45.灰の門
ヴェルンハイムの城壁は、灰色だった。
高さは王都の半分もない。だが分厚い。上を歩ける幅がある。
そして、掲げられている旗が、王国のものではなかった。
灰色の地に、狼の横顔。
傭兵団『灰狼』の紋章だ。
この街に、王国軍はいない。
人口8万。北の交易の集積地で、王国とは税でも法でも縁が薄い。治安は市参事会が金を出し、灰狼が請け負っている。
王都の英雄譚は、ここでは「王国の宣伝」として値引きされて届く。
門の前に、20人ほどの列があった。
俺は、いちばん後ろについた。
順番が来て、書記官が名簿を回してきた。
羽根ペンを渡される。
『氏名』
俺は、1拍だけ止まった。
——ノル。
書いた。
『格』
——D。
書いた。
嘘を書いた、という感覚が、指に残らなかった。
この世界には、格の表示がないからだ。
俺の格を知る方法は、俺が言うか、俺が動くかしかない。それ以外の経路が、この世界には存在しない。
ゲームでは、《無銘》という称号を使っていた。付けている間、他人から見た俺のレベル表示が「??」になる、それだけの称号だ。実装当時は不評で、使っているやつはほとんどいなかった。
俺は、3年半、一度も外さなかった。
そして、この世界に落ちた日に、それは消えていた。
——道具を取り上げられたのに、世界のほうが隠してくれてる。
笑うところなのか、そうじゃないのか、俺はまだ決めかねている。
「北から来たな」
書記官が、名簿を見ながら言った。
「通行税は3倍だ。銀貨6枚」
俺は、顔を上げなかった。
代わりに、列を見た。
俺の前に、6人が通っていた。
そのうち銀貨を出したのは、2人だ。
1人は、痩せた行商人。荷は小さい。
もう1人は、若い女の二人組。
払わなかった4人は——
大柄な傭兵風の男。腰に剣が2本。
灰狼の紋章を提げた小隊。
派手な馬車の主。
そして、書記官と同じ訛りで喋った老人。
——ああ。
基準は「北から来たか」じゃない。
揉めなさそうな相手かだ。
「あの」
俺は言った。
「その3倍って、何の条文ですか」
「規程だ」
「規程の、何章の何条ですか」
書記官の眉が、動いた。
「……そういうことを聞くやつじゃないと思ったが」
「よく言われます」
俺は、荷から3銅貨を出した。
市の書記局は、門を入ってすぐの建物にある。
そこで『市参事会規程』の写しを売っている。3銅貨。誰も買わない。分厚くて、字が細かくて、読んでも得をしないからだ。
俺は、王都を出る前に、それを1冊買っていた。
——攻略情報じゃない。
ゲームの知識でもない。
ヴェルンハイムの税制なんて、『ルーンヴェルト・オンライン』のどこにも実装されていない。この街は、ゲームでは中盤の拠点で、宿と鍛冶と依頼掲示板があるだけだった。
だが俺は、運営が公式ページに置いた世界設定資料を、全部読むタイプの人間だった。
誰も読まない細かい文章を読むのは、癖だ。
俺は、綴りを開いた。
門の前で、声に出して読んだ。
「第4章第11条。通行税は、荷1駄につき銀貨2枚。人には課さない」
列が、少し静かになった。
「俺の荷は、背負袋1つです。1駄に届きません。第12条の但し書きに、『背負い得る量は課税対象外』とあります」
「……」
「3倍という記述は、第7章第3条にあります。疫病の流行が市参事会で宣言された期間に限り、北門からの入市者に隔離費として3倍を課す」
俺は、顔を上げた。
「今、疫病、出てますか」
書記官は、何も言わなかった。
列のどこかで、誰かが笑った。
1人笑うと、あとは早い。荷車の男が笑って、二人組の女が笑って、老人が声を出して笑った。
俺は、銅貨を8枚だけ置いた。
正規の入市手数料だ。
「あと、さっきの二人にも、返してあげてください」
「……」
「第7章第3条の宣言、市の掲示板に出てないですよね。出てないと、その条文は起動しません。第1章第2条」
門をくぐるとき、後ろで書記官が銀貨を数え直す音がした。
——剣、抜かなくてよかった。
抜いたら、負けだ。
抜けば「格の高い男」になってしまう。
俺がここへ来た目的は、格の低い男でいることだった。
そのとき、門の内側の柱に、人が凭れているのに気づいた。
女だった。
背が高い。35くらい。左目の上から頬まで、白い古傷が縦に走っている。灰色の外套の下に、狼の紋章。
彼女は、腕を組んで、ずっとこっちを見ていた。
目が合った。
彼女は、傷のある側を歪めて笑った。
「面白いもん見せてもらった」
「……どうも」
「あんた、名は」
「ノルです」
「格は」
「Dです」
彼女は、少し首を傾げた。
「Dねえ」
「Dです」
「ふうん」
彼女は、それ以上聞かなかった。
代わりに、親指で街の奥を指した。
「灰狼のヴィオだ。この街で揉めたら、うちが来る。覚えとけ」
宿は、南三区の井戸の裏に取った。
◇
この街に宿は5軒ある。ゲームでも5軒だった。
そのうち南三区の1軒だけが、朝5時に扉を開ける。北の猟場へ出る連中に合わせているからだ。ほかの4軒は7時だ。
日雇いに出るなら、この宿しかない。
宿代、一泊11銅貨。王都より高い。
荷を置いて、市場へ出た。
◇
市場で、俺は1つだけ買い物をした。
凍み茸。乾かした灰色のキノコで、袋いっぱいで7銅貨。安い。誰も買っていない。
この街の連中は、これを「味のない出汁がら」だと思っている。
——2か月後に、これは18倍になる。
凍み茸は、寒さが厳しくなると採れなくなる。そして北の猟場に出る傭兵は、これを携行食の増量剤に使う。冬が深くなるほど需要が上がり、供給が止まる。
俺は、持ち金の半分を茸に替えた。
——生活費だ。
日雇いをやるなら、日銭は少ないほうがいい。だが、飢えるのは困る。
市場を出たところで、俺は足を止めた。
露店が1つ、紙を売っていた。
『王都直伝 上級魔法の秘伝 銀貨3枚』
俺は、そこへ行った。
1枚買った。
読んだ。
『地割れの底にて、土の中級を81回、絶やさず唱えよ。』
それだけだった。
1行だ。
俺が書いた前提3つは、1つも載っていなかった。
最大魔力も、詠唱耐性も、息の継ぎ方も、載っていない。
注意書きの1行もない。
「これ、何枚売れました?」
俺は、露店の親父に聞いた。
「先週から40枚くらいかな」
「40」
「よく売れるよ。北のほうから来たやつが、まとめて10枚買ってった」
親父は、次の1枚を袋から出しながら、機嫌よく続けた。
「知ってるか。これ、王都の魔術院が本当にやって、3人が使えるようになったんだと。300年ぶりだとよ」
「……知ってます」
「この街にも、届いたのが1人いるって話だ。名前は知らねえけどな」
俺は、もう1つだけ聞いた。
聞かないほうがいい、と分かっていた。
「その紙で、死んだ人って、います?」
親父の手が、止まった。
「……ああ」
彼は、袋の口を閉じた。
「北三区の、水汲みんとこの倅だ。地割れまで行って、丸二日戻らねえもんで、探しに行ったら底にいた」
「……」
「そういや、うちで買ってったな。先月」
親父は、少し黙って、それから肩をすくめた。
「まあ、あいつが下手だったんだろ。紙のとおりにやりゃいいだけなんだからよ」
俺は、紙を握ったまま、その場に立っていた。
40枚。
——じゃあ、この街では、もう。
俺は、露店の親父の顔を見た。
もしここで俺が「俺がその手順を書いた人間だ」と名乗ったら。
竜殺しのノルンだと名乗ったら。
——この人は、俺に本当のことを言わなくなる。
「……もう1枚ください」
「ありがとよ」
宿へ戻る途中、路地の角で、赤毛の女とすれ違った。
彼女は、俺の顔を見て、目を丸くして、それから、まったく知らない人間の顔をした。
見事だった。
すれ違いざま、口の動きだけで、彼女は言った。
——ひ・る・め・し。
——お・ご・り。
俺は、下を向いて笑うのを、けっこう頑張って我慢した。
宿に戻って、掲示板を見た。
『灰狼 狩り班 日雇い募集
朝5時 北門集合
日当 銅貨25枚 弁当なし
格D以上 武器持参』
——格D以上。
俺は、その紙を、指で1回叩いた。




