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30.王都エルスハイム

王都エルスハイムは、ステインの40倍あった。


城壁が三重に巡って、その内側に街が層になっている。外環は職人と商人。中環は官庁と学院。内環に王城。


石の色が違う。ステインは赤茶けた砂岩だったが、ここは白い。朝日が当たると、街全体が薄く光る。


「でかいですね」


俺がそう言うと、リゼが笑った。


「ノルンさん、口が開いてます」


   ◇


俺は、ゲームの中でこの街を何百回も歩いている。だが、ゲームの王都は「大きい街」でしかなかった。


現実の王都は、人がいる。朝の市が立っていて、荷車が渋滞していて、子供が石畳を走っていて、どこかで喧嘩が起きていて、路地の奥で誰かが歌っていた。


   ◇


王立魔術院の審問は、到着の翌日だった。


呼ばれたのは、セシルだった。俺じゃない。


   ◇


「どういうことですか」


俺は、学院の門の外で待たされていた。3時間。


出てきたセシルは、顔色が悪かった。


「……セシルさん」


「大丈夫です」


「大丈夫な顔じゃないです」


彼女は、門の階段に座った。


そして、しばらく黙っていた。


   ◇


「北街道の件は、400人が見ています」


彼女は言った。


「学院に報告が届かないはずがありません。『炎の竜巻を起こした男がいる』と」


「はい」


「学院は、それを『上級以上の術』と判断しました。そして、その男が、私と同行していたことを掴んでいました」


「……はい」


「私に、こう聞きました。『あなたは、その術式を記録していますね』と」


俺は、息を止めた。


「答えたんですか」


「記録していると答えました」


「セシルさん——」


「嘘をつけば、学院への背信になります。私は術師である前に、学院の人間です」


彼女は、まっすぐ前を見ていた。


「そして、こう言われました。『提出しなさい』と」


「……」


「私は、断りました」


   ◇


俺は、彼女の横顔を見た。「なぜですか」


「あなたが、拒んだからです」


「俺は」


「あなたの理由には、まだ納得していません」


セシルは言った。


「ですが、私は、あなたが自分の口で言える日まで預かると、あの船で言いました」


「……」


「言ったことは、守ります」


   ◇


「学院は、なんと」


セシルは、少し笑った。笑い方が、うまくいっていなかった。


「学籍を、停止されました」


   ◇


俺は、その場に立ったまま、動けなかった。


「……停止」


「無期限です。復籍には、記録の提出が条件です」


「セシルさん」


「20年です」


彼女は、膝の上で手を組んだ。


「5歳から20年、通いました。あの門を、何千回もくぐりました」


「……」


「今日、初めて、くぐらせてもらえませんでした」


   ◇


俺は、彼女の隣に座った。


言葉が、一つも出なかった。


「ノルンさん」


「……はい」


「これは、あなたのせいではありません」


「俺のせいです」


「いいえ」


彼女は首を振った。


「私が選びました。断ったのは私です。あなたに責任を負わせるのは、私が選んだことを、私から取り上げることになります」


——ああ。


俺は、そのとき、はっきり分かった。この人は、俺よりずっと強い。


   ◇


「ただ」


セシルは、立ち上がった。


そして、俺を見下ろした。


「一つだけ、言わせてください」


「はい」


「私が今日払ったものは、あなたが独り占めしていることの、代金です」


   ◇


「私は、あなたを責めません。ですが、事実は事実として、置いていきます」彼女はローブの裾を払った。


「あなたが決めたことの代金を、今日、私が払いました」


「……はい」


「次に誰が払うのかは、私も知りません」


   ◇


その夜。


俺は、王都の宿の部屋で、ひとりでいた。


戸が叩かれた。


「入るぞ」


レインだった。酒瓶を2本持っていた。


彼は甲冑を脱いでいた。麻の上着に、革の帯。そうして見ると、本当にただの19歳だった。


「飲め」


「未成年——」


「なんだそれは」


「……いえ」


   ◇


俺たちは、窓の縁に座って、王都の夜を見ていた。灯りが、地平まで続いていた。


「北街道の件は、騎士団でも議論になった」


レインが口を開いた。


「『あの男を軍に取り込むべきだ』という意見が出ている。かなり強く」


「……」


「俺は反対した」


「なぜですか」


「お前が、軍で使えるものではないからだ」


彼は酒を飲んだ。


「軍というのは、順番の集まりだ。誰が倒れても、次の者が同じことをする。だから軍は続く。お前は、その形をしていない」


俺は黙っていた。


レインは、少し間を置いて、こう続けた。


「ステインで、お前を近道屋と呼んだ」


「はい」


「取り消さない」


「……はい」


「だが、あのあと、報告を読んだ」


彼は指を折った。「駆け出しの少年に、20日間、毎朝付き添ったそうだな。剣を教えず、ただ隣を歩いたと」


「……調べたんですか」


「調べた」


「趣味が悪いですよ」


「よく言われる」


   ◇


「それから、掲示板に貼った紙も読んだ」レインは言った。


「鉄の採取点。買取の実勢。あれで、ステインの駆け出しの日銭が21銅貨から63銅貨になった」


「はい」


「そして、いちばん下に、こう書いてあった。『私の情報は、今日のものです。明日のことは知りません』と」


彼は、俺を見た。


「あれを書いた理由を、聞きたい」


   ◇


俺は、少し考えて、正直に答えた。


「俺の言うことを、鵜呑みにされたことがあるんです」


「……」


「それで、人が死にました」


   ◇


レインは、しばらく黙っていた。それから、酒を飲んで、こう言った。


「お前が近道を通っているのは、変わらない」


「はい」


「だが、誰も置いていかないのも、見た」


「……」


「それは、認める」


   ◇


俺は、少しだけ、息が楽になった。


——だが、それで終わりじゃなかった。


「ただし」レインは、酒瓶を窓枠に置いた。


「俺が言ったことは、取り消さない」


「……近道屋、ですか」


「違う。そっちじゃない」


彼は、まっすぐに俺を見た。


「お前のやり方では、お前しか強くならない」


   ◇


「北街道で、お前は群れを一撃で焼いた。見事だった。400人が助かった」


「……はい」


「だが、あの日、お前がいなかったら、400人は死んでいた」


「……」


「そして、次に同じことが起きたときも、お前がいなければ死ぬ」


彼は言った。


「お前が死んだら、この世界には、何も残らない」


   ◇


俺は、答えられなかった。


——セシルが今日、学籍を失った理由が、まさにそれだ。


俺が独り占めしている。


独り占めしているものを、俺は渡せない。渡し方を知らないからだ。出所を説明できないものは、制度に載らない。


だから、俺が死んだら、消える。


   ◇


レインは立ち上がった。「答えなくていい」


「……」


「今の話は、俺が勝手に言っている。お前に義務はない」


彼は戸に向かい、振り返らずに言った。


「だが、俺は、お前に死んでほしくない」


「……」


「近道屋」


彼は、少し笑った気配がした。


「今のは、悪口ではない」


   ◇


レインが出ていって、しばらくして、また戸が叩かれた。


ガウスだった。


「坊主。あの騎士、帰ったか」


「今、出てきましたけど」


「じゃあ入る」


彼は勝手に入ってきて、勝手に椅子に座った。肋はまだ治っていない。息をするたびに少し顔をしかめている。


「聞いてもいいか」


俺は身構えた。


「はい」


「いや、聞かねえ」


「……え」


「聞かねえって話をしに来た」


ガウスは腕を組んだ。


「俺はな、坊主。お前に一度も、レベルを聞き直さなかっただろ」


「……はい」


「あれ、なんでだと思う」


「無粋だから、と」


「それもある」


彼は、少し窓の外を見た。


   ◇


「若いころ、相棒がいた」


「……」


「俺より2つ下でな。始めたのも遅かった。それが、2年で俺を追い抜いた」


「……」


「俺は、そいつが何か隠してると思った。裏で誰かに金を積んでるとか、いい師匠がいるとか、そういうことだと」


彼は指を組んだ。


「毎日、それを疑った。3年疑った。しまいには面と向かって聞いた」


「……なんと」


「『お前、何を隠してる』ってな」


ガウスは、しばらく黙った。


「そいつはな、何も隠してなかった」


「……」


「ただ、俺より上手かっただけだ」


彼は言った。


「翌週、そいつは俺のところを出ていった。それきりだ。3年後に、北の遠征で死んだと聞いた」


   ◇


「だからな、坊主」


彼は立ち上がった。


「二度とやらんと決めたんだ」


「……ガウスさん」


「お前が何者でもいい。俺は、お前が飯を美味そうに食うのを知ってる。それで十分だ」


   ◇


彼は戸に手をかけて、そこで一度だけ、振り返った。


「ノルン」


   ◇


俺は、顔を上げた。


坊主、じゃなかった。出会ってから半年、一度も呼ばれたことのない呼び方だった。


「……はい」


「明日、飯に付き合え。奢れとは言わん」


   ◇


戸が閉まってから、俺はしばらく動けなかった。


あの人が「坊主」と呼びはじめたのは、俺が「24です」と嘘をついた日だ。


——ずっと、取っておいたんじゃないか。


   ◇


その夜、俺は宿の一階の酒場に降りた。


リゼが、隅の卓にいた。


「あ、ノルンさん」


「まだ起きてたんですか」


「待ってました」


彼女は椅子を引いて、俺を座らせた。そして、いきなり本題に入った。


「わたし、そろそろ答えが聞きたいです」


   ◇


俺は、天井を見上げた。


——半年だ。


初めて言われてから、半年経っている。


その間、俺はずっとはぐらかしてきた。とぼけて、かわして、周りが笑って、それで済ませてきた。


だが今夜は、笑って済ませられる気がしなかった。


「……あの」


「はい」


「もうちょい、待って」


出てきたのは、17歳の声だった。


低くて太い、ノルンの声じゃなかった——気がした。実際には同じ声のはずなのに、俺の耳にはそう聞こえた。


リゼは、目を丸くした。


「今の」


「……なんですか」


「今の、なんか、子供みたいでした」


「気のせいです」


「気のせいじゃないです」


彼女は身を乗り出した。


「ノルンさん」


「はい」


「わたし、待ちます」


彼女は言った。


「でも、あなたが死んだら、待てなくなるので。それだけ覚えといてください」

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