47.やめどきを書く
日雇いを、8日続けた。
日当25銅貨。宿代11銅貨。パンと水で4銅貨。残りは10銅貨。
その10銅貨を、俺は毎晩、机に並べていた。
8日目の夕方、街が騒がしくなった。
北門から、荷車が2台入ってきた。
乗っていたのは4人だった。
そのうち3人が、動いていなかった。
日雇いのレンが、荷車を追いかけて走っていった。
俺も、少し遅れてついていった。
診療所は、北三区の坂の上にある。
俺は、中には入らなかった。
外の石段に座って、出入りする人間の声を聞いていた。
——地割れだ。
聞かなくても、分かった。
◇
夜になって、レンが出てきた。
俺の隣に座って、しばらく何も言わなかった。
それから、話した。
「4人で行ったんだと」
「4人」
「うちの弟の、飲み仲間だ。紙を回し読みして、4人で降りた」
俺は、膝の間で手を組んだ。
「1人が唱えて、倒れたら次が代わって唱えた」
「……代わった?」
「そうだ。そうすりゃ途切れねえだろ、って」
俺は、目を閉じた。
——違う。
契は、その人間が唱えた回数を数える。
4人で分けたら、1人あたり20回だ。81回には、誰も届かない。
つまり彼らは、成立しようのないことを、9時間やり続けた。
「1人は」
俺は聞いた。
「戻ろうとしませんでしたか」
レンが、こっちを見た。
「……なんで分かる」
「いえ」
「1人が、途中で上がろうって言ったんだと」
彼は、石段を靴で擦った。
「そしたら、ほかの3人が言ったらしい。ここで戻ったら、レンの弟みたいに笑われるぞ、って」
俺は、その言葉を、飲み込むのに時間がかかった。
「その4人目の人は」
「右手だ」
レンが、自分の右手を握って開いた。
「岩を掴んで這い上がったんだと。指が2本、残らなかった」
診療所の中から、誰かの泣く声がした。
俺は、立ち上がろうとして、座り直した。
——名乗り出るか。
その考えが、たしかに1回、頭を通った。
俺があの手順を書いた人間で、正しい形はこうで、前提が3つあって、と説明すればいい。この街の露店で売っている1行は不完全で、王都の完全版はまったく別のものだ、と。
竜殺しのノルンが言えば、明日には街中に回る。
だが。
俺は、レンの横顔を見た。
——この人は、俺に本当のことを言った。
弟が39回で戻ってきたこと。それを自分が「情けねえ」と笑ったこと。その言葉が、8日後に、4人の背中を押したかもしれないこと。
日雇いのノルにだから、言ったんだ。
竜殺しのノルンが隣に座っていたら、この人は何と言っただろう。
——「あいつらが下手だったんでしょうな」。
たぶん、そう言う。
俺は、立たなかった。
◇
その夜、宿の部屋で、紙を広げた。
蝋燭を3本使った。
書いたのは、章1つだ。
題は、迷わなかった。
『やめどき』
書きながら、俺は自分がずっと間違えていたことに気づいた。
俺は、前提を書いた。3つ書いた。
だが、前提を書いても、入口を厳しくしただけだ。
入ったあとに、どこで引き返せばいいのかを、俺は1行も書いていない。
ゲームでは、引き返す必要がなかった。
失敗したら、その場でやり直せばいい。死んでも、街に戻るだけだ。
引き返す、という概念そのものが、あのゲームには実装されていなかった。
朝までに、書き上げた。
『やめどき
一、この手順は、途中でやめてよい。
やめた者は、失敗していない。やめることは、この手順の一部である。
二、次のいずれかが起きたら、その場で上がること。回数は問わない。
・声が出しにくくなり、水を飲んでも戻らないとき。
・自分の唱えた回数が、数えられなくなったとき。
・手のひらの皮が、白く浮いたとき(熱が骨まで届いている)。
・「あと少しだ」と思ったとき。これがいちばん危ない。
三、複数人で分けて唱えても、契は成立しない。
契は「その人間が唱えた回数」を数える。4人で81回は、1人20回である。
四、途中でやめて戻った者を、笑ってはならない。
笑われた者は、次に戻れなくなる。戻れなかった者は、帰ってこない。
この一項は、手順ではない。だが、手順と同じだけ人を殺す。』
書き終えて、俺は署名の場所で、ペンを止めた。
名前を書けば、信用される。
書かなければ、たぶん、便所紙になる。
俺は、書かなかった。
代わりに、末尾に、別の3行を足した。
『※この紙を信じる必要はない。次の3つを、運び込まれた者と照らせ。
・右手の火傷は、親指の付け根の外側から始まっている。
・4人のうち1人は、35回から45回のあたりで一度やめようと言っている。
・全員、地割れの底で水を飲み干している。水筒は空のはずだ。
合っていたら、読め。合っていなかったら、捨てろ。』
朝5時、北門へ行く前に、俺は灰狼の詰所の窓口に、その紙を差し込んだ。
◇
翌日の夕方、狩りから戻ると、詰所の前に人が集まっていた。
30人以上いた。
そのど真ん中に、ヴィオが立っていた。
彼女は、俺の書いた紙を持っていた。
「読み上げろ」
彼女は、若い団員に紙を渡した。
団員が、震える声で読んだ。
一、この手順は、途中でやめてよい。
やめた者は、失敗していない。
読み終わるまで、誰も喋らなかった。
「照らしたか」
ヴィオが言った。
「照らしました」
医者の助手らしい男が答えた。
「火傷は、親指の付け根の外側から始まっています。3人目の証言では、41回のあたりで一度やめようと言った者がいたそうです」
「水筒は」
「4つとも、空でした」
ヴィオは、しばらく黙っていた。
それから、紙をもう一度見て、こう言った。
「効率の本に、効率を捨てろと書いてある」
彼女は、紙を掲げた。
「これは、信用できる」
俺は、人だかりのいちばん後ろにいた。
日雇いの列の、後ろから3人目だ。
ヴィオは、紙を折って、懐に入れた。
そして、こう言った。
「これを書いたやつを、探す」
30人が、ざわついた。
「団長、王都の使いじゃねえのか」
「王都なら、名前を書く。名前を書かねえ理由がある人間だ」
彼女は、人だかりを見渡した。
俺は、うつむいて、靴の先を見ていた。
彼女の視線が、こっちを1回、通った気がした。
止まりはしなかった。
◇
その夜、日雇いたちと安酒場に行った。
こういう場所に行くのも、仕事のうちだ。舐められている人間のところにしか、本当の話は落ちてこない。
酒が3杯目になったころ、話が北へ流れた。
「サルヴの婆さんが言ってたぞ。また来てるってよ」
「白いのか」
「白い。髪が真っ白で、若い女だ」
俺は、木のコップを、口の高さで止めた。
「化け物じゃねえのか。岩熊を5頭、素手で吹っ飛ばしたって話だろ」
「素手じゃねえ。火と土が、同時に落ちてきたんだと」
「んなもんあるか」
「あるから言ってんだよ」
——火と土が、同時に。
混合魔法だ。
この世界の人間には、絶対に組めない。
「で、その化け物が何しに来てんだ」
そこで、いちばん年寄りの日雇いが、こう言った。
「字を教えてる」
俺は、コップを置いた。
「……字?」
「読み書きだ。サルヴの子供に」
「……いつから」
「あの女がサルヴに顔を出すようになって、かれこれ2年半だ。最初は、ただ通り過ぎるだけだった」
年寄りは、酒を舐めた。
「去年の秋に、南から子供を11人連れてきた。荷馬車1台にぎゅう詰めにしてな」
「南から」
「竜に村を焼かれたガキだ。親のいねえのばっかり」
俺は、コップを持つ手を、動かさないようにした。
「なんで、こんな北まで」
「知るか。あの女が連れてきたんだ」
年寄りは肩をすくめた。
「それから字を教えだした。8か月ってとこかな」
「……9か月」
「魔法は教えねえらしい。一回も」
◇
俺は、その夜、宿へ戻る道を、遠回りした。
頭の中で、像が2つ、ぶつかっていた。
1つは、岩熊を5頭吹き飛ばして消えた、名前も分からない何か。
もう1つは、板を持って、子供に字を教えている女だ。
——同じ人間なのか。
俺には、どちらの像も、まだ顔がなかった。




