50.先生と呼ぶ
翌日、灰狼の詰所に呼ばれた。
団長室は、思ったより狭かった。
机が1つ、椅子が2脚、壁一面に猟場の地図。地図には、無数の書き込みがあった。
ヴィオは、俺を座らせて、単刀直入に言った。
「あの手順、金貨300枚で買う」
「……300」
「足りねえか。350まで出す」
俺は、しばらく黙った。
金貨350枚は、この街の日雇いの、4年ぶんの日銭だ。
彼女は本気だった。冗談で出す額じゃない。
「売りません」
ヴィオの眉が、片方だけ上がった。
「500」
「そうじゃなくて」
俺は言った。
「金では、売りません」
彼女は、椅子の背にもたれた。
腕を組んで、傷のある側の目を細めた。
「……条件を言え」
「1つだけです」
「言え」
「団の全員に、無料で教えること」
沈黙が、けっこう長かった。
ヴィオは、身を乗り出した。
「もう一度言え」
「団の狩り担当、全員です。正規も、日雇いも」
「日雇いもか」
「日雇いもです」
彼女は、机を指で3回叩いた。
「あんた」
「はい」
「それで、何を取るつもりだ」
——ああ。
俺は、その質問を、たぶん一生忘れない。
この人は、悪人じゃない。人を騙して金を取る人間じゃない。
だが、この人の頭の中では、価値のあるものには必ず値がついている。無料で配るという行為は、彼女の世界の物理法則に反している。
「取りません」
「取らねえ人間はいない」
「……」
「あたしは35年生きてる。取らねえと言ったやつは、後で必ず、もっとでかいものを取っていった」
俺は、そこで、何も言えなかった。
彼女は正しい。少なくとも、彼女の35年の中では正しい。
教えたのは、翌日からだった。
狩り担当、80人。
詰所の裏の空き地に集めて、地面に地図を描いた。
「猟場を7つに分けます」
北の沢の中州から下(岩狼)。
沢の岩場(岩ガニ)。
廃坑の一層目(鉄殻蟲)。
東の丘(灰爪)。
北の樹林(霜苔鹿)。
廃坑の三層(洞蝙蝠)。
街道の砂地(砂蟲)。
「班を7つ作って、7日で一巡してください」
「なんでだ」
前列の男が聞いた。
「岩狼は稼げる。ずっと岩狼でいいだろ」
「岩狼は、180体で飽いが来ます」
俺は言った。
「あなた、今日までに何体倒しました?」
「知るか。数えてねえよ」
「じゃあ、たぶん、もう来てます」
男が黙った。
「ここ半年で、稼ぎが増えてないでしょう。同じだけ働いて、同じだけ帰ってる」
「……そりゃあ」
「それが飽いです」
俺は、7つの猟場の境界値を、地面に書いた。
岩狼180。岩ガニ210。鉄殻蟲140。灰爪95。霜苔鹿300。洞蝙蝠600。砂蟲75。
書き終えて、俺は棒を置いた。
そして、こう言った。
「この数字は、今日のものです」
80人が、こっちを見た。
「明日は、変わるかもしれません。獲物が減れば変わるし、季節でも変わります。俺の数字を信じないでください」
「……じゃあ何を信じるんだ」
「自分で数えた数を」
俺は、荷から木の板を80枚出した。
宿で3日かけて削ったやつだ。
「これに、正の字を書いてください。狩ったぶんだけ」
「めんどくせえよ」
「めんどくさいです」
俺は言った。
「でも、めんどくさがった人から順に、伸びなくなります」
3週間で、結果が出た。
灰狼の狩り担当の月の収益は、金貨41枚だった。
3週間後、金貨70枚になった。
1人あたりの日銭でいうと、銅貨34枚から58枚だ。
ヴィオは、帳簿を3回めくって、それから、しばらく天井を見ていた。
「1.7倍だ」
「はい」
「あたしが10年やって、1.1倍にするのに8年かかった」
彼女は、帳簿を閉じた。
その週の終わりに、王都からの使節が街に着いた。
先頭の馬車から降りてきた大男が、俺の顔を見て、口を開けた。
——やめろ。
俺は、目で言った。
ガウスは、開けた口のまま2秒止まって、それから、こう言った。
「……はじめまして。ガウス・ベルナーだ」
俺は、心の中で拝んだ。
その後ろから降りてきた赤毛が、俺に一礼して、こう言った。
「王都から参りました、リゼット・アルマと申します。そちらの方は?」
——うますぎる。
交換は、市の書庫で行われた。
王都が出すのは3点。火の上級《紅蓮嵐》の完全版。土の上級《巌壁槍》の完全版。そして、『飽いと戻りについて』第一稿。
この街が出すのは1点。300年前の書法で書かれた、読めない紙が1葉。
書庫長が、綴りを1つずつ検分した。
3点目を開いたところで、彼は表紙をめくり直した。
「……著者が2名ですな」
「はい」
「アイリーン・ヴォルフ。王立魔術院、記録官」
彼は、もう1つの名前を読んだ。
「そして——」
俺の隣で、ヴィオが動いた。
彼女は、書庫長の手から綴りを取った。
取って、表紙を見た。
そして、懐から名簿の写しを出して、並べた。
『ノル』
『ノルン』
彼女は、その2つを、10秒くらい見ていた。
それから、俺のほうを向いて、こう言った。
「お前、名前まで手を抜いたのか」
俺は、天井を見た。
「……1文字だけ足りないほうが、忘れにくいので」
「理屈をこねるな」
彼女は、綴りを書庫長に返した。
そして、その場の全員に聞こえる声で、こう言った。
「この件、団の外には出さん」
書庫長が、目を丸くした。
「団長。これは市の記録に——」
「著者名は載せろ。顔と結ぶな」
彼女は、俺を親指で指した。
「こいつが英雄になったら、うちの日雇いが本当のことを言わなくなる」
俺は、その言葉に、少しだけ息が詰まった。
——伝わってた。
一度も説明していないことが、この人には伝わっていた。
◇
その夜、詰所の裏で、ヴィオが酒を持ってきた。
木のコップを2つ、地面に置いた。
「1つ、頼みがある」
「はい」
彼女は、酒を注いだ。
「灰狼に入れ」
「……え」
「団員だ。契約で縛らせろ」
彼女は、コップを俺のほうへ滑らせた。
「あんたが書いたあの紙で、うちの稼ぎが1.7倍になった。それは金だ。金は返せる」
「じゃあ」
「だが、あんたが死んだら、次の紙は誰も書けねえ」
俺は、コップに手を伸ばしかけて、止めた。
——これ。
——聞いたことがある。
白銀の甲冑の男が、11か月前に、まったく同じ形のことを言った。
『お前が死んだら、この世界には何も残らない』
言い方は違う。動機も違う。
だが、指してるものが、同じだ。
「タダより高いものはないって、あたしは言った」
ヴィオが言った。
「あんたの紙は、タダだ。だからこそ、書いた人間を、誰も守ってねえ」
「……」
「うちに入れば、団が守る。80人が守る。あんたが死ぬときは、80人が先に死んでる」
俺は、酒を飲んだ。
飲んでから、答えた。
「入りません」
「理由は」
俺は、そこで、詰まった。
理由は、あるのだ。
縛られたら、次に行けなくなる。北の氷原に行かなければならない。裂け目が3つ残っている。白い髪の女がいる。そして、たぶん、もっとまずいものが北にいる。
だが、そのどれも、まだ説明できない。
「……うまく言えません」
ヴィオは、鼻を鳴らした。
「そうかい」
彼女は、自分のコップを空にして、立ち上がった。
「じゃあ、当分、あんたを見張る」
そして、詰所の戸に手をかけたところで、振り返った。
「おい」
「はい」
「先生」
半分は、からかいだった。
半分は、そうじゃなかった。
◇
——そういえば。
その日、書庫の隅に、見慣れない男が1人立っていた。
東の訛りがあった。商人らしい格好で、名乗らなかった。
彼は、交換の一部始終を、最後まで見ていた。
そして、『飽いと戻りについて』の表紙を、長いこと見ていた。
俺は、そのとき、気にも留めなかった。




