52.言葉の通じない小男
その噂を最初に聞いたのは、日雇いのレンからだった。
「北四区の裏路地に、変なガキが住みついてる」
「ガキ」
「14くらいか。痩せてて、いつも壁を背にして座ってる」
彼は、パンをちぎりながら言った。
「言葉が通じねえんだと」
「異国の子ですか」
「そういうんじゃねえらしい。言葉自体は喋るんだと」
「じゃあ」
「話が通じねえんだよ」
レンは、そこで少し声を落とした。
「頭がおかしいって話だ。自分は別の世界から来たとか、そういうことを言うらしい」
俺は、パンを口に運びかけて、止めた。
北四区は、街の北の端だ。
城壁のすぐ内側で、日が当たらない。革なめしの臭いがする。
路地の3本目で、見つけた。
石壁を背にして、少年が1人、膝を抱えて座っていた。
痩せていた。頬がこけている。髪は伸び放題で、色が分からない。着ているものは、もとは何かの外套だったものだ。
背丈は、13か14くらいに見えた。
俺は、10歩手前で止まった。
——見た覚えは、ない。
当たり前だ。俺は、あの4人の、生身の顔を1つも知らない。
見たことがあるのは、画面の中の、4体のキャラクターだけだ。
少年は、俺に気づいていなかった。
彼は、自分の手のひらを見ていた。
そして、誰にともなく、こう言った。
「……マジで、詰んでるって」
俺の膝が、勝手に折れた。
日本語だった。
1年5か月ぶりだった。
俺は、しゃがんだまま、しばらく声が出なかった。
出そうとして、喉が引っかかった。この1年5か月、俺は日本語を、口に出していない。
考えるときには使っている。だが、声帯を通していない。
だから、最初の一言は、ひどく掠れた。
「ぽち丸さん、ですよね」
少年の頭が、上がった。
彼の目が、俺を見た。
それから、俺の顔の輪郭を、額から顎まで、ゆっくり辿った。
口が、開いた。
声は、出なかった。
俺は、もう一度言った。
「東の森で、こむぎさんの盾の斜め後ろから殴ってた人ですよね」
彼は、石壁に後頭部をぶつけた。
後ずさろうとして、壁があったからだ。
「……のる」
「はい」
「……ノルン、さん?」
彼は、そこから、泣いた。
声が、獣みたいだった。
路地の向こうで、革なめし職人が2人、何事かと顔を出した。
俺は片手を上げて、なんでもないと合図した。
彼は、俺の外套の裾を掴んで、地面に額をつけて、泣いた。
言葉になっていなかった。
途中で、「ずっと」とか「誰も」とか「うそだと思われて」とか、そういう単語が混ざった。
宿へ連れて帰って、まず飯を食わせた。
肉と、パンと、あたたかいスープ。
彼は、3口食べたところで手を止めて、皿を見て、また泣いた。それから残りを全部食った。
食い終わってから、彼は喋った。
「相沢徹っす」
「あいざわ、とおる」
「26っす」
俺は、スープの匙を落とした。
「……26」
「26っす」
「見た目、14くらいですけど」
「キャラがこれなんすよ」
彼は、自分の顔を指した。
「短剣使いで、小柄なやつ。作るとき、可愛いほうがいいかなと思って」
「……」
「26のおっさんが、そう思ったんすよ」
彼は、そこで、初めて笑った。
笑い方が、完全に社会人だった。
「ノルンさんは」
「え」
「中身、おいくつなんすか」
俺は、答えた。
「18です」
徹は、3秒止まった。
それから、こう言った。
「……逆っすね」
そこから、彼の11か月を聞いた。
彼は、俺が落ちた穴を、調べていて落ちた。
「あの日、ノルンさんが消えたあと、掲示板が大騒ぎで。運営に問い合わせても『調査中』しか返ってこなくて」
「……」
「で、俺、次の日に一人でカルナス行ったんすよ。落ちた穴のとこ、見に」
彼は、テーブルの木目を指でなぞった。
「穴、まだ開いてたんす。ふさがってなかった」
「……開いてた」
「はい。で、下を覗いたら、落ちました」
「落ちた?」
「吸われた、が近いっす」
俺は、その言葉を、頭の奥にしまった。
「森に出て、街道を見つけて、荷馬車に拾われました。北へ行く隊商でした」
「なんで乗ったんですか」
「乗るしかなかったんすよ。方角も分かんないし、金もないし、あっちは荷運びの人手が欲しかったんで」
彼は、少し肩をすくめた。
「1か月半、荷を担いで、この街で降ろされました。それが9か月前っす」
「その9か月、何を食べてたんですか」
彼は、少し考えてから、指を折った。
「水汲みが、朝に2銅貨。荷ほどきが、隊商が来た日だけ4銅貨。あと、パン屋が閉めるときに、焦げたやつを捨てるんす。あれを待ってました」
「……」
「あ、あと大事なやつ忘れてました。革なめしの臭いのする路地は、誰も来ないんで、寝るには最高っす」
彼は、それを、本当に「有益な情報」の顔で言った。
——9か月で、この人は、この街の生き方を覚えている。
俺が1年5か月かけて覚えたのは、狩場と、契と、相場だ。
この人が9か月で覚えたのは、焦げたパンが出る時刻と、誰も来ない路地だった。
どっちも、生き延びるための情報だ。
「言葉は」
俺は聞いた。
「通じたんですか」
彼は、変な顔をした。
「通じますよ」
「……え」
「最初から通じてました。耳も口も、普通に動くんす。字も読めます」
俺は、聞き返した。
「じゃあ、なんで『言葉の通じない小男』って呼ばれてるんですか」
徹は、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「最初の3か月、本当のことを喋ったからっす」
「別の世界から来ました、って。日本ってとこから来ました、って。ゲームの中に落ちました、って」
彼は、笑った。
「10人くらいに言いました。全員に、頭のおかしいガキだと思われました」
「……」
「1人だけ、真面目に聞いてくれた人がいたんすけど。3日後に、寺みたいなところに連れていかれそうになって、逃げました」
彼は、コップの水を飲んだ。
「それからは、喋らないことにしました」
「言葉は通じるんすよ。話が通じないだけで」
俺は、その言葉を聞いて、自分の1年5か月を、上から下まで見返した。
俺は、一度も言わなかった。
ドロテアの尋問でも、セシルの問いでも、レインの前でも、俺は言わなかった。「遠いところから来た」までしか言わなかった。
それは、賢かったからじゃない。
俺は、たまたま、25歳の顔をしていただけだ。
25歳の顔で「別の世界から来ました」と言えば、変わり者で済む。
14歳の顔で言えば、寺に連れていかれる。
◇
その夜、徹は宿の床で寝た。
寝る前に、彼は日本の話を少しした。
「俺、コンビニの夜勤8年やってたんすよ」
「8年」
「深夜2時から朝10時。あれ、慣れると楽なんす。人が来ないんで」
彼は、天井を見ていた。
「弁当の廃棄って、22時と2時に出るんすよ。2時のやつがうまいんです。日替わりの残りが多いんで」
「……」
「あと、雨の日は雑誌が売れます。マジで」
俺は、その話を聞きながら、あることに気づいた。
——コンビニの、中の匂いが、思い出せない。
行ったことがある。何百回もある。
学校の帰りに寄って、肉まんを買った。夏はアイス。テスト前は栄養ドリンク。
だが、扉が開いたときの、あの匂いが、出てこない。
俺は、目を閉じて、探した。
出てきたのは、ヴェルンハイムの北四区の、革なめしの臭いだった。
「ノルンさん」
徹の声が、床から聞こえた。
「明日、お願いがあるんすけど」
「なんですか」
「強くしてください」
彼は、天井を見たまま言った。
「1年近く、なんもできませんでした。次に何か来たら、俺、死にます」
俺は、暗い天井を見た。
——ああ。
——来た。
1年前に、診療所のベッドの上で、俺が答えを間違えた質問と、同じ形の質問だ。
そして、寝息が聞こえはじめてから、俺はもう1つのことを考えた。
——3人目だ。
白い髪の女。俺。そして、この人。
女は、俺より先にいた。
俺は、あの子を投げ飛ばした直後に落ちた。
徹は、その翌日に落ちて、俺より半年遅く着いている。
俺は、指を折って数えようとして、やめた。
落ちた順と、着いた順が、合っていない。
3人ぶんの日付を並べたら、たぶん、また合わない。
それでも、いつか並べなければならない。
俺は、答えを持っていた。
1年かけて、後悔から作った、いちばん正しい答えを。
それが、翌日、真正面から否定される。




