36.スミレ参上
竜の後始末に、ひと月かかった。
死体の解体だけで、20日を使った。鱗、牙、骨、翼膜。素材としての価値は、王国の年間予算の何割かに相当するらしい。俺には規模が分からなかった。
分配の議論には、参加しなかった。左腕が使い物にならなかったからだ。
肘から先は、感覚が3割ほど戻った。指は動く。剣は握れない。
「戻りますか」
「戻る例もあります」
治療院の神官は、そう言った。
——どこかで聞いた台詞だな、と思った。
そして、その神官が言った続きが、いちばん効いた。
「毎日、使うことです。使わない腕は、忘れます」
◇
ステインから手紙が来たのは、ふた月後だった。
トトからだった。
字が、下手だった。
◇
『ノルンさんへ
つえなしであるけるようになりました。
まだはしれません。でもあるけます。
けいじばんのしごとを、まだやっています。
マスターがあたらしいわくをつくってくれました。
「たしかめたこと」というわくです。
いまのところ、はってあるのは11まいです。
メルのやくそうのことも、はりました。
あおはいいろのは、やけどにきく。3かいためして3かいきいた。
なまえは、まだありません。
トト』
◇
俺は、その手紙を、3回読んだ。
11枚。
◇
——11枚か。
俺は、指を折って数えた。
俺の頭の中に入っている「確かめられたこと」は、何枚ぶんだろう。
狩場が200種類。スキルの取得条件が87個。魔法の階梯が4段、四元素ぶん。ダンジョンのギミックが、思い出せるだけで40か所。討伐習熟度の境界値が、モンスター200種類ぶん。
数えるのをやめた。
紙にすれば、何千枚だ。
◇
——11枚。
◇
レインの言ったことは、まだ、一つも解けていない。
掲示板に枠は増えた。だがそこに貼られるのは、この世界の人間が自分で確かめたことだけだ。俺の何千枚は、あそこには載らない。載せる方法が、まだない。
俺が死んだら、消える。
その事実は、竜を殺しても、Lv420になっても、1ミリも動かなかった。
◇
セシルの左腕は、痕が残った。
彼女はローブの袖を長くして、それを隠すようになった。
「学院は」
「まだ、停止のままです」
彼女はそう言って、それから、少し笑った。
「ですが、竜の討伐報告書を書いたのは私です。学院は、それを読まないわけにいきません」
「読ませたんですか」
「読ませました」
彼女は言った。
「上級土魔法《巌壁槍》の取得手順を、報告書の末尾に、付録として書きました」
俺は、少し驚いて、彼女を見た。
「……いいんですか」
「あなたが渡した2枚のうち、1枚です」
彼女は言った。
「風のほうは、書いていません。あれは、まだ私のものではないので」
「……」
「土は、私が自分で唱えました。81回、地割れの底で。だから、私のものです」
そういう線の引き方があるのか、と俺は思った。
俺には、その線が引けない。俺が持っているものは、全部、他人が唱えたものの記憶だからだ。
◇
「ノルンさん」
「はい」
「話の続きを、しましょうか」
「……はい」
「今日ではありません」
彼女は立ち上がった。
「あなたの腕が治ってからにします。私は、都合のいいときに人を追い詰めるのは、好きではありません」
彼女は、扉のところで振り返った。
「ですが、忘れないでください」
「はい」
「私は、待つとは言っていません」
◇
ガウスの肋は、3か月で繋がった。
繋がった翌日に、彼は木剣を2本持って現れた。
「坊主。左だ」
「……左は」
「左が使えねえなら、左を鍛えるんだよ。決まってんだろ」
◇
俺が竜骨山脈へ戻ったのは、討伐から4か月後だった。
理由が、一つあった。
第二形態のとき、台座を見て気づいたことだ。
《焔の祭壇》。《静寂の祭壇》。そして、地脈の台座。
——全部、同じ様式の模様だった。
俺は、それを確かめに行った。
◇
火口跡は、ずいぶん変わっていた。
崩れた岩が積み上がって、すり鉢の形が浅くなっている。竜の骨は、もう運び出されたあとだった。
俺は、砕けた台座のひとつに、しゃがんだ。
模様を、指でなぞる。
——同じだ。
祭壇のものと、線の引き方が同じだった。
同じ手が引いた線だ。
◇
そして、台座の下から、地脈の通り道が、下へ続いていた。
竜が吸っていたときは光っていた道が、今は、ただの穴になっている。
俺は、そこへ降りた。
◇
穴は、20歩ほど降りたところで、横穴に繋がっていた。
天然の洞窟ではない。人が掘ったものだ。壁が平らで、天井に補強の跡がある。
100歩ほど進むと、部屋に出た。
3畳ほどの、乾いた岩室だった。
◇
——ここは、入れない。
俺はそう思った。
竜が地脈を吸っている間は、この道は光で満ちていた。降りられない。
竜が死んで、光が消えて、竜の死体が運び出されて、瓦礫が動いて——ようやく、降りられるようになった。
つまり、この部屋に入れるようになったのは、たぶん、この4か月の間だ。
◇
岩室の壁に、鉱脈があった。
赤黒い。火が透けて見える。
《焔心鉱》。
その中央が、抉れていた。
鶴嘴の跡だった。
◇
俺は、その場に、立ち尽くした。
——おかしい。
ここは、竜が死ぬまで、誰も降りられなかったはずだ。
竜が死んだのは、4か月前だ。
だが、この抉れた跡は。
俺は、縁を指でなぞった。
風化している。表面の角が、丸くなっている。
——4か月じゃない。
もっと、ずっと前だ。
◇
そして、俺は、その隣の壁を見た。
炭で、何か書いてあった。
俺は、松明を近づけた。
5文字だった。
◇
『スミレ参上』
◇
膝から、力が抜けた。
俺は、岩の壁に額をつけた。
そして、笑うような声を、喉から漏らした。
日本語だった。
この世界の誰にも読めない文字だ。セシルにも、レインにも、ドロテアにも読めない。
俺にしか、読めない。
つまり、これは、俺に向けて書かれている。
◇
スミレ。
——あの子だ。
カルナスの廃遺跡で、遺跡守りの薙ぎ払いを避けそこねて、吹き飛んだ子。俺が受け止めて、壁にぶつかって、床が抜けて。
落ちる寸前に、俺が仲間のところへ投げ飛ばした、あの子。
——助けたはずだった。
俺は、壁に額をつけたまま、長いこと動かなかった。
◇
——待て。
俺は、顔を上げた。
16か月前、北街道の宿場で、白い髪の女が岩熊を5頭殺した。俺がこの世界に来る、5か月前だ。
そして、この落書きは、それよりさらに古い。
——なんで。
俺は、あの子を投げ飛ばした「直後」に、ここへ来た。
あの子は、投げ飛ばされて、床の上に転がったはずだ。
俺が最後に見たのは、こっちを見下ろしている4つの影と、流れていくチャットの文字だった。
なのに。
——なんで、俺より先に、ここにいるんだ。
◇
俺は、ステータスウィンドウを開いた。
Lv.420
クエストログ
進行中:???
そして、その下。
称号:
俺は、息を止めた。
1年間、ずっと「―――」としか表示されなかったその欄が。
称号:二―――
一文字目だけ、読めるようになっていた。
◇
「二」。
俺は、その一文字を、しばらく見ていた。
◇
——『お前で、二人目だ』
◇
檻の中で、灰被りのジェスタが言った言葉だ。
見たことのない魔法を使うやつは、お前で二人目だ、と。
◇
一人目がいる。
そして、この称号は、それを最初から知っていた。
俺がこの世界に落ちた、最初の日から。
◇
「ノルンさーん!」
上のほうから、声が降ってきた。
「どこですかー! 穴に入るなら言ってくださいって言いましたよね!」
リゼだった。
その後ろで、ガウスの声もした。
「坊主、飯にすんぞー! 干し肉が焼けた!」
「それ、焼く意味あります?」
「うまいんだよ」
◇
俺は、ステータスウィンドウを閉じた。
そして、炭で書かれた5文字に、もう一度、指を触れた。
なぞった。
指先が、黒くなった。
◇
——探すぞ。
俺は、そう思った。
どこにいるのか、分からない。
何をしたいのか、分からない。
敵なのか、味方なのかも、分からない。
だが、この世界に、俺のほかにもう一人、日本語を書く人間がいる。
それだけで、十分だった。
◇
俺は、穴を登った。
外は、夕暮れだった。
崩れた火口の縁に、リゼが立っていた。腰に手を当てて、こっちを睨んでいた。
その向こうで、ガウスが焚き火に干し肉を突っ込んでいた。
もっと向こうで、セシルが羊皮紙に何か書いていた。レインが、それを覗き込んで、何か言っていた。
◇
「ノルン」
レインが、顔を上げた。
「掲示の枠の話だが」
「はい」
「ステインで11枚だそうだな。エルスハイムにも同じ枠を置かせた」
「……早いですね」
「遅い」
彼は言った。
「この国の全支部に置いても、集まるのは年に数百枚だ。お前の頭の中には、その何倍ある」
俺は、答えなかった。
「答えなくていい」
レインは言った。
「間に合わないという話を、俺は今日もしている。それだけだ」
◇
「ノルンさん、何かありました?」
リゼが聞いた。
俺は、少し考えて、こう答えた。
「落書きがありました」
「落書き?」
「はい」
「なんて書いてあったんですか」
俺は、笑った。
「『ここに来た』って」
リゼは、変な顔をした。
「それだけですか」
「それだけです」
「ふうん」
彼女は、それ以上聞かなかった。
◇
俺は、焚き火のほうへ歩き出した。
左腕が、まだ痛む。
ステータスウィンドウには、この世界の誰も見たことのない数字が出ている。
そして、その下の称号欄には、読めない文字が、あと3つ残っている。
◇
——999まで、あと579。
俺は、歩いた。




