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34.知らない動き

竜が、消えた。


火口の底に、直径40歩の穴が開いている。砂が、その縁から中心へ向かって、滝のように流れ落ちていた。さらさらという音が、火口いっぱいに反響している。


さっきまで、そこに黒い山があった。


今は、穴がある。


「……ノルンさん」


リゼの声がした。弓を構えたまま、彼女は穴を見ていた。


「あれ、なんですか」


俺は、答えられなかった。


   ◇


——ない。


俺の頭の中に、この動きは、ない。


3年半。カオスドラゴンを、俺は何十回も倒した。第一形態、第二形態、第三段階の突進。倒すまでの平均47分。攻略の手引きを書いたのは、俺と、俺の知り合いだ。全パターンを覚えている。ブレスの前兆も、爪の回転方向も、翼打ちの硬直も、台座の位置も、弱点の座標も。


その全部の中に、「地面に潜る」という項目は、一行もない。


一行も、ない。


「ノルン!」


レインが叫んだ。彼は火口の東で剣を構えたまま、穴とこちらを交互に見ている。


「次はどう来る!」


俺は、口を開いた。


何も、出てこなかった。


「ノルン!」


「……」


「ノルン!!」


「——分かりません」


   ◇


その一言で、8人の動きが、同時に止まった。


40分間、俺の声だけで動いてきた7人が、その声が消えた瞬間、立つ場所を失った。


砂が、南東で盛り上がった。


「ガウスさん!」


遅かった。


砂の下から、竜の頭が、真上に突き上がった。ガウスがいた場所の、真下から。


黒い巨大な楔が、砂を割って垂直に伸びる。彼の体は、その先端に引っ掛けられるようにして、10歩以上、宙へ投げ上げられた。


大剣が、手から離れて、別の方向へ飛んだ。


彼の背中が火口の岩壁に叩きつけられ、そのまま、砂の上に落ちた。


「ガウスさん!」


俺は走った。走りながら、頭が真っ白になっていた。


——なんで。


——なんで、こんな動きをする。


竜は、また潜った。頭を突き上げたときと同じ速さで、砂の中へ沈んでいく。尾の先が消えるまで、2秒もかからなかった。


砂が、今度は西で盛り上がった。


セシルがいた。


「セシルさん、逃げ——」


間に合わなかった。


突き上げてきた竜の顎の隙間から、赤い光が漏れた。ブレスですらない。ただ、口の中に溜まっていた熱が、こぼれただけだ。


それだけで、セシルのローブが炎に包まれた。


彼女の体が、砂の上を転がった。


   ◇


俺は、火口の底で、立ち尽くしていた。


ガウスが倒れている。


セシルが燃えている。


騎士のひとりが、崩れた砂に腰まで埋もれて、もがいている。


そして、竜がどこにいるのか、俺には分からない。


——攻略情報が、ない。


3年半で積み上げた925レベル分の記憶が、この瞬間、一行も役に立たなかった。


俺は、この1年、ずっとそれで戦ってきた。


谷筋を知っていた。松明の順番を知っていた。108回を知っていた。12本のレバーの順番を知っていた。尾の付け根の古傷を知っていた。


知っていたから、勝てた。


知らないものが来たら。


俺は、何も持っていない。


   ◇


袖を、引かれた。


「ノルンさん」


リゼだった。


彼女は、俺の袖を掴んだまま、火口の底を見ていた。竜がどこにいるかを探しているのではない。もっと近いところ、自分の足元から3歩先くらいのところを、じっと見ている。


そして、こう言った。


「潜る前に、砂の流れが、右に寄りました」


「……え」


「一回目も、二回目も。潜る直前に、砂が右へ流れました」


彼女は、指を差した。


「今も、右です」


そして、言い直した。


「次も、右です」


俺は、彼女の指の先を見た。


砂が。


——流れている。


火口の底の黒い砂が、目には見えないほどゆっくりと、右へ——北へ、寄っていた。


寄っている、というより、引かれている。地面の下で、何かが砂を後ろへ掻き送っている。


「……見えてなかった」


俺は、そう呟いた。


俺は、ずっと、竜を見ていた。


数字を見ていた。行動パターンを照合していた。次に何をするかを、記憶から引き出そうとしていた。


その間、砂を、一度も見ていなかった。


   ◇


「リゼさん」


「はい」


「その後、どっちに出ますか」


「砂が寄った側の、逆です」


彼女は即答した。


「一回目も二回目も、寄った側の逆から出ました。掘った砂を、後ろに送るからだと思います」


「根拠は」


「ありません」


彼女は言った。


「モグラと同じです」


   ◇


俺は、笑った。


こんな場面で笑うやつがあるかと思ったが、笑ってしまった。


モグラだ。


俺の頭の中には、この竜の「実装データ」しかない。


彼女の頭の中には、この竜が「生き物である」という前提がある。


生き物なら、掘れば砂が出る。出た砂はどこかへ行く。行った先の逆から顔を出す。


——そりゃ、そっちのほうが強いに決まってる。


「全員!」


俺は叫んだ。


「南だ! 南に出る!」


「根拠は!」


レインが叫び返した。


「リゼさんが言いました!」


「——了解!」


即答だった。


一拍も、置かなかった。


   ◇


砂が、南で盛り上がった。


そこに、7人が待っていた。


竜の頭が突き上がった瞬間、レインの剣が喉の下に入った。騎士の槍が2本、目の縁に刺さった。ドロテアが鉤爪で鱗を1枚剥がした。剥がれた場所へ、リゼの矢が3本、続けて刺さった。


そして俺が、《竜牙の大剣》を、その一点に落とした。


握らない。乗せる。当たる直前に、小指と薬指だけ締める。


竜が、初めて、大きくのけぞった。


   ◇


戦闘の合間に、俺はセシルのところへ走った。


彼女は、砂の上に倒れていた。ローブの左半分が焼け落ちて、肩から腕にかけての皮膚が、白く変色していた。赤くない。白い。深い火傷は赤くならないのだと、俺はこのとき初めて知った。


「セシルさん」


「……ノルン、さん」


「喋らないでください」


俺は、腰の袋から壺を出した。


青灰色の軟膏。


指で掬って、彼女の腕に伸ばした。


セシルが、息を吸った。


「……痛みが」


「引きますか」


「引きます」


彼女は、自分の腕を見た。それから、壺を見た。


「……これは、何ですか」


「薬です」


「そんな薬は、学院の薬草学にありません」


「ないでしょうね」


俺は、壺の蓋を閉めた。


「15歳の女の子が、13の年から2年かけて、自分の手で試して見つけた薬です」


「……」


「名前は、まだありません」


セシルは、焼けた自分の腕を、しばらく見ていた。


そして、こう言った。


「……付けてあげてください。あなたではなく、その子の名前で」


   ◇


ガウスは、生きていた。


肋が4本折れて、右肩が外れていた。


「坊主」


「動かないでください」


「動かねえよ。動けねえ」


彼は、砂の上に転がったまま笑った。笑うと肋に響くらしく、途中で顔をしかめた。


「なあ」


「はい」


「お前、さっき、『分かりません』って言ったな」


「……はい」


「あれ、よかったぞ」


俺は、彼の顔を見た。


「……よかった、ですか」


「よかった」


ガウスは、痛みで息を詰めながら言った。


「知らねえもんを知らねえって言えるやつは、生き残る」


「……」


「知ってるふりをするやつが、人を連れて死ぬんだ」


   ◇


戦闘は、そこから、さらに30分続いた。


竜は、6回潜った。


6回とも、砂の流れが先に動いた。


6回とも、リゼが言い当てた。


俺は、6回とも、彼女の言葉を疑わなかった。


   ◇


——この30分で、俺は、たぶん変わった。


俺は、剣を振っていた。握らない。乗せる。当たる直前に、小指と薬指だけ締める。ガウスに教わった握りだ。


俺は、走りながら、リゼの声を聞いていた。数字の載っていないほうの声を。


俺は、セシルの《巌壁槍》が来る位置を、あらかじめ空けていた。彼女が詠唱を始めてから撃つまでの3.4拍を、17日の準備で覚えていた。


俺は、レインの剣が入る角度を、塞がないように動いていた。彼が斬りたい線を、王都の空き地で40合やって、知っていた。


——ここで戦っているのは。


Lv925の記憶じゃない。


Lv1から積み直した、1年ぶんだ。


   ◇


そして、竜が、7回目に地上へ出たとき。


そいつは、潜らなかった。


火口の中央に、四肢を踏ん張って、立った。


全身の鱗の隙間から漏れる赤い光が、一気に強くなった。


砂が、竜の足元から、外へ吹き飛んだ。


「……ノルンさん」


リゼの声が、震えていた。


「これは、砂が動いてません」


「知ってます」


俺は言った。


   ◇


「これは、俺が知ってるやつです」


   ◇


【第三段階】


竜が、地脈を全身に纏った。


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