44.北へ発つ朝
出発までに、19日かかった。
交換材料の写本を、アイリーンが作らなければならなかったからだ。
「向こうが欲しがるのは、王国が持っていて、あの街が持っていないものです」
彼女は、そう言って3点を選んだ。
火の上級《紅蓮嵐》の取得手順の完全版。土の《巌壁槍》の完全版。そして『飽いと戻りについて』第一稿。
「……手順、渡すんですか」
「あなたが書いたものです。嫌なら外します」
「いや」
俺は言った。
「前提が付いてるなら、いいです」
19日のうち、9日を狩りに使った。
竜骨山脈の裏の2つが、ちょうど戻っていた。9体と9体で18体。
Lv.433
出発の前の日、俺はグレイスに呼ばれた。
彼女は、完全版の原稿を読み終えていた。
「前提が3つ、手順が1行」
彼女は言った。
「前提のほうが長い書き物を、わたしは初めて読みました」
「……読みにくいですか」
「読みにくいです」
彼女は即答した。
「読みにくいものは、読まれません。読まれないものは、守られません」
俺は、そこで詰まった。
「じゃあ」
「短くしなさい、とは申しません」
グレイスは、杖の頭に手を重ねた。
「短くすれば、また7人出ます。長ければ読まれません。どちらも正しく、どちらも人が死にます」
「……どうすれば」
「わたしは知りません」
彼女は、少しだけ笑った。
この人が笑うのを、俺は初めて見た。
「78年生きて、知らないことのほうが多いのです。ですから、こう申し上げます」
「あなたは、これから何度もこの選択をします。そのたびに、どちらかの人が死にます。それを数えていられますか?」
俺は、答えなかった。
答えるべきじゃないと思った。
セシルとは、門の外で話した。
「私は王都に残ります」
彼女は言った。
「アイリーンさんと、第一稿を第二稿にします。読みにくいところを、全部つぶします」
「……助かります」
「あなたのためではありません」
彼女はローブの袖を引いた。
「読みにくい紙で死ぬ人がいるなら、それは書き手の罪です。私は、それを直せる位置にいます」
ガウスとリゼは、北へ来る。
ただし、俺とは別に入る。
「俺が先に、一人で入ります」
宿の一階で、俺はそう言った。
「二人は、王都の使節としてあとから来てください。写本を運ぶ役です。それなら、堂々と正面から入れます」
「お前はどうすんだ」
ガウスが聞いた。
「日雇いで入ります」
「……あ?」
俺は、二人に説明した。
◇
北方交易都市ヴェルンハイムは、王国の街じゃない。傭兵団が治安を握っている商業自治都市だ。
王都の英雄譚は、あの街では「王国の宣伝」として値引きされて届く。竜を殺したのが7人のうちの誰かだ、という程度の話しか行っていない。
顔は、伝わっていない。
「だから、名乗らずに入ります。名前は『ノル』で通します。格の欄には、Dと書きます」
「嘘つくのか」
「嘘じゃないです。この世界では、他人の格は見えません」
——ここが、いちばん大きい。
ゲームでは、俺は称号《無銘》でレベル表示を隠していた。あれがないとバレるからだ。あの称号は、この世界に来た日に消えていた。
だが、消えていて構わなかった。
この世界には、そもそもレベル表示がない。
俺の格を知る方法は、俺が言うか、俺が動くかしかない。
——隠す道具を失ったのに、世界のほうが隠してくれている。
そう気づいたとき、俺は笑うべきなのか分からなかった。
「で」
ガウスが、腕を組んだ。
「なんで隠すんだ」
俺は、そこで、初めて口に出した。
「英雄として入ったら、誰も本当のことを言わなくなるからです」
「北の連中は、もう手順を使ってます。土の手順は院から漏れて、写しが北まで回ってる。使ってるってことは、もう誰か死んでます」
「……」
「でも、俺が竜殺しとして入ったら、そいつらは俺の前でこう言います。『自分が下手でした』って」
ガウスが、目を伏せた。
俺は、その言葉を、1年前に聞いている。
診療所のベッドの上で、左脚を潰した14歳から。
「だから、舐められに行きます」
俺は言った。
「舐められてないと、本当のことは聞けません」
リゼが、鼻を鳴らした。
「ノルンさん」
「うん」
「それ、けっこうかっこいいこと言ってるつもりですよね」
「……つもりはないけど」
「顔に出てます」
彼女は、俺の胸を人差し指で押した。
「わたし、先に街の中で待ってます」
「え」
「使節なんて堅苦しいの、ガウスさんだけで足ります。わたし、弓使いですから、ひとりで宿くらい取れます」
「いや、あの」
「日雇いのノルさん」
彼女は、にやりと笑った。
「街で会ったら、他人のふりしますね。でも、飯には誘います」
◇
北へ発つのは、翌朝だった。
だが俺は、その前に、半日だけ道を外れた。
ステインに寄った。
1年ぶりだった。
石畳も、井戸も、噴水の位置も、変わっていなかった。ただ、俺が最初にここへ来た日より、屋台が3つ増えていた。
ギルドの掲示板の前に、人だかりがあった。
掲示板の右半分は、依頼票だ。
左下に、新しい枠があった。
『たしかめたこと』
紙が、貼ってあった。
俺は数えた。
31枚。
去年、トトの手紙で「11枚」と書いてあった枠だ。
3倍に増えていた。
字は、全部ばらばらだった。上手いのも下手なのもある。名前が入っているのもあれば、ないのもある。
『北の沢のヌシは、雨の翌日は上がってこない。4回ためして4回そうだった』
『赤斑のキノコ、火を通せば食える。3人で食って3人とも平気だった。生はだめ。俺が吐いた』
『青灰色の葉は、やけどにきく。3かいためして3かいきいた』
3枚目の字は、下手だった。
見覚えのある下手さだった。
「ノルンさん」
後ろから、声がした。
振り返ると、トトがいた。
背が伸びていた。
去年、診療所で泣いていたときより、頭ひとつ分。声も変わっていた。
杖は、持っていなかった。
「歩けるようになったって、手紙に」
「はい。走るのは、まだ下手ですけど」
彼は、左脚を少し引きずって、こっちへ来た。
引きずってはいるが、歩いていた。
「北へ行くって、ギルドで聞きました」
「うん」
「どのくらいですか」
「分からない。1年か、2年か」
俺は、そこで、言いかけた。
——来るか。
言おうとした。
口を開けた。
トトのほうが、先に言った。
「ぼくは、ここで自分の分をやります」
「……そっか」
「はい」
彼は、掲示板の左下を指した。
「あの枠、ぼくが管理してます。貼る前に、必ず聞くんです。『何回ためしましたか』って」
「厳しいな」
「3回未満は貼らせません。1回でうまくいったことは、たまたまかもしれないので」
俺は、その言葉を、しばらく噛んでいた。
「トト」
「はい」
「新人には、なんて教えてる」
彼は、少し考えた。
「答えは、言わないです」
「うん」
「行き先を聞かれても、『お前が決めろ』って言います。危なそうなときだけ、黙ってついていきます」
彼は、少し笑った。
「ノルンさんのやり方、真似してます」
俺は、頷いた。
頷くのが、精一杯だった。
馬車に乗ってから、袖で顔をこすった。
御者が何も言わなかったので、たぶんバレていた。
◇
東部高原を抜けるのに、6日かかった。
道中、雷角の大鹿を44体狩った。
飽いは45で来る。だから44で切り上げた。
Lv.435
◇
7日目の夕方、街道の先に、灰色の城壁が見えた。
ヴェルンハイム。
俺は、外套のフードを深くかぶった。
そして、入市名簿に書く名前を、口の中で1回練習した。
——ノル。
——格は、D。




