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51/87

51.同時に3人

水の上級を取りに行く、と言ったとき、ヴィオが最初に聞いたのはこれだった。


「なんで水だ。火のほうが強えだろ」


「北に、火が効かないものがいます」


彼女は、それ以上聞かなかった。


聞かない代わりに、魔術師を2人出してきた。


トビアス・レーン、31歳。灰狼の魔術付き。中級の水と風。


ヤナ・ドルフ、26歳。中級の水のみ。


「うちの魔術師は6人いる。この2人が、いちばん頭がいい」


ヴィオはそう言った。


「頭がいいってのは、賢いって意味じゃねえ。言われたことを、言われたとおりにやるって意味だ」


——それだ。


俺は、少し安心した。


水の上級は、《氷牙の檻》という。


取得の契は、こうだ。


凍った湖の、氷の下。


日の出の第一条が氷を透ける瞬間から、《氷槍》を47回、一度も息を継がずに唱え切る。


47回で、およそ3分40秒。


その間、水の中にいる。


——ゲームでは、これだけだった。


判定は「氷の下にいるか」「日の出の瞬間から始めたか」「47回連続か」「息継ぎがないか」。この4つ。


満たせば取れる。満たさなければ取れない。


それだけの、判定条件だった。


俺は、宿の机で、前提を書き出した。


『【前提】


 一、水中で息を止めた累計が2時間を超えていること。


  この契を持たない者は、2分前後で意識が落ちる。47回は保たない。


 二、最大魔力が1400を超えていること。


  《氷槍》の消費は28。47回で1316。残量が100を切ると、水中で魔力の逆流が起きる。


 三、詠唱を中断されない技能を持っていること(前掲)。


 四、唱え終わったあとに、氷から出る場所を、先に決めておくこと。』


四番を書いたところで、俺はペンを止めた。


——これ、誰も書かない。


ゲームには、四番が存在しない。


契が成立した瞬間、キャラクターは自動的に氷の上に戻る。演出だ。プレイヤーは、水から出る手順を考えたことがない。


だが、ここでは違う。


唱え終わったあと、あなたは氷の下にいる。


魔力は空。息は3分40秒止めたまま。四肢はほぼ動かない。


その状態で、入ってきた穴まで、自力で戻らなければならない。


——たぶん、ゲームどおりにやったら、ここで死ぬ。


俺は、四番の下に、さらに書き足した。


『  ※出口の穴は、3つ開けること。1つでは、流されたときに終わる。


  ※穴の縁に縄を垂らし、氷の上に人を置くこと。


  ※唱え終わってから浮上まで、およそ40秒かかると見込むこと。』


前提の確認に、12日かかった。


魔力の量は、俺には見えない。


だから、こういう測り方をした。


《氷槍》を、途切れず唱えられるだけ唱えさせる。倒れる直前でやめさせる。その回数から、逆算する。


——リゼが、印をつけた場所だ。


『魔力が2000』では、誰にも分からない。彼女は、王都の宿の一階で、そこを丸めた紙で指した。


分かる形に直すには、数えられるものに置き換えるしかない。


魔力の量ではなく、唱えられる回数で書く。


ヤナは、38回でふらついた。1064だ。足りない。


トビアスは、51回まで唱えた。1428。ぎりぎり届いている。


ヤナは、そこで自分から言った。


「私は、今回は見送ります」


トビアスが止めようとした。


俺は、止めなかった。


「1400に届く方法は、あります」


俺は言った。


「時間はかかりますけど、書いておきます。半年後にやりましょう」


ヤナは、頷いた。


そして、こう聞いた。


「……あの、ノルさん」


「はい」


「私が今、やめると言ったのは、情けないことですか」


俺は、その質問に、答えるのに1拍かかった。


「いえ」


「本当ですか」


「この手順の、いちばん上に書いてあります」


俺は、綴りの一枚目を開いて、見せた。


『やめた者は、失敗していない。やめることは、この手順の一部である。』


ヤナは、それを読んで、少し笑った。


笑ってから、目を拭った。


もう1つの前提——水中で息を止めた累計2時間——は、俺とトビアスの2人とも、持っていなかった。


俺は驚いた。自分が持っていると思っていたからだ。


「そんな契、いつ満たすんですか」


トビアスが聞いた。


「漁師とか、真珠採りとか、そういう人たちです」


「私たちは」


「12日、湖で潜ります」


「……12日」


「1日10分ずつ増やせば、届きます」


12日間、稼ぎはない。


宿代は、凍み茸が払った。


市場で7銅貨で買った袋が、冬が深くなって、126銅貨になっていた。18倍だ。


売りにいったとき、露店の親父が「あんた、これ買い占めてたやつか」と言った。


「はい」


「なんで分かった」


「毎年そうなってるからです」


嘘だ。


俺が知っているのは、この街の冬の相場が、ゲームの季節ごとの値動きと同じ形をしていたことだけだ。


12日間、俺たちは湖で潜った。


これがいちばん地味な12日だった。


朝、氷を割って、交代で潜って、上がって、震えて、また潜る。


ガウスが3日目から見物に来た。4日目には自分も潜りはじめた。5日目に「寒い」と言って離脱した。


リゼは、7日目に来て、俺の潜水時間を数えはじめた。


「1分52秒」


「……もうちょっと行けたと思うんだけど」


「行けてません。顎が2回動きました」


「顎?」


「息を吸おうとすると、顎が先に動くんです」


彼女は、氷の縁に座って、足をぶらぶらさせていた。


「ノルンさん、水の中だと弱いですね」


「……そうだね」


「ちょっと安心しました」


12日目の夜、俺のスキル欄に《潜水》が生えた。


トビアスのほうは、翌朝だった。


決行は、その2日後。


新月と、快晴と、湖が完全に凍っている日を選んだ。


凍湖ミーミル。


直径2キロ。冬の間、氷の厚さが1メートル近くなる。


「ミーミル」は古語で記憶という意味だ、とアイリーンが言っていた。


出口の穴は、3つ開けた。


縄を垂らして、氷の上にガウスとリゼとヤナを置いた。


日の出の40分前に、俺とトビアスは水に入った。


氷の下は、青かった。


上を見ると、氷が天井になっている。厚さ1メートルの氷を通して、空の色が滲んでいる。


音が、しない。


自分の心臓の音だけがする。


トビアスが、5歩離れたところで、俺のほうを見ていた。


俺は、指を1本立てた。


——待つ。


そして、氷が、赤くなった。


日の出の第一条が、東の岸から入ってきた。


氷の下を、赤い光が、水平に走った。


俺は、息を止めた。



1回目。



《氷槍》は、水中で唱えると、音にならない。


口の形と、喉の奥の震えだけになる。それでも成立する。詠唱は音ではなく、形だからだ。


10回。



20回。



30回で、胸が痛くなった。



——ここからだ。


あの祭壇の夜、107回目で喉が焼けて、視界が白くなったときのことを、俺は思い出していた。


あのとき、俺は根性で唱え切ったと思っていた。


違った。


俺は、24回・24回・30回・30回で息の質を変えていた。無意識に。


今回は、息が使えない。



だから、心臓を使った。



胸が痛くなってから、俺は詠唱を心拍に合わせた。1拍に1音。心臓が速くなれば詠唱も速くなる。合わせておけば、体が「まだ動いている」と思い込む。


40回。



トビアスのほうを見た。



——動いてる。



彼の口が、動いていた。



47回目。



湖が、鳴った。



氷の天井が、内側から白く走った。


俺の手の先から、氷の柱が生えた。太さは大人の胴くらいある。それが上へ伸びて、1メートルの氷を、下から突き破った。


トビアスの位置からも、1本。



——2本?



いや。



3本、上がった。



3本目は、40歩離れた場所からだった。



浮上して、氷の上に這い上がるのに、53秒かかった。


見込みより13秒遅かった。ガウスが縄を引いてくれなかったら、たぶん足りなかった。


咳き込みながら顔を上げると、氷の上に、3本の柱が立っていた。


朝日が当たって、根元が赤かった。


そして、3本目の穴から、ヤナが這い上がってきた。



「……ヤナさん!?」



トビアスが叫んだ。



彼女は、氷の上に仰向けになって、荒い息のまま、こう言った。


「……38回で、ふらつくって、言われました」


「言いました」


「だから、40回ぶんの魔力を、先に飲んでおきました」


彼女は、腰の革袋を叩いた。



中身は、竜の心臓の血で作った補助薬だった。


王都の商会が、俺の書いた6行を見て作った、新しい薬だ。


——俺の紙が。



——俺の知らないところで、繋がってる。



トビアスは、その場に座り込んだ。



そして、両手で顔を覆った。



肩が、揺れていた。


「……トビアスさん」


「すみません」


「いえ」


「すみません、これは」



彼は、顔を覆ったまま言った。



「私の師は、これを追いかけて死にました」



「40年、水をやった人でした。上級の水は必ずあると言って、湖に潜って、氷の下で見つかりました。私が19のときです」


「……」


「12年、誰も信じませんでした。あの人が莫迦だったということになっていました」


彼は、顔を上げた。



目が、真っ赤だった。



「莫迦じゃ、なかった」



「穴を、1つしか開けなかっただけだ」



俺は、そのとき、何も言えなかった。



言えることが、1つもなかった。


   ◇


その夜、ステータスウィンドウを開いた。



 Lv.452


 スキル:《氷牙の檻》



この世界で、上級魔法の使い手が、一夜で3人増えた。


そして俺は、まだ、この3人のうちの1人が、8か月後に死ぬことを知らない。

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