41.飽いと戻り
前提を書き足した手順書を、俺はアイリーンのところへ持っていった。
彼女は地下三層の机で、それを3回読んだ。
そして、こう言った。
「これは、院の書式に載りません」
「なんでですか」
「言葉がないからです」
彼女は、俺の紙の一箇所を、インクで黒い指で押さえた。
『※2000に満たない者への代替手順は、末尾に別記した。』
「この『2000』とは、何ですか」
「最大魔力です」
「魔力に、数はありません」
「……あります」
「誰にも見えません」
俺は、そこで、初めてまともに詰まった。
見える。俺には見える。
ステータスウィンドウを開けば、MP12800/12800と書いてある。
だが、この世界の人間には見えない。
彼らが持っているのは「魔力が多い術師」「少ない術師」という言い方だけだ。
「同じ問題が、あと3つあります」
アイリーンは、紙の別の場所を指した。
「この『同じ獲物を狩り続けると伸びが落ちる』という記述。この現象には、名前がありません」
「……ないんですか」
「ありません。名前がないものは、記録できません。記録できないものは、院の書式に載りません」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「わたしは11年、名前のないものを、名前がないまま抽斗にしまってきました」
「じゃあ」
俺は言った。
「作りましょう」
「何をですか」
「名前を」
作業は、5日かかった。
俺の頭の中にある概念に、この世界の言葉を当てていく。
俺が「討伐習熟度」と呼んでいたもの。同じ種類の獲物を一定数狩ると、そこから得られるものが段階的に減る現象。
アイリーンは、俺の説明を3回聞いて、こう提案した。
「飽い、では」
「あい」
「飽きる、の名詞形です。古語では『飽ふ』。満ちて、それ以上入らない、という意味です」
——飽い。
俺は、その音を、口の中で転がした。
3年半、俺はそれを「飽き補正」と呼んでいた。掲示板で誰かが言い出した言葉で、正式名称ですらなかった。
「いいと思います」
「では、次を」
倒した獲物が、一定の時間で同じ場所に再び現れること。俺が「リポップ」と呼んでいたもの。
「戻り」
「即答でしたね」
「これは簡単です。潮が戻る、と同じです」
スキルが生える条件。俺が「取得条件」と呼んでいたもの。
これには、彼女は半日かけた。
そして、こう言った。
「契」
「……重くないですか」
「重いです。ですが、正確です」
彼女は言った。
「条件を満たした者に、世界の側が応じる。約束が先にあって、あとから履行される。これは契です」
レベルは、そのまま「格」にした。この世界にもとからある言葉だ。
5日目の夜、訳語の一覧ができた。
飽い —— 同種の獲物から得るものが逓減する現象
戻り —— 倒した獲物が再び現れるまでの間
契 —— 技能が生える条件
格 —— 力量の段階
アイリーンは、それを清書して、灯りの下でしばらく見ていた。
そして、言った。
「……美しい」
俺は、その言葉に、なんと返せばいいのか分からなかった。
3年半、俺はこれを一人で持っていた。
掲示板の書き込みと、攻略サイトの表と、頭の中のメモで持っていた。
誰かが「美しい」と言ったのは、初めてだった。
「ですが」
アイリーンが、清書を置いた。
「名前をつけただけでは、載りません」
「まだ足りないんですか」
「その現象が実在することを、示さねばなりません」
「わたしは記録官です。記録に載せるには、記録で示すのが筋です」
彼女は立ち上がった。
「冒険者ギルド本部の昇格記録を、貸してもらえますか」
◇
翌日、俺たちはギルド本部の二階にいた。
ドロテアが口を利いてくれた。過去5年ぶんの綴りが、10冊出てきた。
王都登録の冒険者、2847人。そのうち、登録から1年に満たない698人を外して、2149人を対象にした。
アイリーンの手が速かった。
彼女は依頼の受注履歴から、各人が「どの猟場に、何日通ったか」を拾って、2本の柱に振り分けていった。
3日で、数字が出た。
『1年のうちに猟場を3回以上替えた者——219人。
うちCランク以上に到達——141人(64.4%)。
替えなかった者——1930人。
うちCランク以上に到達——88人(4.6%)。』
アイリーンは、その2行を書いた紙を、長いこと見ていた。
「……14倍です」
「そうですね」
「猟場を替えるだけで、14倍」
「替えるだけじゃないです。替える時期です」
俺は、そこを訂正した。
「早く替えすぎても駄目なんです。飽いが来る手前まで狩って、来る前に移る。それがいちばん伸びる」
「その『手前』は、どうやって知るのですか」
——俺は暗記している。
とは、言えなかった。
だから、代わりにこう言った。
「知らなくても、示せます」
「どうやって」
「当てます」
ギルドの掲示板前で、俺は12人を選んだ。
東門外の丘で、鉄嘴鴉ばかり狩っている連中だ。全員Eランク。半年以上、同じ場所に通っている。
俺は彼らに、今日までに何羽獲ったかを聞いた。数えていた者は3人しかいなかったが、羽根の買い取り票が残っていたので、書記が数えてくれた。
鉄嘴鴉の飽いは、150羽で来る。
12人の累計は、82羽から134羽の間に散らばっていた。1日の平均は、およそ3羽。
俺は、12人ぶんの残りを割って、日付を書いた。
『この者たちの伸びは、以下の日に止まる。
ベル——6日後
ハウ——8日後
ドナ——9日後
……(以下略)
いちばん遅いカイで、23日後。』
「止まる、とは、どう分かるのですか」
「格試しの点で分かります」
ギルドは月に一度「格試し」をやる。木札に打ち込みを入れて、回数と食い込みの深さを記録する。ただの目安だが、5年ぶんの記録が残っている。
「この12人の点は、今まで毎月伸びてます。伸びが、書いた日を境に止まります」
「12人ともですか」
「たぶん、11人です」
俺は言った。
「カイだけは、途中で猟場を替えると思います。あいつ、先週から西の沢の話をしてました」
◇
25日後。
格試しの記録が出た。
11人の点が、止まっていた。
止まった月が、俺の書いた日付と、全員一致していた。
そしてカイだけが、伸びていた。
彼は3週間前に、西の沢へ移っていた。
ギルドの二階が、静かになった。
書記が、記録を持つ手を下ろせずにいた。ドロテアが階段の手すりに寄りかかって、火傷の腕を組んでいた。
アイリーンは、記録の紙を胸に抱えて、動かなかった。
彼女が最初に言ったのは、これだった。
「ノルンさん」
——「様」が、取れていた。
「これは、載ります」
彼女は言った。
「載せます。わたしが載せます」
◇
その夜、宿の一階で原稿を整理していると、扉が開いた。
白銀の甲冑ではなかった。黒い外套で、剣は腰に吊っていた。
レイン・アシュフォードだった。
彼は、何も言わずに向かいに座り、俺の手元の紙束を指した。
「読んでいいか」
「どうぞ」
彼は、20分読んだ。
一言も喋らなかった。
読み終わって、紙束を揃えて、机に置いた。
そして、言った。
「それが答えか」
俺は、頷いた。
「近道屋」と呼ばれてから、10か月になる。
「お前が死んだら、この世界には何も残らない」と言われてから、7か月だ。
これが、俺の返事だった。
レインは、しばらく紙束を見ていた。
それから、こう言った。
「よくやった」
俺は、少し、息を吐いた。
「だが」
レインは、俺の目を見た。
「書いた者が死ねば、書けなかったことは消える」
「……」
「お前がこの5日で書いたのは、何枚だ」
「……40枚くらいです」
「頭の中には、何枚ある」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
——何千枚だ。
レインは、立ち上がった。
「取り消しはしない。俺は今日も、同じ話をしている」
彼は外套の襟を直した。
「間に合わないと言っている。それだけだ」
扉が閉まったあと、俺は紙束を見ていた。
40枚。
そこへ、リゼが階段を降りてきた。
彼女は俺の後ろから紙束を覗き込んで、しばらく黙って、それからこう言った。
「わたしの名前、どこですか」
「え」
「これ、あなたの持ってるもの全部でしょう。わたし、入ってないんですか」
俺は、束のいちばん後ろをめくった。
「……索引に」
リゼは、俺の後頭部を、丸めた紙で叩いた。
「そういうところですよ」
彼女は俺の隣に座って、40枚の束を、いちばん上から順に読みはじめた。
読みながら、時々、鼻で笑った。
「ここ、分かりにくいです」
「どこ」
「ここ。『魔力が2000』って、わたし読んでも分かりません」
俺は、そこに印をつけた。
その印が、あとで役に立つことになる。
だが、そのことに気づくのは、ずっと先だ。




