38.禁書庫の記録官
翌朝、俺は王立魔術院の受付にいた。
セシルの処分を取り消してもらう方法を聞きに来た。
受付の職員は、俺の顔を見て、竜殺しに向ける顔をして、それから台帳をめくって、こう言った。
「前例がございません」
「前例がないと、取り消せないんですか」
「取り消しには前例が要ります。処分には要りません」
「……逆じゃないですか」
「規則がそうなっております」
俺は、しばらく黙った。
それから聞いた。
「じゃあ、前例を探せばいいんですね」
「はい」
「どこに行けば探せますか」
職員は、少し困った顔をして、床を指した。
「地下です」
◇
地下は、三層あった。
一層目は学生が使う書庫だ。明るくて、机があって、人がいる。
二層目は保管庫。人はいない。
三層目に降りる階段には、鎖が張ってあった。
鎖の向こうに、灯りが1つだけついていた。
「立ち入り許可証を」
声が、下から来た。
俺が鎖をまたぐ前に、だ。足音を聞かれた覚えはない。
「持ってません」
「では、お引き取りを」
「セシル・ウェインの処分を取り消す前例を探しています」
「では、なおのこと、お引き取りを」
灯りが近づいてきた。
眼鏡をかけた女だった。20代前半。背が低い。灰色の作業着に、袖当てをして、指先が全部インクで黒い。
「記録官のアイリーン・ヴォルフです」
彼女はそう言って、俺の顔を見た。
竜殺しに向ける顔を、しなかった。
「あなたが誰かは存じております。ですが、地下三層の閲覧規則に、竜を殺したかどうかという項目はございません」
——ああ。
俺は、ちょっと嬉しくなった。
宿の主人にも、商会の代表にも、この5か月で会わなかった顔だ。
「じゃあ、質問だけいいですか」
「1つだけ」
「三百年前に、空を裂いた英雄がいたって聞きました。あれ、記録は残ってるんですか」
アイリーンの手から、羽根ペンが落ちた。
そこから10分、俺は一言も喋れなかった。
「残っております残っておりますが写本ではございません原本です院が保管しているのは総計で4葉、うち2葉は炭化していて読めませんまともに読めるのは第一葉だけです、第三葉は隅に3行だけ残っております、第二葉は三百年前の時点で既に欠落しております! 一般には『英雄譚』と一括りにされていますがあれは詩ではなく記録です、日付が入っているんですよ、日付が! 詩に日付を入れる馬鹿がどこにおりますか!」
——早口だ。
「あの」
「はい」
「見せてもらえますか」
「立ち入り許可証を」
「持ってません」
「……」
彼女は、鎖を外した。
「わたしが同伴すれば規則上は問題ありません。いま思い出しました」
◇
地下三層は、寒かった。
息が白い。それが正しいのだと彼女は言った。紙は乾いた寒さでいちばん長持ちする。ここは冬でも火を入れない。
書架ではなく、石の抽斗が壁一面に並んでいる。腰の高さから天井まで、番号が振ってある。彼女の机は部屋の真ん中に1つだけあって、その上に、書きかけの目録と、手袋と、齧りかけの黒パンが置いてあった。
——この人、ここで飯を食ってる。
「300年前の英雄については」
俺が言いかけると、彼女はもう抽斗を引いていた。番号を見ていない。
平たい箱が出てきた。
箱の中に、羊皮紙が2葉。
俺は、それを見た。
読めない文字だった。
——当たり前だ。
俺がこの世界の文字を読めるのは、たぶん、ノルンというキャラクターの体についてきた機能だ。だが、これは今の言葉じゃない。
「読めません」
「当然です。300年前の書法です。読める者は院に3人、大陸で7人ほどかと」
「読んでもらえますか」
「読み上げるだけなら」
彼女は、指を紙の上に置いて、読んだ。
『——三の月、十一の日。
英雄、空を裂きて、山ひとつを退けたり。
刃は面ならず、線なりき。
かの者、三たび息を継ぎ、四たび目に放てり。
音は、後より来たれり。』
俺は、そこで一度、目を閉じた。
「ノルン様?」
「……ちょっと待ってください」
——刃は面ならず、線なりき。
火の上級《紅蓮嵐》は、面だ。渦を作って、範囲ごと焼く。俺が火山の祭壇で覚えて、岩壁を消したやつだ。あれは線にならない。
線で走る上級は、四元素で1つしかない。
風の《断空》。
——かの者、三たび息を継ぎ、四たび目に放てり。
これが、決め手だった。
《断空》の詠唱は、4節構成だ。1節ごとに息を継ぐ。3回継いで、4節目で放つ。
火は6節。水は5節。土は3節。
4節は、風しかない。
——音は、後より来たれり。
《断空》は、音より速く走る。ゲームでは「発生0.4秒・着弾判定即時・効果音は0.9秒遅延」という、実装の都合みたいな仕様だった。
だが、この世界では、実装の都合じゃない。
先に山が割れて、あとから音が来たということだ。
俺は、目を開けた。
「一つ確認していいですか。これ、通説では何だと思われてるんですか」
「火です」
アイリーンは即答した。
「300年、火とされております。理由は2つ。『山ひとつを退けた』という規模から、火以外に考えられないこと。そしてもう1つは——」
彼女は、少し口ごもった。
「英雄の名が、伝承では『赫の』と呼ばれているからです。赤い、という意味の古い接頭です」
「赤いから火」
「はい」
「……それ、髪の色かもしれないですよね」
「そんなことは、誰も」
彼女はそこで止まった。
「……誰も、言ったことがありません」
「風です」
「は」
「その英雄が使ったのは、火じゃない。風の上級《断空》です」
アイリーンは、俺を見た。
眼鏡の奥で、瞳孔が開いていた。
「……根拠を」
「3つあります」
俺は、指を折って説明した。
面ではなく線であること。息継ぎが3回で4節であること。音が後から来たこと。
3つとも、あの5行に書いてある。
説明が終わっても、アイリーンは動かなかった。
彼女は羊皮紙を見て、俺を見て、また羊皮紙を見た。
そして、こう言った。
「……三百年、誰も特定できなかったものを」
「はい」
「いま、二十数える間に」
彼女は、抽斗の縁を掴んだ。
膝が抜けたのを、そこで支えた。
「わたしは、11年これを読んでおります」
「はい」
「11年、この5行を、毎年、春に読み返しております」
「……はい」
「なぜ、あなたには分かるのですか」
俺は、答えられなかった。
——高2の、春だった。
《断空》の詠唱節数を数えたのは、俺だ。
日本サーバーの誰も気にしていなかった。節数なんて、詠唱の途中でキャンセルするときにしか使わない情報だからだ。
俺は、それを検証して、掲示板に書いた。
『風上級、4節。火6/水5/土3。詠唱キャンセルの入力タイミング表を貼っておく』
深夜の2時だった。
翌日、返信が3件ついた。「乙」「助かる」「暇人かよ」。
その3件で、俺は満足していた。
——あのころの俺も。
俺は、埃だらけの羊皮紙を見ながら思った。
——こんな顔で、誰かに読まれてたんだろうか。
「ノルン様」
「はい」
「もう1葉、あります」
アイリーンは、第三葉を出した。
そちらは、ほとんど炭になっていた。
読めるのは、下の隅の3行だけだ。しかも、その3行は本文ではなく、あとから誰かが書き足した注釈だという。
「書法が違います。本文より、100年ほど新しい」
「なんて書いてあるんですか」
「読めません」
彼女は、初めて悔しそうな顔をした。
「本文は300年前の書法です。これは、それよりさらに古い言葉で書かれています。院の3人も読めません」
「……古い言葉で、新しく書かれてる?」
「そうです。おかしいでしょう」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「誰かが、わざわざ死んだ言葉で、注釈だけを書いた」
俺は、その3行を見た。
読めない。
文字の形は、この世界のものだ。だが並びに見覚えがない。同じ記号が3行のうちに4回出てくる。1行目の頭と、2行目の真ん中と、3行目に2回。
だが、俺の背中の、首の付け根のあたりが、寒くなった。
——なんで俺、これを見て、嫌な感じがしてるんだ。
「写しをもらえますか」
「規則上、できません」
「じゃあ、俺が書き写すのは」
アイリーンは、少し考えた。
「……閲覧中の筆記は、認められております」
彼女は、机から紙とペンを取ってきて、俺に渡した。
俺は、読めない3行を、絵として書き写した。
書き写しながら、俺はもう一つ、頼むことを思い出した。
「アイリーンさん」
「はい」
「本題を忘れてました。セシル・ウェインの処分を取り消す前例を探してるんです」
彼女は目録を引き寄せ、指で3頁めくって、止めた。
「ございません」
「早いですね」
「11年ここにおります」
彼女は目録を閉じた。
「ですが、似た形なら1件あります。104年前、風の中級の詠唱短縮法を院外の職人から教わった助教が、同じ罪状で処分されました。彼は7年後に復職しています」
「どうやって」
「短縮法が院の標準になったからです」
——つまり。
俺は、その意味を、ゆっくり噛んだ。
——セシルを中に戻す道は、1つしかない。
彼女が外で受け取ったものを、院の標準にしてしまうことだ。
それは、俺が9か月、断り続けてきたことだった。
そのとき、階段の上から声が降ってきた。
「ヴォルフ記録官。そちらに、竜を殺した方がおいでですか」
若い書記だった。
彼は鎖の上から、俺に向かって一礼した。
「長老がお呼びです」
「長老」
「グレイス・オルデン様です」
アイリーンが、初めて、俺を心配する顔をした。
「……お気をつけを」
「怖い人ですか」
「いいえ」
彼女は、箱の蓋を閉めた。
「質問しかしない方です」




