない」
リゼは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ノルンさん、優しくないですよね、そういうとこ」
「……え」
「準備ができるまで聞かない、って、こっちの準備の話でしょう」
彼女は、膝を抱えた。
「あの人、3年待ってたんですよ。もう待たせないであげてください」
俺は、返す言葉を持っていなかった。
この日、俺は2回、返す言葉を持っていなかった。
◇
寝る前に、俺は自分の荷から、白紙の帳面を1冊出した。
『飽いと戻りについて』の余りだ。まだ1文字も書いていない。
俺は、いちばん最初の頁に、こう書いた。
『佐久間 数学の小テストの話をするやつ 椅子の脚を蹴った』
書いてから、その1行を、長いこと見ていた。
顔は、やっぱり出てこなかった。




